◎ 霊泉
高僧の法力により新に湧出した清水、井戸、池などゝ云うのが、到る處にある。そして其高僧というのが、大抵は弘法大師となっている。

(1)奈良東大寺眞言院の弘法井戸
 眞言院境内には、弘法井戸というのがあり、其井舎は鐘楼を兼ねて居る。昔、天竺の善無畏三蔵が来朝した時、畝傍の久米寺の東塔の礎に、密経を納め、天竺無熱池の水を奈良の地に埋めて置いた。其後、弘法大師が久米寺で其密経を捜り出し、更に無熱池の水を求めようと思って、彼處此處と試掘し、四十八ヶ所目の此地で遂に目的を達した所だと云う。(高田十郎)

(2)奈良福井町不空院の一夜ノ井
 不空院境内には、弘法大師一夜の井というのがある。(高田十郎)

(3)奈良三條樽井町のタル井
 樽井町にある井戸は、弘法大師が、初めカスリ井というのを掘って、興南院等の閼伽水にしたが、猶不足なので、更に之を掘って補充した。それで用がタツたから、タル井と云った者だと云う。(高田十郎)
(4)奈良北市町の大井戸
 北市の大井戸は、深さ三十余尋、最近まで付近五十余戸を養って居り、元旦には金の鶏が鳴くという霊水だが、弘法大師の築造だという。(高田十郎)
(5)奈良芝辻町の大井戸
 芝辻の大井戸も亦弘法大師の掘った者という。町の北側にあって、近年まで活きて居り氷室祭と漢国祭には、神幸の際にも一役を持つ場所であったが上水道の普及と共に、全く閉塞されてしまった。(高田十郎)
(6)添上郡大安寺村の石清水井
 大安寺の村中、字ヒラキに、深さ六尺、方三尺許りの井戸がある。石清水井と呼ばれる。昔、大安寺の行教和尚が、九州宇佐の八幡宮を、寺の鎮守として勧請し、つゞいて山域の石清水に遷した。其時、こゝにお手水の水が無かったので、和尚が、獨鈷で松の木の下をついて、湧出させた清水だと云う。(中尾新緑)
(7)添上郡辰市村東九條の弘法井戸
 東九條は、大安寺の南に在る村、こゝに弘法井戸があって、現に村人に使用されて居る。昔、弘法大師が、こゝに廻っていった時、のどが乾いたので、水をくれと云って或家に入った。
 「このあたりは、水がわるいので。」
と云いながら、老婆が差出した水は、成程、『たれ水』であった。哀れに思って、其時大師が村の入口に掘ってくれたのが、此井であった。(中尾新緑)
(8)添上郡帯解町の廣大字池
 東九條で井戸を掘って置いて、弘法大師は、更に東南方の帯解《おびとけ》の方に廻っていった。途中の平田で又一軒の家に入ると、こゝも老婆一人しか居ない。怪んで譚を聞くと、「このあたりは、水がありまへんので、田植がすみますと、毎日々々水かへに行かねばなりまへん。内の者も皆行きましたんで、私一人留守をして居ります。」
と答へた。大師は又あはれに思ひ、百姓共の為に、大きな池を掘ってくれた。今、関西線・帯解駅の西側にある池はそれで、初め大師の名を記念して『弘大池』といったが、其後今の通り『廣大字池』になった。(中尾新緑)

