● 光を放った石仏
 御所市玉手町(旧南葛城郡掖上村玉手)
 玉手の満願寺に「放光現瑞の石仏」といって、逗子に安置された不思議な石が祭られている。りっぱな光背のある台座の上にのせられていて、人々の信仰を集めている。昔、この寺の住職、繁誉《はんよ》上人が円光大師の御忌法会≪ごきほうえ≫を営んだ通夜の晩、上人が夢のような気持ちでまどろむと、どこからか異様な音楽が空にひびき、紫雲たなびき異光を放ち、この石仏が出現した。この奇瑞が本山の知恩院にもきこえて、「放光現瑞の石仏」という名をもらったのみならず、藩主桑山下野守から、逗子の寄付があり、入仏供養の式がおごそかに行われたという。
 (池田末則)

● たらいの森 御所市玉手町(旧南葛城郡掖上村玉手)


たらいの森
 玉手の西北にたらいの森というのがある。修験道の開祖、役行者は茅原≪ちわら≫寺で生まれたが、その誕生の時、産湯を浴せられたたらいを埋めたというので、土地の人はこれをたらいの森といい、霊蹟としてあがめている。
 (吉村定治郎・瀬川敏夫)

● 杓≪しゃく≫の森 御所市玉手町(旧南葛城郡掖上村玉手)
 玉手の西入口、棗≪なつめ≫の老樹のあるところを杓の森という。
 役行者が誕生せられた時、産湯を汲んだ杓を埋んだ霊地として、土地の人からあがめられている。この辺一帯を棗ケ原といって、昔から棗の木が多く生い茂り、その老樹が朽ちかかっているので、その霊蹟の失われることを恐れて、そのかたわらに若い棗の木を植えている。(吉村定治郎・瀬川敏夫)

● 追付≪おいつき≫の森 御所市玉手町(旧南葛城郡掖上村玉手)
 下市街道に沿うた東側人家のかたわらにある森を追付の森という。伝えいう、役の行者十七歳の時、初めて葛城山へ修行のため登山せられると、どこからか十五、六歳の美女が現れでて行者に戯れた。行者は手に持っている独鈷杵≪とこしょ≫をもってかの女を打つと、かの女は大いに怒って悪臭を吹きかけ、ここから西南の方へ逃げて行った。行者はこれを追いかけて近づいたが、かの女はここで大蛇と化して行者を呑もうとした。

 行者は通力自在の身であるから、大蛇に負けることなく、わざわざ左右へ身をかわして戦っていると、御所の鴨の神がこれをご覧になって走ってきて、行者と力を合わせ、大蛇を追い払われた。それで、ここを追付の森といい、森の中に小祠があり、追付明神という。この因縁によって、御所の鴨の宮の氏子からこの祠の造営をし、鴨の宮のお旅所となっている。
 (吉村定治郎・瀬川敏夫)



追付神社

● 行者路 御所市(旧南葛城郡茅原寺より西南金剛山へ)
 この道は、役の行者が年三十二歳のころ、茅原≪ちわら≫寺から葛城山へ修行のために往還された通路で、土地の人は今も行者路といっている。道は茅原寺の門前、松原から西南、茅原・玉手・蛇穴≪さらぎ≫の領分を通過している。
 (吉村定治郎・瀬川敏夫)

● 帰らぬ行者像 御所市原谷(南葛城郡掖上村原谷)
 原谷の国見山麓に行者堂というささやかな堂がある。この中に安置されている行者石像はよく盗まれたが、必ずひとりで帰ってこられた。ある時、河内の国まで行かれたが、やはりお帰りになった。しかし三度目にはどうしても帰ってこられず、いまだに行方不明であるが、実にすぐれた石仏であったという。(池田末則)

● 吐田≪はんだ≫の森 御所市宮戸町(旧南葛城郡吐田郷村宮戸)
 役の行者が葛城山へ修行のため登山せられた時、その通い路のまん中に大きな蜘蛛が臥していて、行者に食いつこうとした。行者は持っている杉の杖をもって、したたか、この蜘蛛を打つと、蜘蛛は南の方へ逃げて行き、田の中であわを吐いて大いに苦しんだ。その後、ここに生い茂った森を吐田の森という。
 (吉村定治郎・瀬川敏夫)
● 祈≪い≫の滝 御所市関屋町(旧南葛城郡吐田郷村関屋)
 名柄≪ながら≫から水越峠に通じる路傍に祈の滝という滝がある。

