● がんちの森 北葛城郡広陵町疋相(旧北葛城郡馬見町疋相)
 広陵中学校の横に、俗にがんちの森といわれるところがある。小高く松の大木が数本生えている。片目の殿様を埋めてあるという。
 昔、平尾城主細井戸右近忠行が筒井順慶に攻められた。その臣某が隻眼の勇士で、馬場先でむかえて苦戦し、力尽きて西の字藤山の林中で自尽した。それでこの森をがんちの森といい、ここの池をがんちの池という。片目のふなとこいがいるとのことである。(大和馬見町史による)
● ほとけ谷 北葛城郡広陵町安部(旧北葛城郡馬見町安部)
 安部から別所へ越す坂道にほとけ谷というところがある。昔、中将姫が当麻寺へお通いの時に、この坂道を越えられたが、疲れを覚えたので念仏をとなえていた。
 そして、生きながら極楽の相を得て仏様になられたので、かく名づけられたという。
 また、穂雷神社のあるところもほとけ谷という。 (馬見町史による)
● 千本橿《せんぼんかし》 北葛城郡広陵町赤部(旧北葛城郡馬見町赤部)
 赤部領の高田川東沿いに小北稲荷神社がある。境内に石の玉垣にかこまれて、かしの木の密生するところがあり、千本橿とよばれている。昔、この付近には老樹が生い繁り、昼なお暗いところであったというが、石玉垣に建てられた立札には、
「大神のお使狐の産所たりし所云々」と説明されている。
 また、柳生但馬守がこの森の中で剣術のけいこをしたところだとも伝えている。 (馬見町史による)
● 麦粉池 北葛城郡広陵町赤部(旧北葛城郡馬見町赤部)
 赤部の麦粉池は、もと佐味田の領地であった。ここだけが他村の領地であったが、付近の芦原が開墾されて池水が必要となり、赤部と佐味田は同じ戸長役場であったので、麦粉と交換してもらった。それで麦粉池というようになった。
 (馬見町史による)
● 相撲太鼓の鳴る塚 北葛城郡広陵町大塚(北葛城郡馬見町大塚)
 大字大塚の西川氏の屋敷裏に大塚という古墳がある。旧暦の大つごもりに相撲太鼓が鳴るという。そこは、当麻蹴速《たいまのけはや》と野見宿禰《のみのすくね》が相撲をとったところだといわれる。 (大和馬見町史による)
● 六道山と黒石 北葛城郡広陵町大塚(旧北葛城郡馬見町大塚)
 大阪城を攻めた徳川家康は豊臣方に追い立てられて、河内の国分から大和の六道山の大神宮のあたりまでにげてきた。後藤又兵衛はここへ六度も偵察にきたので六度山といったのだという。(六道山はもと六度山としるしたという)家康が六道山にかくれたとのうわさがしきりなので、又兵衛は字黒石のところから火をつけて山を焼きはらった。家康のかくれているところまでくると焼けなくなったので、そこを字「もえさし」といい、焼けて黒くなったところを「黒石」というと伝える。
  (大和馬見町史による)
● 真美の里 北葛城郡広陵町馬見(旧北葛城郡馬見町)
 馬見の里は真美の里ともいった。聖徳太子が馬上から付近の景色を眺められて、真《まこと》に美しい里だとほめられたので真美が丘といったという。
 また、一説に、この辺は上代は朝廷の牧場で、高田川には上は六道山に、下は笠に馬渡し橋があり、馬場先もある。それで馬見が丘というのだという。
 (大和馬見町史による)
● 子育ての薬師 北葛城郡香芝町下田(旧北葛城郡下田村下田)
 下田の琳法寺《りんぽうじ》の上の方の山を薬師山という。昔、この薬師山に薬師如来が祭られていて、小さいお堂があった。そこに待つの大木があって藤の木がからんでいた。ある時ひとりの子供が藤の花を折らうとして、高い松の木に登って落ちたが、かすり傷もおわなかった。それからこの薬師を子育ての薬師とあがめるようになり、今は下の琳法寺へお移しした。 (中田太造)
● 大和の江戸 北葛城郡香芝町下田(旧北葛城郡下田村下田)
 下田よいとこ大和の江戸や……
という里謡もあるが、明治になる少し前に「権の守」という者が、
  「さすがに、下田は大和の江戸や」と関心した話がある。
 その頃、権の守と名乗る者が大阪方面から関屋まできて、
 「十津川まで行くから、関屋から高田までの送り迎えの人足をよこせ。」
と下田村へいってきた。下田は郡山藩の下であったが、郡山藩から「権の守」については何の通知もないので、いくら催促しても人足を出さなかった。権の守の方はしびれを切らして、ひとりで下田へ乗りこんできて、かま屋という道者宿《どうしゃやど》にとまり込んで、えらい勢いでかけ合ってきた。出せ出さぬと押し問答数日、下田は困って郡山藩へ処置をうったえると、郡山から足軽の鉄砲組をよこしてくれた。鉄砲組がかま屋へ乗り込んで行くと、権の守は白装束に向こうはちまきで大刀をつかんで奥から出てきた。ここぞと鉄砲組では豆鉄砲をうったので顔へ当たった。権の守はびっくりしておとなしくなり、ついにつかまったという。ひかれて行く時、権の守は、