 此池は、初め大師が其手に持っていた錫杖を、グルリと今の池の周囲に当るだけ、引いて廻ったら忽ち出来た者だとも云う。(中島亀一)
(9)弘法大師杖つきの泉
 生駒郡郡山町矢田筋に、弘法大師杖つきの泉がある。大師が、世の旅人の為に、杖で道ばたの土手を一突きして、湧出させた者という。(小島千夫也)
(10)生駒郡平群村椿井のツバキ井
 椿井には、ツバキ井ドという井戸がある。弘法大師の掘った所、傍に美しい椿の花が咲く。(植田良信)
(11)山邉郡二階堂村北菅田の勝泉井
 北菅田の字清水に、勝泉井《せうせんいど》というのがある。弘法大師が、村の百姓家で、水を請うと、如何にも悪い水であったので、其場で錫杖を以て堀出したのが此清水である。(乾健治)
(12)磯城郡城島村の粟殿の井
 城島《しきしま》村粟殿《おうどの》、奈良街道の東側に、周囲二間半、深さ五尺位の泉がある。良い清水が滾々として尽きず、曽て涸れたことがない。昔、弘法大師が、こゝに廻って来て、ひどく渇を覚えたが、生憎、水が無かったので。錫杖のさきで地上に輪郭をかいて、里人に掘らせたのが此井だと云う。現在、其傍には神様が祀ってある。(米田理八)
 又、別の傳へでは、大師が廻って来た時、お布施をすると、大師は大に喜び、此村で、一番不自由な者は何か、と聞いた。
 「ハイ、水の不足には、村中難渋して居ります。」
と答えると、それではと云うので、一夜の中に掘ってくれたのが此井だと云う。
 (小島千夫也)
(13)磯城郡城島村粟殿の井
 昔、粟殿で、婆さんが大根ひきをして居る所へ、弘法大師が廻って来て、のどが乾いたから、大根を一本くれと云った。婆さんは、のどが乾いたのなら、川の水でも飲めと云って、大根をやらなかった。是から粟殿で出来る大根は、皆細くて苦くなり、大師が水を飲んだ所からは、清らかな水が湧出した。後に村人が、其所に井を堀り、傍にお大師さんを祀った。今も村の大半は此水に頼り、殊に夏には遠方からも汲みに来て居る。(西久保奈良石)
編者曰、右1213とは、同一場所の事か、又は別の場所の事か、明瞭を欠くが、今は姑く報告のまゝを載せておく。

(14)高市郡畝傍町及眞菅村の七ツ井戸
 畝傍山の北麓なる畝傍町山本、同西北麓なる眞菅村大谷、其他この両町村にかけて、七ヶ所の井がある。七つ井戸と総称し、皆弘法大師の掘った所、実に良い水が豊富に湧き、如何な旱魃にも変らない。中にも山本の井は、大師堂の横にあって、殊に名高く、七つ井戸とは此井戸一つの事だとの説さえある。山本一ヶ大字は、全く此水に頼って朝夕を送って居る。大谷の井なども、大谷は勿論、遠く其西北に離れた慈明寺の大字からも汲みに来て居る。昔は、畝傍山に登る者は、山麓の七つ井戸の水を浴びて、先づ身を浄めるのが定まりだったと云う。(崎山卯左衛門)

(15)弘法大師お教への井 宇智郡及吉野郡
 大和・紀伊の境上、待乳《まつち》峠に、弘法大師お教への井というのがある。大師が、初めこゝに来て水を請はれたが、不自由らしいのを見て、清泉の出るところを教へられたのに始まるという。
 この外にも、大師の示しによって出来た井というのが、此付近に数々ある。
 宇智郡阪合部村の火打の山の頂上。
 仝郡宇智村三在の上垣内《うえがいと》。
 ウグ井戸。
 吉野郡賀名生の井。
 サラギ地方の井。
 白銀《しらかね》岳の井。
などである。(田村吉永氏調査に據る。高田十郎)

