敢国神社 あえくに
旧称 南宮明神
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鎮座地 三重県伊賀市一之宮877
ご祭神 主神 大彦命
  配神 少彦名命
     金山比
例祭日 十二月五日(獅子神楽)
 式内社。敢国神社は、中世には少彦名命あるいは金山比命と考えられてきたが、明治七年(1874)以降は江戸時代の度会延経《わたらいのぶつね》説をとって、四道将軍の一人として北陸地方を平定し、阿倍臣・伊賀臣の祖となった大彦命とされた。国府の地に鎮座し、『延喜式』では大社に列した。また伊賀国一宮・総社として崇敬され、江戸時代には上野城鬼門の守護神として歴代藩主に保護された。なお社殿北方の前方後円墳御墓山古墳は大彦命の陵墓という。

【御由緒】
 当社は、古来伊賀の国の一の宮として、当国の人々の総鎮守大氏神として、仰ぎまつってその霊徳も浴してまいりました。
貞観の頃には神階五位を授けられ、延喜の制には大社に列せられました。また延長年間には朝廷より社殿が修造せしめられ、南北朝時代には後村上天皇が行幸ましまして、数日間参籠あらせられ、社領の御加増もありました。徳川時代には藩主藤堂家の崇拝厚く、社殿調度の修営・神器社領の寄進・祭儀神事の復興等が行われました。明治四年五月国幣中社に列せられ今日に至っております。

【敢国神社 略史】
 当社は今から1300年以上前に創建されました。くわしくは7世紀の中期、658年という年に創建されました。
 創建当時は大彦命・少彦名命の二柱で敢国神社が創建されました。
 創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命(おおひこのみこと)は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和国に生まれた方だとありますが、大和朝廷創建期の武人として、その子建沼河別命(たけぬまかわわけのみこと)と共に北陸東海を征討する役目を負われ、四道将軍の一人として、第10代崇神天皇の命を承け日本の東国の政略を果たされた方です。この大彦命が大和朝廷に帰服(第7代孝霊天皇時)して以来、伊賀の国を本貫の地として駐屯され、事実上の伊賀の領主であり、子孫は伊賀の国中に広がっていきました。伊賀の国の阿拝(あえ)郡を中心に住居したため阿拝氏と名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安倍(あべ)と呼ばれるようになりました。あべ氏の総祖神でもあると共に伊賀人の祖神でもあります。

 古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が多数住んでおり、彼等が信仰する神が当社の配神である少彦名命(すくなひこなのみこと)でありました。当時は現在の南宮山頂上付近にお祀りしていましたが、創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りして現在に至っています。私達伊賀人はこの二神の混血の民族でもあります。

 創建後、南宮山の少彦名命の社殿が山の下に遷された跡地は、新しい神社創建に当たっては混血の一族の有力者の人達の頭を悩ましたことであろうと思われます。結局、美濃国の南宮社の社神である金山媛命(かなやまひめのみこと)を、旧少彦名命のお社に勧請致しました。
 この頃「南宮山」という名がついたのではないかと推測されます。
 その南宮山の金山媛命が、敢国神社の本殿に合祀されたのは、創建時より319年後の977年のことです。
 ある日突然金山媛の社殿が、激しい音をたててゆれ、止むと同時に社前の御神木の幹に、虫食い痕が文字となって現れ「興阿倍久爾神同殿」という八文字でした。神官の報告を受けた当時の伊香守高則は、早速主家の藤原兼家に報告、直ちに神慮に従って金山媛命の遷座合祀が行われました。
 こうして当社は三神をもって敢国神社・敢国津大神(あえくにつおおかみ)となって現在に至っております。
〜この項 伊賀一の宮 敢国神社 パンフより抜粋〜
境内社・末社

大石社

市杵島姫社

むすび社
縁結社 本殿西方に御鎮座の縁結社は縁結びの神として信仰が厚い。

若宮八幡社

神明社

楠社
 南宮山上に御鎮座の木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと・安産の神)を祀るこの浅間社から遷したと伝う霊岩で今も安産の守護神子授けの神として信仰をあつめています。

桃太郎岩
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