女郎石さん

鎮座地 三重県津市美杉町石名原
       (スポーツ公園内)

Google マップ(to:女郎石弁財天)

 美杉村の伝説に「女郎石さん」というのがある。南北朝時代、建武の乱に都を逃れた二人の姫が、北畠氏を頼り伊賀越えをして辿り着いたのが、石名原だった。
 姫と石神との奇譚。
姫と石神の伝説に、隣の奈良県宇陀郡御杖村には「姫石明神」というのがあって倭姫伝承の一であるが、この話も似たところがある。この辺りは石神にまつわる伝説が他にもあるようだ。興味をそそられるじゃあないか。
 早速、姫と石神の伝説が数多く残るといふ 「女郎石さん」を尋ねてみた。

 「女郎石さん」の伝説というのは下記の次第。

 「女郎石縁起」(元 伊勢国一志郡石名原村)(※注釈は管理人)
 美杉村逢坂峰の麓に女郎石さまという小さいホコラがあって、土地の人が祀っている。大道路から山手へ進む事数百米の所で社前には男根の石が沢山ならべてあります。
(※残念ながら、現在はない)
  此の女郎石の由来を尋ねてみると、昔竹姫、豊姫とゆう美人があって、時のミカドが大変可愛がっていました。ところが、建武の乱に都を逃れ内舎人虎五郎、ワニ五郎がお供して伊賀越えで北畠を頼って来ました。ところが奥津と多気の境の飼坂の番所がきびしく通ることが出来なかった。やむを得ず道を変えて逢坂の地に来て、御殿をつくりました。
これを今宮といいます。其の頃疫病が流行して虎五郎、ワニ五郎は程なく相果てました。
 然るに竹姫、豊姫は不思議に助かったのであります。そこでうまく命をひろたとて広田という地名が残って居り、虎五郎を葬った所は今は田になって虎田、ワニ五郎の所をワニ田といって残って居ります。
 それから竹姫は安住の地を求めて峠を越え、八知老ヶ野へ移りました。豊姫はここに止まり、虎五郎、ワニ五郎のボダイの為石塔を建てたのが石仏と称して残りました。
 豊姫は日夜はるか彼方のミカドを思い、すぎし栄華の夢をおって暮らしました。昼は山野に出て毎日遊び、或る日奇石を発見、それを殊の外愛し、心うとうとしい日は其の石のあたりに遊び、それをなでました。其の石琴ひき、笛ふき、歌い舞おどる心地したので手なき石(タナキ石)と名づけられ、ある時は、うせぎのこひつ石に遊んだ。
(原文のまま記載)此の石は長持に似て居ましたが今に天狗の休岩と名づけて居ります。
 尚此の山の岩はいいでき平でこひらいしといいますが、こうべひらいしとの事であります。ある時はイチ井谷へのぼって遊ぶこともあったといいます。
(此の地にイチ井もなく、イチ井の木も残って居りませんが昔はイチ井の大木があって名付け、後いちの谷といったとも考えられ、今そこに立石不動があります。これも信じたと伝えられます。)
 又岩神霊符神というのもあって北極星をまつってあります。これも信じたそうです。
尚姫は里人に
 “われ幸いなるかな、三ッのいのじの里(せの国、ちしの郡、しなはら村)に住む、われみまかりなば手(ト)なれ石のあたりに葬りたまわれ”
と語ったとの事です。姫なくなってから幾年かの後、よなよな 彼の手なれ石の傍から光り物出で、数十人の美女と化し、三味をひき、うたい、おどり、里にまでうかれでし事数十夜あった。其此をなづけて女郎畑と申すとの事です。
 又それは笠をきておどったから笠がくぼと申し伝うるのであります。
   おもしろの石名原
   千代万代くちせぬは、
  此の三ッ石のくどくならん
   あらたのもしの石名原
 此の歌、踊りは里人相伝えて後の世まで伝えて来たとの事です。併享保年中以後は絶えました。笛、太鼓の賦は庄右衛門子吉左衛門の作といいます。

 おどりや死後美人達のこと紛失、
 さて其の後手馴石(豊姫の身魂石と思われる)の辺に不浄を浸すと忽オコリ(おこり・【瘧】マラリアに似た一定の周期で高熱が出る病気。疫病も同じ病気を指した)をわづらい、手足等が痛んだとて人々近づく事をおそれました。
 此の神秘なる石を盗まんとするおおそれた者があらわれました。それは寛政丙の春隣村の住持で深夜強力者大勢引きつれ盗みとる支度で近づいたところ、あやしい光る者石から飛び出で、里中へ浮遊するや何処からともなく人波おしよせて住持ら一行をおし返しました。其の後其の住持は井戸に落ちて死亡しました。里人は神罰だとおそれたとの事です。
 夫から近隣近郷へ霊験あらたかな事聞え、信なれば徳あり、幸来ると願い、参詣の人々シモ露いとわず夜毎に来て大繁昌し、誰いうともなく女郎石弁財天女と仰ぐ事となりました。毎年祭日には里人が参詣して賑わいます。文中三ッのいし、三ッのいの字のつく所はいせの国、いちの郡、いしなはら村よりなし。(以下略)


