● いかるがの里 (生駒郡法隆寺村)
 法隆寺の所在地付近を、昔は『いかるが』と呼んだ。イカルガとは、ジュズカケバトのことである。昔、聖徳太子が、法隆寺伽藍建立の候補地を求めて、ここに来られた時、イカルガ群が空に舞って、大使に霊地の所在を教えた。それで此地名が出たという。(栗山膽陽)
● 業平姿見の井 (生駒郡法隆寺村並松)
 並松《なみまつ》の松林が尽きる所に、業平姿見の井がある。河内通いの時に毎々姿を映していった所だという。(森本種次郎)
● 大和に蚊の多いわけ (生駒郡生駒山)
 昔、文武王とて、大変に人間の生き血を吸うことが好きな王様があった。家来達は非常に心配し、皇太子と謀り、其王様をあざむいて、生駒山に連れ出し、一つの大きな岩屋の中に這入らせて、急にうしろから戸をしめてしまった。
 家来達は皇太子に、『決して、あの岩屋をおあけになってはなりません。』と止めて置いたが、三十日程たった後、もうあけても大丈夫だろうと思って、皇太子が密かに岩屋の戸をあけられると、ブンブンと唸りをあげて、幾万とも知れぬ蚊が飛び出した。文武王が蚊に化した者である。それで、今でも、大和には殊に蚊が多いのである。(宮武正道)
● 鶏の飼へぬ処と食へぬ処 (生駒郡南生駒村及龍田)
 クラガリ峠は南生駒村の西畑から河内に超える奈良街道上の有名な峠である。昔、神功皇后が三韓征伐に向かわれる時、朝の鶏の声を合図に西畑を出発ということになっていた。ところが、鶏は鳴いたが、余り早過ぎて、幾ら往っても夜が明けない、とうとう峠の頂まで登ってしまっても尚暗かった。それでクラガリ峠という名がついた。
 それから、此の様な役に立たぬ鶏は捨ててしまえと云うことになって、東の生駒川へ捨てた。生駒川の下流は龍田川である。ここで龍田の神さんが、可愛そうだからとて、其鶏を拾い上げて養われた。それで今も龍田では鶏は飼うが、神さんの可愛いがられるものだから、一切その肉は食わない。そして西畑では鶏は飼うことはないが、役に立たないで捨てた程の者だから、殺して食うことはかまわない。
 (大内忠方)
● 鶏を飼ふ処と飼はぬ処 (生駒郡生駒町及龍田)
 右(上記)の伝えと少し異なったのは、右(上記)の南生駒村の上流、生駒町奥菜畑《おくなばた》地方にある。
 生駒地方一帯は、鶏を飼わない。飼えば其家に災厄がある。下流の龍田では沢山に飼う。是は、昔、生駒の氏神の神功皇后が、三韓征伐にゆかれる時、早く起きようと思って居られたのに、時を歌う鶏が朝寝をして、役に立たなかったので、皇后は怒って、鶏を生駒川に流され、龍田の宮さんが、之を拾い上げられたからだと云う。
(奥野繁雄)
● クラガリ峠の由来 (生駒郡南生駒村、暗峠)
 クラガリ峠の名の由来には、右(上記)の外に尚こうも言われる。昔、生駒郡の郡山城を築いた時には、其材木を、皆この峠の山林から取った。それくらい昔は善く茂って、かくも暗いほどであったから、此名が出た。(大内忠方)

 又こうも言われる。昔、彼の僧の道鏡が、和気清麻呂を大隅に流し、つづいて人を遣って、此の峠で暗殺させようとした。ところがにわかに物凄い雷雨が起こり、天地が真っ暗になって、清麻呂は危難を免れた。其時クラくなったからクラガリ峠となったと云う。(久保田安太郎)
● 鬼取山と髪切《こうぎり》山 (生駒郡生駒村鬼取)
 役《えん》の行者《ぎょうじゃ》は、大和の吉野郡山上山《さんじょうさん》を開く前に、生駒郡の鳴川《なるかわ》山を開いた。更に其以前の事に、左(下記)の如き伝えがある。