祈りの滝
 昔、役の行者が葛城山で修行せられた時、この滝の水に浴し、身を清浄にし、衆生済度≪しゅじょうさいど≫の願をかけていのったところという。現に清い滝がかかっていて、盛夏はこれを浴びる客が絶えない。(吉村定治郎・瀬川敏夫)
● 室≪むろ≫の大墓の石 御所市玉手(旧南葛城郡新津村室)
 室の宮山古墳は昔は室の大墓とよばれ、その名のように御所市では最も大きい墳墓である。古来、武内大臣の墓とも、考安天皇の御陵とも伝えていた。昔、村人が古墳の頂きにある岩室の石を運びおろして、村はずれの野橋につかったが、この橋を通る人や牛馬は必ず腹痛になったのでおそれをなしてふたたび、もとのところへ返した。ところが山からおろすときは重かった石も、返すときは非常に軽かったという。(池田末則)
● 葛木の岩橋 (南北、葛城郡、葛城山)
 葛城山に住んでいた役の行者は、藤の皮の着物を着て、松の葉を食って生活し、夜々、鬼神を使って水を汲ませたり、薪を拾わせて居た。ところが、此山から吉野金峰山《きんぷせん》に通ずる道がないので、鬼神に命じて岩橋を架けさせたが、葛木の一言主の神が、言付けを聴かなかったので、谷間へ縛りつけたと云う。
 (東蕗村)
 又、この時、役の行者が印を結ぶと、自然に岩橋が南に向って架って行く。すると空から風の神が現われて、其仕事を妨げようとする。行者は一人の天女を呼出し、歌と舞とを奏させて、風の神を制しようとする。併し結局役の行者の法力は弱って、橋は成就しなかったともいう。北葛城郡磐城村岩橋は、其名残だという。
 (碓井祥平)
● 袖の松 (南葛城郡忍海村忍海、野口)
 野口の『袖の松』は、高さ五丈余、四方枝幅四丈五尺余、軒廻り一丈五尺、幾百千歳過ぐるか知れない老松で、樹幹朽ちて空虚となっていたが、大正十二年四月十二日、強風の為に倒壊して、今ではその面目はない。
 この名樹は、当麻寺の中将姫が、蓮糸曼荼羅を織る時、角刺宮址の『鏡の池』に蓮茎を得んと神に祈り、その成功に及んで、之を植えたと云う。又、元弘の役に、脇屋義助が、野口村の脇田に潜伏していた際、擁護を角刺宮に祈って、之を植えたとも云う。
 古来之を神と崇め、注連縄を張って、春季に角刺宮と同日に祭典を行って来た。その霊験亦顕著で、祈れば必ず験あり、触るれば必ず祟りがある。
 袖の松の名称の起源も定かではないが、勅諚による名だと言われている。
 (杉村俊夫)
● 六軒町のミーサンの木 (南葛城郡御所町)
 御所町の中央を流れる葛城川の岸に沿うたあたりを、六軒町と呼ぶ。昔、洪水があって、人家が全部焼失し、只六軒だけ残ったからの名だと云う。
 こゝの川岸に、大きな古木が二本たっている。同じ洪水の時に流れて来て、こゝに止まった者だという。其時から白蛇が二匹、この木の中に居ると言われ、シメ縄を張り、祠を建てゝ祭られ、『ミーサンの木』と呼ばれている。今も年に一回づゝ、晴天に白蛇が姿を現はすと云うが、見たという人は一人もない。(吉岡憲司)
(注)ミーサンとは『巳様』で、蛇を神視した敬称。

● 茅原のトンド (南葛城郡掖上村茅原)
 毎年旧正月十四日に、南葛城郡御所町の少し東にある茅原の寺で、大きな竹・茅・藁等で造ったトンドを二つ立て、トンド会が行われる。これは昔、役の行者が大峰山に行く途中、此処迄こられて、あまり多くの茅が生え茂っていた為、これを焼き払われたことに始まるという。それから少したって、其址に茅原の村が出来た。此処では、年に一度トンド会を行はなければ、必ず火事が起るという事である。
 (清村善一郎)

● 茅原のトンドの由来 (南葛城郡掖上村茅原)
 茅原山金剛壽院吉祥草寺では毎年陰暦正月十四日の夜、松明儺々会《たいまつだだえ》が行われる。俗に『茅原のトンド』と呼ぶ。例年旧正月朔日より二週間、五穀豊穣、天下泰平、四海静謐の祈祷の為、修正会が行われるが、トンドはその結願の日の行事である。
 この夜、古例に従い、近在の東寺田、玉手の両大字より雌雄二基の大松明をかつぎ出し本堂前の左右に建て、夜に入りて、両区民は交互に堂上に上って、床をふみならして儺々会を行い、深更に及んで、まづ雄に法火を点じ、次に雌に及ぶのであるが、霊火炎々、壮観言語に絶するばかりである。燃え終る頃、『杭ぬき』の行事がある。中心の大杭を争って火の中から抜取るのである。その杭の納まった家は、その一年間無事息災であると信ぜられている。
 寺傳によると、第四十二代文武天皇御悩の時、一七ヶ日、此寺に入って祈願せられると霊験著しく、御悩忽ち平癒したので、こゝに大法会を挙げられることになった。其時、地方の男女も皆集って、狂喜雀踊したが、時あだかも厳冬の夜中であったので、暖を取り又境内を照す為に、大きな松明を燃した。これが、茅原のトンドの起源であると云う。(杉村俊夫)
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