(大和の伝説 増補分)
◎ 霊泉

(増1)沾間《うるま》の清水
 奈良市東九条町の東の方にあって、村道の南側、忠魂碑の隣にうるまの清水がある。弘法大師が掘ったという話は添上郡辰市村東九條の弘法井戸に出ているが、この清水はお茶によく合うというのでよく汲みに来た。これを汲みにくる女官に、松の木から鬼の面をつけて、おどかしたものだという。(辰市村史による)
(増2)安堵の太子井戸
 聖徳太子が斑鳩から明日香へ行き来された時、安堵村はその道筋であったという。ここの極楽寺は太子が建てられたと伝えるが、今は荒廃して丈六の阿弥陀像だけが残っている。この寺を中心に太子は五つの井戸を掘られたが、この五つの井戸に限っては水は清く、こんこんとして渇したことがなかったという。今は井戸側だけが面影を留めている。(辻本忠夫)
(増3)滝本の清水井戸
 天理市滝本町の字針尾にある清水井戸は、弘法大師が杖で掘られたものである。今は共同井戸になっている。(天理市史による)
(増4)釜口の弘法井戸
 天理市柳本町の東、釜口長岳寺の大門の前の根上りの松の近くに清水涌きあふれる井戸があった。昔、弘法大師がここへこられて、ある百姓家で一ぱいの水を乞われると、おりから昼食の仕度をしていた娘が、火を消して水を汲みに出たが、なかなかもどってこない。それでうちのお婆さんに叱られた。太子はこれを見て気の毒に思い、二度、杖で岩間を突かれると、水が吹きだしてきた。村人はそれを手杓で汲んで大いに喜んだという。(天理市史による)
※ この井戸は最近、道路改修に際して埋められてしまった。
(増5)八井内の井
 桜井市の八井内は昔は寺口、または東口といったこともあり、多武峰の盛んなころは繁昌した町であった。この村の山ぎわに八つの井戸があり、現在も六つは村人に使われている、弘法大師が全国行脚の途中、この辺に清水がなかったので、水の涌くところを八つ教えて下さったという。(桜井町史続による)
(増6)大野の臍井不動
 大野寺の境内に接して、いぬいのすみにある。弘法大師が自然の岩間に不動明王(長さ一メートル)を彫刻してお加持せられると、清水がこんこんとわき出た。水は今に絶えたことがない。世にこれを臍井の不動さんといっている。(乾健治)
(増7)小屋の弘法の井
 御杖村神末の小字小屋は大洞《おおぼら》山の傾斜面にあって、昔から良水に乏しい。弘法大師がこの土地に杖をひかれ、時に渇を覚えて、野にある百姓に水を乞われた。百姓は良水の乏しいことを語り、ねんごろにおわびをいった。大師はこれを哀れみ、杖を土深く立て、
 「わがなきあとも、水豊かなれ。」
と仰せられた。たちどころに良水があふれ、それ以来百年、量質ともに小屋第一の井という。(岡本伸平)
(増8)耳成山の七つ井戸
 耳成山に七つ井戸がある。今その四ヵ所だけ現存している。橿原市の木原にある弘法井戸は、弘法大師が掘られたという。真夏でも、この井戸水はかれたことがない。(乾健治)
(増9)下田の弘法井戸
 香芝町下田の山崎に弘法井戸という井戸があり、付近の人たちの共同井戸になっている。昔、弘法大師が通りかかられて、水を飲みたい、とおっしゃったところ、山崎のお婆さんは水がなかったので、わざわざ遠い川から汲んできて与えたが、中に「かわだねし」がはいっていたので、山崎の人たちが水がなくて困っていることがわかり、杖で掘って下さったという。(中田太造)
(増10)下田のいやあんの井戸
 香芝町下田の中筋町に「いやあんの井戸」というのがある。つまって「やあの井戸」ともいう。山崎の弘法井戸はよく湧くので、水に困っていた中筋町の人たちは、お大師さまに、井戸を掘って下さいと頼みに行った。お大師さまはたいへんに忙しくて、「いらん」とおっしゃった。それでも無理に頼んで掘ってもらったが、いらんと思って掘って下さったので、「いやあんの井戸」というのだそうである。
 (中田太造)
(増11)馬場の弘法井戸