 役の行者は、大和の国の今の南葛城郡掖上《わきがみ》村茅原《ちはら》で生まれ、七歳の時から金剛山で法起菩薩を師として、二十二歳まで修行した。其年の或夜、夢枕に孔雀明王が立って、
 『天下広しといえども、孔雀明王の巻物を伝うべき者は、汝より外にない。速やかに摂津の国箕面の辯才天に参れ。』
と告げられた。之を法起菩薩に告げると、菩薩も亦喜んで箕面行きを許された。こうして、箕面山に於いて更に七年間修行の後、孔雀明王の巻物と秘法を授けられた。其夜再び孔雀明王が夢枕に立って、
 『大和の国生駒山に、二匹の鬼があって人を取る。汝、今授くる所の秘法の中、不動緊縛の法を以て両鬼を捕へ、住民を救へ。』
とある。行者は、教えのままに生駒山に来たが、容易に其鬼が見付からない。そこで、二十一日の間、山に籠もって行をすると、満願の日になって、二匹の鬼が行者を取って喰おうと相談し、みづから其前に現れて来た。行者は、今ぞと不動緊縛の秘法を行った。鬼共は忽ち身体がしびれて、歩くことも出来なくなり、遂に我を折って髪を切り、役の行者の弟子となることを誓った。是が即ち前鬼《ぜんき》義覺、後鬼《ごき》義賢である。
 今も此の山を鬼取山といって、生駒山の東南にある。生駒郡南生駒村鬼取という部落も残って居る。(※現在の生駒市鬼取町)又、暗峠《くらがりとうげ》の西北五丁にある河内の髪切山は、両鬼が髪を切った所といい伝えられる。(宮前正一)
● 元山上の由来 (生駒郡平群村鳴川)
 役の行者が、鬼取山で、二匹の鬼を捕らえ、その髪を切って弟子にしてから、され何処へ行こうかと考えながら、其夜は其場に野宿した。すると其夢に、宇佐八幡生駒明神が立たれて、南二十丁の深山に行けと示された。即ち今の生駒郡鳴川である。
 山には、一面にウルシの木が茂って居て、方角も分からない。そこへ現れた一人の老僧がある。其示しに従って、或方向によじ登ると、特に大きな一本のウルシの木があって、四方に光明を放って居る。見ると十一面観音であった。役の行者は感激して礼拝賛歎するうち、観音は天上された。そこで行者は其木を伐って、拝んだままの十一面観音の像を刻んで本尊とし、堂を建てて更に修行を続けた。是が行者二十八歳の時の事であった。
 行者は、ここで四十二歳まで修行を積み、さきのウルシの木の残木で、己が像を刻み、それから吉野の大峰山に登って、ここを開いた。即ち金峯山寺の奥の院・山上山である。其鳴川山を立つ時、後世の女人の為に、雌松を植えておいた。それで此の鳴川山を、元山上とも女人山上とも云うのである。(宮前正一)
● 生駒の鳴川 生駒郡平群村鳴川
 平群村の最北、南生駒村の境に鳴川と云う大字がある。戸数十四、五で、生駒山脈の高所である。
 役の行者が、この山を開き、行場を造った時、永年此山に棲んで居た大鬼が、強く反抗して、いろいろと邪魔をした。役の行者は、持前の慈悲心から、鬼どもを咎めずして、諄々とさとされたけれども、鬼はどうしてもきかない。さすがの役の行者も、たまりかねてあの強力で、遂に鬼と格闘したので、鬼は負けて、不思議な声で鳴きながら、生駒川を下って行った。それで、ここを鳴川という事になった。
(上田良信)
● 罰に焼かれた米 (生駒郡、信貴山)
 信貴山《しぎさん》上の城址の土を掘ると、焼けたモミが出てくる。是は、昔この地の人々が、不信心であったので、山の毘沙門さんが怒って、一郷の米を集め、末世の戒めにと、焼棄てられた。其名残であるという。(毘沙門天は、此山の朝護孫子寺の本尊である。)(山田熊夫)
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