◎ 法力のしるし
 高僧を好遇又は冷遇した結果、其法力によって、永久に好い事や悪い事が其地方に残ることになったとの傳説は。到る處にある。水に関する者は前章に載せたが、こゝには其他の者の一斑を集めて記す。

(1)菩提山の二度なり栗 (添上郡五箇谷村菩提山)
 昔、添上の田原、山邉の福住の一帯に、非常な飢饉があった。こゝへ廻って来た弘法大師が、是は気の毒ぢゃ、一時の凌ぎとなる様にと云って、二度なり栗を植えられた。今も添上の菩提山一帯に。二度なる栗が沢山自生しているのは、其名残であると云う。(中尾新緑)
(2)五ヶ谷村と弘法大師 (添上郡五ヶ谷村)
 五ヶ谷村大字北椿尾の大久保垣内の話。昔、弘法大師が急な地蔵坂を登って、この垣内に来た時、のどが渇いたので水を請うたが、其家の主婦は、大師の身なりが乞食の様であったので、之を拒んだ。大師は何かまじなひをして去った。それで此垣内は今に水が無く苦心して他から用水を引いている。
 又大字興隆寺では、民家で休ませてくれた報いに、茶碗を置いていった。高岡という家に数年前まで有ったが、子供が割ったそうである。猶、外の家にも傳はっているという。
 又大字米谷《まいたに》の大道という所へも廻って来られた。すると其處の家が食うに困っていたので、そこの山奥の栗を、年に二度ならしてやると言われた。今も二度づゝ栗がなっていると云う。(磯田勸)
(3)上垣内と下垣内の桃 (山邉郡丹波市豊田)
 昔、弘法大師が、豊田の下垣内に来て、桃を呉れと云った。下垣内の子供等は、大師とは知らず、桃をやらないで散々悪口した。大師は、是からこゝでは桃はならぬぞ、と云っておいて、上垣内にまわった。
 上垣内の子供等は、望まれるまゝに桃を呉れた。大師は、こゝには今から好い桃をならしてやるぞ、と云って立ち去った。
 それで、今も上垣内では好い桃がなるのに、下垣内では出来ない。(乾健治)
(4)瀧本の二度柿 (山邉郡丹波市瀧本)
 昔、瀧本の懸橋の辺で。百姓が柿を食って居ると、弘法大師が来て、一つ呉れと云った。百姓は快く其意に従った。大師は満足して、以後こゝの柿は、一年に二度なるようにしてやろうと云った。それで、現に二度なる柿が其地方にはある。
 (乾健治)
(5)山邉郡東里村の二度栗
 昔、東里の峯山で、二人の子供が、栗を取って居る所へ、弘法大師が来て、一つ呉れと云った。子供は快く取った栗を全部与えた。大師は大変喜んで、
 「ボンよ、此山の栗だけは、年に二度なるようにしてやるぞ。」
と云って去った。其翌年から栗は果して二度なるようになった。(松田岩男)
(6)山邉郡波多野村の二度栗
 昔、二人の少女が、馬尻山で栗採りをして居ると、弘法大師が通りかゝり、一つ呉れと云った。少女の一人はだまって居たが他の一人は直に承知して、採った栗の内で一番美しい大きいのを差出した。今日のお礼には、今後毎年、二度づゝ栗をならせてやろう、と大師は喜んだが、今も波多野の廣代、菅生、葛生の地方では。春と秋との二度、栗がなって居る。
(樫村政次郎)

(7)渋いナツメ (磯城郡纒向村江包)
 昔、江包の長谷川堤で、百姓がナツメを取って居る所へ、弘法大師が来て、一つくれと云った。百姓は邪魔くさかったので、此ナツメは、渋うて食へまへん、と断った。それ以来、こゝのナツメは渋くなり、今も其木がある。(武田降巌)

(8)向淵の柿と栗 (宇陀郡産本末村向淵)
 昔、弘法大師が巡錫して、向淵に来た。里人等は、大師に柿を奉つたが、桃を奉らなかった。それがために、今でも向淵には柿はよく熟するが、桃は熟しない。
 (吉岡正一)
(9)敷津の三たび栗 (宇陀郡御杖村神末、敷津)
 敷津にミタビグリと云うのがある。木は数多くあるが、皆、下方から花を開いて実を結んで行き、秋末までに三度アガる。(アガルとは、みのる、収穫できるの方言。)
 昔、弘法大師がこゝに来たとき、何やら気に入った事があったので、斯うして下さったものだと傳へられる。(高田十郎)
(10)桃のならぬ栗野 (吉野郡上龍門栗野)
 栗野地方には、幾ら桃を作っても落ちてしまって熟しない。是は昔、一人の乞食が来て美しく熟しているのを見て、一つ呉れと云ったが、誰も遣る者がなかった。乞食は直きに何処かへいってしまった。是から今の様になったので、其乞食は弘法大師だったからだと云う。
(池窪秀一)
(11)桃のならぬ檜垣本 (吉野郡大淀町桧垣本)
 檜垣本では、昔から桃がみのらず、皆ヤニで落ちてしまう。是は昔、弘法大師が来て、一つくれと頼まれたのに、村人達が一人も与えなかったので、大師が怒って桃の実のるのを封じられたからだと云う。(小林幸治良)