 右側手前に鳥居があり、その向こうに手水舎がある。拝殿向かって右側に木札が掛けてあって、墨書で「女郎石弁財天」と書かれてある。拝殿奧に本殿の扉が見えた。
 本殿の扉前に御幣が立ててあり、その向こうに手馴石なる「女郎石さん」が安置されていると思われる。
 拝殿の隙間からも裏側に回っても女郎石さんを見ることは出来ない。
拝殿の傍には、案内板が設置されている。

 何故、女郎石さんと呼ばれて祀られるようになったのか。
 豊姫さんが亡くなったとき、手なれ石の辺に葬られたが、その時大きな女郎蜘蛛が出て来て、石の下に潜って行った。そばに居た人々は
『豊姫さんは女郎蜘蛛になって、石の中に入っていったのだな。』
と見て、それから「女郎石さん」と呼ぶようになったいう。
 姫の死後、心ない人によって、手なれ石が他の地に移されそうになったが、失敗に終わりこの地におさまっている。又はやり病が流行する度、逢坂の人々は軽く治り、里内は争うことなく平穏無事に過ごすことが出来たという。これは豊姫さんの霊験だろうということで、姫を神様として祀り、姫が愛した手なれ石を御神体として、石が動かなくなった所に社を建てて治めたという。

 小さな石だろう(失敬)と思いきや、立派な社殿にお祀りされている「女郎石さん」だった。女郎石さんへ行き着いたものの手なれ石(女郎石)は、本殿の中にあるので見ることは出来なかったが、地元の人達が女郎石さんを大切にお祀りされている様子が伺える。社殿は、美杉のスポーツ公園内の奥まったところに鎮座する。
 例祭日は四月の第一日曜日。
 ごくまき(餅まき)がある。

 他方、逢坂で別れた竹姫はどうなったのかというと、これもまた伝説が残っていた。

「虫送り縁起」
 逢坂で豊姫と袖をわかった竹姫は峠にのぼりました。頂から老ヶ野の里を見おろすと真正面に陽あたりのよい民家が見えました。
 それから間もなく姫は其の家の表に立ち一休みをこいました。
 うすぎぬの上衣をはおり、見なれぬ旅姿の姫を見て其の家の主人は驚き、天女と思い恐る恐る屋内へ招じ入れました。
 姫は番茶にのどをうるをしながら過ぎこし方を細々と主人夫婦に語りました。夫婦は尊敬と同情に涙を流し長くとゞまる事をすすめました。姫は其の愛情にほだされて其処に旅装をときました。都しかも殿上から山間の農村に来た姫はすべてがめづらしく夢の様に月日はたちました。
 ところが奧一志の稲田に病害虫があり凶作の兆しが見えました。幾度か害虫に苦しめられた人々は其の駆除に頭をなやましました。其の時其の家の主人おもうには
“竹姫さまは家来の皆が疫病に斃れたのに感染もせず元気であった。きっと虫よけの神力をもっているにちがいない”
と、そこで里人とはかり姫になぞらへて藁人形(そうれい)をつくり、まぢないにホトの毛三本を貰って封じ込み、村人は手に手にタイマツを持ち、人形を先頭に“オンヤレ、ユキヤレ”と唱へながら七月十三日夕刻老ヶ野を出発して村境まで虫を送った。道々参加者が加わり、紅々とたいまつの火は燃え、延々と続き竹原境まで見事に行列がありました。不思議にも効果適面、さしも旺盛を極めた病害虫も退散、豊作でありました。
 村人は姫に感謝すると共に秋祭りを盛大に行い舞い狂いました。
姫の存命中こうして虫送りをしましたがそれからも続いて毎年行いました。そして其の家の妻女の毛をもらって続けましたので其の家の妻は無毛の人はなれなかったとの事です。
 竹姫の住んだ家だから屋号を竹屋とよんで、姫を葬った塚としてまつりました。
先年姫の冥福を祈って中村家では“南無阿弥陀仏”の墓石を建てました。姫のまとった美衣はカクレミノと言って竹屋に保存されていましたが或る年盗賊が来て何処へか持ち去ったと伝えられています。
 同家には菊と桐の紋の箱が今も有り、又屋根の煉瓦は菊の紋(十六花弁)が古色蒼然と朝日に浮き出で、古い立派な庭園があります。尚波籠方面でも虫送りをしましたが矢張り竹屋の毛をもらった人形だったと古老は言って居ります。


 逢坂で別れた豊姫は石名原に留まり、不思議な石と出会って、死後神として祀られた。他方、竹姫も老ヶ野の地で心優しい夫婦と出会って、老ヶ野の地に留まった。
 二人の姉妹はその後、逢坂で会ったのか。記録がないので定かではないが、竹姫もまたその神力を認められ、虫送りをおこなっている。近年まで続いていたという。

 しかし、なんですな。女性の毛には魂が宿ると申しますが、舟玉に女性の毛髪を納める例もございますが、ホトの毛なんぞというシロモノは、強力なんでしょうな。
 女陰といいますと、それだけでもう呪詛ですからねぃ。
とんとん。

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