● 弘法大師の石仏

 大字山粕の字いの谷に俗に「地蔵畠」という阿片家の畠がある。地蔵像も安置されている。室生寺の末寺で明治大正の頃まで参拝者に朱印帳に朱印を押していた。
 ある日一人の行者が阿片(あがた)家をおとづれた。行者は、白い着物を着て、背中に大きな荷物を負っていた。上品な人であった。
「あがたさんの屋根の上からまばゆいような脚光がさし、神様が出たり入ったりしていらっしゃる。本当にありがたいお家である。」
という。朱印を押してやると、弘法大師の石仏を刻んで、阿片の家に残して立ち去った。県シゲ女(明治九年生ー昭和十七年没)は晩年神仏の信仰、特に篤く室生寺弘法大師を信仰し、神下りして、病人を加持して、無欲にして人にほどこすことを徳としていた。世の人は「神さま」といった。阿片家が戦後、上海から帰郷し、東条貫一さんの口から神よせの話を聞かされ、霊の世界のあることを信じなければいかなかった。神よせといって八百よろずの神さまがおいでになる。その時、仮の姿をシゲ女の体をかりて現され、神さまがつぎつぎと名のりされて、酒や餅を所望される。それをシゲ女が、つぎつぎと食べていくわけであるが、その時は、小さな体に、小じゅうたんに何ばいもの餅と酒を飲んでしまうが、どこに入っていくのか別に苦痛も感じないで平気な顔をしていたという。不思議なことである。
 (曽爾村史より)


● お亀池に、にげた蛇
 大字山粕の念仏寺で僧正が念仏をあげていると、とつぜん美しい姫が逃げこんできて
「追われているから命をたすけてほしい。」
と頼んだ。僧正はあわれに思い姫を鐘楼につれていき、つりがねを下ろして、その中にかくした。間もなくあらあらしい音がして大きな蛇が寺の中に入ってきた。姫のいないのを知ると、つりがねのまわりを何重にも蛇の体でまいてしまった。大蛇は幾日たっても、そのとぐろをほどこうとしなかった。僧正は、三日三晩、読経を休むことなくつづけた。大蛇は、法力に感じたのか、ついにとぐろをといて寺を出ていった。そしてお亀が池に帰っていったということである。
 (阿片万平氏の話/曽爾村史より)

● 天からふってきた、杓子
 弘安四年(1281)の春の出来事であった。蒙古から大軍が攻めよせてくるというので、世の中は、そう然として人びとは不安に包まれていた。山粕の道は、相かわらず伊勢まいりの人達がそれぞれの思いを秘めて街道を通っていた。思い荷物を背負って、金剛杖をついた行者の姿も、多く見られた。
 この時、急に空が真っ黒になり、強い風が吹いてきた。台風である。そしてあがた家の屋根の上に大きな、杓子(しゃくし)が飛んできて、屋根の上にまい下りた。人の背丈ほどもある大しゃくしである。行者が伊勢まいりをして、あたった矢が、神風にのって飛んできて、天からふってきたという。その大しゃくしには、弘安という年号が入っている。そして今も倉の中に眠っている。木のしゃくしである。その年あがた時秀は四十才で、弘安の後に出陣して戦死している。あがた家に出陣の詔書があった。そのしらせの矢であったのであろうか、国難のある時は、必ず天照大神が神風を起こして、難をのがれさせて下さると信じていた。当時の人達の神風に関する伝説であろうか、古老たちは実際にあったことと信じている。
 (阿片万平氏の談/曽爾村史より)

● あがた家
 大字山粕に阿片(あがた)という姓の家がある。もと県(あがた)と書いた。大むかし、大和に六つの県(あがた)があり県主がいた。その中に菟田(うだ)の県主があった。しかし阿片家は、その菟田の県主ではなく猛田(たけだ)の県主の孫だという。というのは山粕はもと、竹田の庄といった。それは猛田県主の山林や田畠が多く領有していたからである。中将姫が日張山にかくまれた時にあがた家の先祖が姫を守護した。また先祖の県興嗣が室生寺の再興にもあづかっていた。仏隆寺の建立にも力を注いだ。県時秀は弘安の役に参加して軍功をたて弘安四年六月二十一日四十一才で歿している。明治四年の戸籍作成の時に県を阿片に姓を改めた。県は一字であるから書きにくいので阿弥陀の「阿」と片方の「片」をとって「あがた」とよませることにした。当時の風調として古い物を、こわそうとした考えで、現戸主万平氏の祖父の文内が改姓したという。(曽爾村史より)

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