(12)ヤネ桃と鷲家ヨモギ (吉野郡高見村鷲家)
 鷲家では、桃は花は咲くが、実はヤネ桃ばかりで皆落ちてしまう。そして、見事なヨモギが沢山出来て、他所の人まで『鷲家ヨモギ』ともてはやして、摘みに来る。 是は昔、弘法大師が廻國してきた時、よい桃のなった家で。のどが渇いたから一つ呉れといったが、其家の主婦が、惜んで出さなかった。又次の家では、丁度ヨモギの餅をついて居り、大師の何ともいわない先に、
 「おツさん、一つおあがり。」
と云って差出した。それで大師が此土地の桃とヨモギとを今のようにしたからだと云う。(註)ヤネはヤニ。おツさんは和尚さん。(樋口輝美)

(13)蛭が血を吸はぬ村 (吉野郡大淀町檜垣本)
 檜垣本《ひがいもと》では、ヒルが一つも血を吸わない。よく視ると口のあたりが曲がっている。是は昔弘法大師が廻って来られた時、清らかな水が流れていたので、口をつけて飲まれた所が、口のはたにヒルが吸付いた。大師は腹を立てゝ、ヒルが血を吸うことを封じられたからだと云う。(小林幸治良)
(大和の伝説 増補分)
◎ 法力のしるし
(増1)福住の二度栗
 天理市福住の字心棒大師に、二度なる栗がある。外輪坂を上ってこられた弘法大師に、遊んでいた子供が栗をさしあげた。大師は喜んで二度なるように秘法をされたという。
(天理市史による)
(増2)弘法大師とあんず
 昔、天理市岩屋町で、子供が大ぜいあんずの木に登って実をとっていた。そこへ大師がお通りになった。大師がさも欲しそうに見ていられるので、ひとりの子供が
 「和尚さん、あんずやろけ。」
といて一つ上から投げた。大師は両手でうけられた。そして、
 「一年に二度なるようにしてやろう。」
といって、米谷の方へ行かれた。今でも年に二度なるという。(天理市史による)
(増3)苦い大根
 弘法大師が修行の行脚をして桜井市の粟殿《おうどの》にこられた。婆さんが大根を引いていたので、
 「のどがかわいて困っているんだが、その大根を一本めぐんで下さらんか。」
と頼まれた。婆さんは、
「お前なんかにやる大根はないよ。のどがかわいているんなら、川の水でも飲んできなさい。」といって、せっせと大根を引いていた。大師は、
 「そうか、わたしのような身なりの貧しい者にやる大根はないのか。来年からこの村に大根ができないようにしてやる。」
といって立ち去られた。それから粟原では大根が細くなり、味も苦くなった。
 (桜井市史による)
(増4)針穴のかやの実
 桜井市粟原<おおばら>の氏神の境内にかやの大木がある。このかやの木は、不思議にも針で穴をあけたような黒点があるので、針穴のかやの実といっている。
 昔、ひとりの旅僧が、村人の厚いもてなしのお礼に、持って歩いていたかやの実を下さった。後にこれが弘法大師とわかり、かやの実を食べるのはもったいなく思い、今の地にまいた。それがこの木になったのだという。(桜井町史続による)
(増5)粟原のとうきび
 昔、ひとりの旅僧が桜井市の粟原を通られたので、村人はありあわせのとうきび団子のはいったおつゆをもてなした。僧はたいそう喜んで、
 「この村には、とうきびがどこにでもできるようにしてやろう。」
といわれた。その人が田のあぜにとうきびをまいてみると、たいへんりっぱにできた。これが村中にひろがって、今も粟原の田のあぜには、毎年はたはたととうきびが風にゆれている。(桜井町史続による)
(増6)ちまきを作らぬ村
 
春日山原始林を超すと、奈良市誓多林《せたりん》町があり、端午の節句に、ちまきをつくらない農家がある。これは昔、弘法大師が諸国を回ってこの地にこられた時、ある農家がちまきをつくっていたので、弘法大師は空腹のあまりそれを請うたが、そこの人は何と思ったのか断わった。そこで大師は、
 「そのような心がけなら、ちまきも蛇になってしまうだろう。」
といって立ち去った。驚いて釜のふたを取ってみると、ちまきがみな、蛇となっていた。それから、この土地の人々は弘法大師の神通力を恐れて、ちまきを作らなくなったという。
(大谷進一)
(増7)また
 