 香芝町穴虫東の馬場、山口神社の前に弘法井戸がある。昔、弘法大師が巡錫《じゅんしゃく》の際に掘られたものであるという。今もこんこんと湧いている。もとこの村には弘法井戸が六つあったという。新畑の尻の井戸はいま埋められてしまった。(二上村史による)
(増12)上加守の弘法井戸
 当麻村の上加守に弘法井戸というのがある。昔、弘法大師が巡錫の時に、悪水に苦しむ村人を見て、秘法をもって清水を掘られたものだという。
  (当麻村誌による)
(増13)有井の弘法井戸
 高田市有井の磐園《いわその》小学校西東方に弘法井戸というのがある。弘法大師が掘られたと伝えられ、小堂を設けて保存されている。井戸の西方に道場という地があり、弘法大師が仏堂を建立された地であるという。(大和高田市史による)
(増14)五条の桜井戸
 五条市の商励会通りの中ほど、ちょうど坂の中腹を少し東へ入ったところに桜井戸というのがある。ここは今でこそ旅ゆく人の目にとまらないが、昔は紀州街道に沿うていたのだから、多くの旅人ののどをうるおしたことであろう。昔、弘法大師がお通りになった時、一ぱいのましてくれと、おりから水汲む人にいわれたら、
 「さあ、くらい。」
といって飲ましてくれたので、今もなお当時を思い出すために「桜井戸」ととなえ、そこに祠を建てて、大師をお祭りした。(香久山昌純)
 また、弘法大師がここを通って路傍の老婆に水を請われた。老婆は吉野川まで水を汲みに行って、大師にふるまった。大師はその親切と水の不便なのに感じて、お礼にと、杖でその地をつかれると、水がこんこんと湧き出した。これが桜井戸であるという。(吉川星一)
(増15)車太の岩井
 五条市車太の岩井は大和志によると秀泉井の一つで、弘法大師の巡錫の時、この井戸を掘られたという。(亀多桃牛)
(増16)峰山の大師井戸
 昔、弘法大師が下市町の石堂谷と丹生の境の峰山の頂上へこられた時、たいへん咽喉が乾き、水が欲しいなと思われた。杖の先で土地をつかれると、地中から水が吹き出した。今でも山の頂上に美しい水が湧き出していて、大師井戸と呼ばれている。(大和下市史による)
(増17)阿知賀の大師井戸
 下市町阿知賀には、瀬の上・西中村・上村・野々熊・岡の五垣内に弘法大師が開いたという井戸がある。いずれもきれいな水が湧き出ている。岡以外の四垣内の大師井戸には、かたわらに弘法大師の石像を祭り、毎年四月二十一日のお大師の日にはお祭りをして、握り飯を子供たちに喜捨する。瀬の上の井戸は、どういうわけか、水につかった石は赤く色がついている。(大和下市史による)
(増18)上坂の弘法井戸
 下市町龍泉寺の前にも弘法大師が掘ったという井戸がある。
  (大和下市史による)
(増19)石堂谷の大師井戸
 下市町の石堂谷と丹生の境の峰山の頂上には大師井戸があることは前記したが、石堂谷ではこれを、石堂谷の大師井戸とよんでいる。(大和下市史による)
(増20)新住のなら井戸
 下市新住の専念寺の門前にきれいな水の湧き出る井戸がある。弘法大師に教えられて掘ったといわれ、新住でも一番水のよい井戸である。
  昔、ある夜、この井戸に大きな火柱が立った。一かかえもある大きな火柱が七日七晩燃え続けた末、ついに佐名伝《さなて》の方へ倒れた。そのため寺から西北方にあった民家はすべて焼けてしまい、それからここに家を建てる者はなくなったという。(大和下市史による)
(増21)衣染の井戸
 下市町阿知賀小学校南側の梅本氏の田の隅に、昔、小さい井戸があった。弘法大師がここで衣を染められたといい伝え、非常に金気が強く、黄褐色を呈していたという。(大和下市史による)
(増22)黒木の七つ井戸
 下市町(旧丹生村)の黒木に弘法大師が七つの井戸を掘られた。それは現在の東谷の井戸・花谷の井戸・竹谷の井戸・玉泉寺のおぶく井戸・辻本の井戸・風呂井戸・福本井戸の七つである。今も澄みきったきれいな水が湧き出ている。(山上尖)
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