● 阿知賀物語 (吉野郡下市町阿智賀<あちか>)
 昔、応神天皇は、御母神功皇后の三韓征伐の成功をみづから吉野の山神にご報告になったことがある。
 先づ、川下の今の宇智郡五條町須恵に於て、祭典に要するすべての物を調べられた。それで其地を『すべ』と云ったが、其後『すゑ』と変った。次に吉野川天神の裏を渡って、吉野川南岸の野原町に出で、野原をよこぎり、奥山を経て、白銀(しらかね)村の白銀ケ岳に登り、地祗を祭られた。今の白銀神社、波布得の神を祀った所である。
 又次に、峰伝いに小銀ケ岳に登り、天神を祭られた。今の栃原岳である。
こゝで厳かな山神御報告の祭典がすんだので、其祭具を、向うに見える高山、今の櫃ケ岳に納めるようによう、村人に命ぜられた。白銀ケ岳栃原岳、櫃ケ岳を、吉野の三岳といっている。この時、奉仕の村人は、特に祭具中の一櫃を頂戴して、宝物とした。其地が白銀村大字唐櫃、現に唐戸という所である。これより、御一行は、下市町の善城の八幡、及び城山八幡の地を経て、今の阿知賀に着き、こゝで戦勝を祝賀された。今の八幡神社の地であって、勝賀宮ともいう。
 この時、村の翁どもは、お祝いの宴にはべり、様々の歌謡や踊りを奏した。
 其所を今は1 葛上神社という。次に椿の渡しを渡って、吉野川の北岸に出で、大淀町檜垣本八幡宮の地で、次の畝傍山の祭典の用意をされた。此地は其『ひもろぎのみかき』であった所から、ヒガイモトという名が出た。今に、なお畝傍山の神功皇后の宮の祭には、こゝの川の水を汲んで差上げている。皇后の凱旋上陸の地たる※2 摂津の住吉の祭りの時には、今も畝傍の火が用いられている。以上の由来から、善城下市阿知賀檜垣本の八幡宮を、吉野四座の八幡と昔からいう。白銀小銀にも、八幡を相殿としている。 (山本輝子)
 
※1 葛上神社…大字阿知賀の岡垣内に通じる道路の南西に鎮座する「国栖神社」(國栖神神社)のことと思われる。土俗に「クズガミサン」と称している。
※2 摂津の住吉…大阪市住吉区にご鎮座の「住吉大社」のこと。

● 千石橋の由来 吉野郡下市町下市
 吉野川を挟んで、南に下市町、北に大淀町があり、其間をつなぐ橋を千石橋(センゴク)という。
 昔、楠正行が、最後に吉野に参向する時、一族郎党は僅か百四十余騎に過ぎなかったが、正行は智恵者であったから、数の隠密の眼を欺くために、附近の民家から、古草鞋を千足集めさせて、橋上にならべ、将士が皆其所で草鞋をはきかえたようによそはうた。それまでは、此橋を檜橋といっていたが、それからセンゴク橋というようになった。
 後、元亀天正の戦国のころ、織田信長の命によって、筒井伊賀守が吉野郡を取りに来た。吉野方は大将堀小次郎は、家老廣橋矢五郎、矢三郎の兄弟を率いて防いだが、小次郎は今の烏尾の『小次郎松』のところで討死にし、廣橋兄弟は筒井氏に降参し、吉野八郷は、遂に千石の米を奉納することを誓い、この後、豊臣氏の時まで継続した。この米を渡すことによって、センゴク橋は、千石渡台の橋といわれ、ついでセンゴク橋といわれる様になった。
(山本輝子)

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