昔、五月の節句の日に旅僧が榛原町の足立へ托鉢にやってきた。しかし、その村人は僧をもてなさず、節句に作ったちまきを与えようともしなかった。旅僧はしおしおと立ち去った。年が明けてつぎの年の節句になって、ちまきを作ろうと思って米をむすこしきを立てていたが、この村全体のこしきが立たない。この時の僧は弘法大師であったという。それからちまきは現在でも作らないことにしている。
 (菅谷文則)
(増8)柿と桃
 
弘法大師が室生村の向淵へ巡錫のおりに、里人が大師におもてなしをした。その時、大師は、柿はおあがりになったが、桃は食べられなかった。そのために、この土地では柿はよく熟するが、桃はよく熟しないといわれている。(高岡哲二)
(増9)里芋のできない村
 
弘法大師が宇陀郡御杖村の神末に杖をつかれ、空腹を覚えて里の人に芋粥を請われた。里人は惜しんで、こころよくさしあげようとはしなかった。大師は悲しげにこの地を去られたが、後にこの土地に芋はできなくなった。(岡本伸平)
(増10)阿知賀のやに桃
 
下市町の阿知賀には桃の木が育っても、やにが出て、よい桃ができないといわれている。これまでも吉野川沿いの河原畠などで、大規模に桃の果樹園を経営しようとした人があったが、全部失敗して、今では桃の木が一本も残っていない。これはみな、弘法大師が巡錫にこられた時、みごとな桃がなっているのを見て、一つ下さいと所望されたが、惜しんであげなかったためと伝えられている。
 (大和下市史による)
(増11)よもぎの苦いこと
 
昔、弘法大師が黒滝村の粟飯谷を通られた時、ある家でよもぎ餅を食べていたので、「よもぎ餅を一つくれ。」
といわれた。ところが、その家の人は、
 「この餅はにがいから食べられない。」
といってさしあげなかった。それからこの土地のよもぎは、苦くなったという。
 (山上尖)
(増12)桃のならぬ所
 
弘法大師が西吉野村(旧賀名生村)の大日川《おびがわ》にこられた時、ここにたくさん生《な》っている桃を一つ欲しいと所望されたが、里人はくれなかった。それ以来、大日川には桃ができなくなり、たといできても脂桃《やにもも》しかできないようになった。(中富兵衛)
(増13)弘法大師の休場
 山添村(旧波多野村)の春日に、昔、弘法大師が休んだという、きれいな草原がある。真夏の蚊の多い時期でも、ここには一匹も蚊はいないという。
 (杉本弘・峯憲二)
(増14)手形石
 
五条市の寒村、旧阪合部村大深の谷底に、谷大深という十数軒の部落があり、和歌山県の橋本市から委嘱されて、ここの児童は大深小学校へ通っている。その谷大深の中央の道ばたに、牛の寝たような巨石があり、牛形石といっている。昔、弘法大師が巡錫された時、くさったよごみ餅(よもぎの餅)を奉謝したが、大師は立腹せず、「ああきたないよ。」といって、その石に手をなすられた時の手の形だという。
 また、弘法大師が夏でも蚊帳を用いないようにと加持されたので、今でも蚊帳をつらずに過ごしている。(亀多桃牛)
(増15)蚊のいない所
 
弘法大師が高野山にのぼられる途中、西吉野村(旧賀名生村)の賀名生を通られた。大字向賀名生にさしかかった時、日が暮れてしまったので、村の人に泊めてもらおうと思って、その由を語られた。ところが村人は泊めなかったので、牛小屋でも馬小屋でもよいから泊めてくれといわれたが、それでも泊めなかった。それでやむなく野原に寝られた。それがもとで向賀名生は牛も馬も飼えない。また、大師が寝られた場所は今でも盛り上がっていて、夏でも蚊が出ないという。(中富兵衛)
(増16)また
 吉野郡野迫川村今井は、もとミマイといったという。それがいつか今井というようになった。たいへん蚊の多いところであったが、弘法大師がこれを祈って伏せたという。
(宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)
(増17)居安土川のヒル
 弘法大師が諸国巡錫のみぎり、下市町阿知賀の居安土川のほとりをお通りになると、田の中で働いていた人が、
 「ヒルが吸いついて困る。」
と話していた。そこで大師は、
 「よしよし、わしが吸わないようにして進ぜよう。」
といって、田の中のヒルを手にとられ、人間の血を吸うな、といって頭をひねられた。それから居安土川の県道から下流、桝井氏所有の約三〇〇アールの田のヒルは頭部が曲がっていて、人に吸いつかないという。
 一説に、弘法大師が居安土川で手を洗っておられた時、ヒルが吸いついたので、悪いやつだといって頭をひねられたともいわれる。(大和下市史による)
(増18)下市町石堂谷のヒル
 弘法大師が石堂谷をお通りになり、流れで手を洗っておられると、ヒルが寄ってきて血を吸った。大師はお怒りになって、ヒルを封じこめられたので、今でも石堂谷にはヒルがいないという。(大和下市史による)
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