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当社はもと海士御前と称していたのを明治二年海士潜女社と改称したもので、『志陽略誌』に「八皇子社国崎村に在り、亦神明熊野権現伊雑宮弁財天鏡宮牛頭天皇白鬚明神八幡宮蜒御前山神社等あり」と見える延御前がそれで「外宮旧神楽歌」にも、 「国崎にはつヾみの御前、白髭の御前、つるぎの御前、ひめ社」とあり、ひめ社が当社のことである。主祭神の潜女神とは、倭姫命巡行の時に御贄の鮑を捕って献上した、潜女お辨(お弁)のこと。 |
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![]() 「昭和十五年海士出稼一同」の銘がある。 |
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拝殿入口は引き戸になっており、拝殿の正面には大きな鮑の貝殻が飾ってある。 |
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![]() 拝殿向かって左手の「神宮遙拝所」 |
![]() 右手に「宮城(皇居)遙拝所」 |
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国崎、海士潜女神社と倭姫命に鮑を奉献した伝説の海女「お弁さん」、また神宮に鮑熨斗が奉献された起源について |
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神事、婚礼など目出たき儀式に用ふる、鮑熨斗の起源は、遠く垂仁帝の御代に在り、傳説によれば、皇女倭姫命が、伊勢神宮の御饌の供料調査のため、船に乗り志摩国の海濱巡遊の折、国崎村の海濱に怪しげなる婦人の、海を潜りて漁どりを為しつつあるを御覧あり陸に上りて岩石に腰を据え、親しく其作業を臠《みそな》はせらるる内、彼の婦人は、貝類を夥《おびただし》く捕りたれば、命は打興ぜられ、何呉れと其婦人に問はせられ、其貝は鮑といい、人の食料にすべきものと分りければ、命は神宮の御饌に供すべき由命じ給ふ、此頃は今の如く行通の便なき折、殊に夏は腐敗し易ければ、生のままにては宇治まで持行く事叶はねば、之を薄く折《へ》ぎて乾したれば、久しきに堪ゆべしと申上げ、斯くして上納すべき旨御受申上げ、夫より後之を熨斗鮑といい、最格なる儀式により、村内の事業として年々神宮に奉献する事となれり、命の腰掛け玉ひし岩を腰掛岩といい、其の濱を御潜《みかづき》の濱といふ、又御潜神事と称し、古来国崎村を始め、其付近の蜑婦相集り、毎年六月一日熨斗用の鮑を採る神事あり、警固のため役人出張し、荘厳なる儀式の下に之を行ひ、而して其の製造は独り国崎に於て為せり、是れ倭姫命の故事あるに由る、それかあらぬか、志摩各地の蜑婦中、尤も鮑取の作業に熟練なるは、国崎に如くものなし、実に国崎の蜑婦は先天的の技能ありというべし。殊に倭姫命当時の蜑婦は、同村の辻清助の娘にてお辨といひ、其裔惣助とて今に歴然と一家を為し居れり、其後お辨を蜑婦の祖神として祭り(以下略)とある。 |
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