 「下田の村役はなかなかしっかりしている。だまされよらん。さすがに下田は大和の江戸や。」
といったという。権の守といったのは実は十津川の男で、京都で医術を習って故郷へ帰る途中であったということである。 (中田太造)
● 流れてきた板仏《いたぼとけ》
   北葛城郡香芝町狐井(旧北葛城郡下田村狐井)
 良福寺の方から流れてきて、狐井の東側を流れている小川を津川というが、昔、あるお婆さんがこの川で洗濯をしていると、池のいで板描かれた仏さまが流れてきた。たいそうありがたい仏様であったので、狐井の「ドヤマ」の下に祭ったのが七月九日であった。それで、この日は板仏の祭りといい、必ず少しでも雨が降るといわれる。今はこの村の福応寺に祭られている。(中田太造)
● きつねの井戸 北葛城郡香芝町狐井(旧北葛城郡下田村下田)
 狐井の村は全般に水が悪かった。昔、お宮のほとりに一匹の狐が住んでいて、いつのまにか、この狐の穴から清水がこんこんとわき出してきた。今もお宮の隅に、この「狐の井戸」があって、清水がわいており、近所の人はこの水を使っている。狐井という村の名も、この井戸から起こったという。(中田太造)
● 大名竹 北葛城郡香芝町狐井(旧北葛城郡下田村下田)
 狐井の赤土家の庭に、そう太くなにが美しい竹がたくさん生え茂っている。ここの先祖が立てかけておかれた竹の杖が、一夜にして葉が出て根がのびて、竹になったという。
 また、狐井のお宮さんは、元はこの赤土家の屋敷の守り神であったともいい、この一夜の竹の下に大きな石があって、この石の上に祭っていたという。今でもこの石に腰をかけたり、よその人がこの竹を切ると腹痛を起こすといわれている。
  (中田太造)
● 逢坂の山口神社 北葛城郡香芝町逢坂(旧北葛城郡下田村逢坂)
 逢坂の山口神社は古い神社で、すさのおの命を祭っている。昔、命がこの村へおいでになって、カンカン石(さぬかいと)に腰をおろしてお酒をおあがりになったが、その石にお酒がこぼれた。村の人は後にこの石をすさのおの命として、お祭りするようになったという。
 また、すさのおの命が大阪の方から穴虫峠を越えておいでになった時、石につまずいて石をとばされた。この石のとどろいたところが逢坂で、この石を神社としてお祭りしたのが、この山口神社であるという。(中田太造)
● おおつもごりの嶽《だけ》登り 北葛城郡香芝町(旧北葛城郡二上村)
 大晦日《おおつごもり》の夕飯を食べてから二上山へ嶽登りをする人が、昔は多かったが、二上山の頂上へ着く頃、はるか当麻《たいま》から高田の方へ通じる大井街道の方を見ると、大きな火の玉が一つポカンと現われたかと思うと、四方に小さくくだけ散った。その火が多ければ今年は豊作だ、少なければ不作あといい合ったものである。
 また、狐がちょうちんを持って行列を作って、嶽の権現さんへ参るのが見られるともいった。(中田太造)

注 二上山から東方に見えて四方に散ってゆく火は、三輪の明神のあかつ饒道祭《にょうどうさい》の火ではないかと考えられる。
● 菊ま松 北葛城郡香芝町穴虫東(旧北葛城郡二上村穴虫東)
 昔、菊松という人が馬場村に住んでいた。農荒らしをして村人を苦しめるので、これを捕えて処分することとなった。庄屋が、
 「首から下は全部土に埋めて頭だけ出しておけ。」
と命じた。処罰された菊松は遺言に、
 「わしは罪があって仕方ないが、ここへ松を一本植えてほしい。枝は北の墓の方へ伸びないようにしてほしい。庄屋の子孫は七代まであほうつづきにしてやるぞ。」
といった。
 この松の名を菊ま松といったが、明治十五、六年ごろ大風で倒れた。
  (二上村史による)
● きくま虫 北葛城郡香芝町穴虫東・馬場(旧北葛城郡二上村穴虫東・馬場)
 昔、穴虫に木熊という者がいた。女であるともいわれている。ある時、馬場の畑の大根を盗んだので、村人はかれを捕えて、見せしめのため、生きながらに穴に埋めた。木熊は首だけ出して苦しまぎれに、
 「おれが死んだら、虫になって馬場の大根を食い荒らしてやる。」
といって息絶えた。それ以来、馬場には大根の虫が多い。これをきくま虫という。木熊は別に喜久間とも書く。
今もなお、
 「馬場穴虫、小在所でこわい、木熊埋んだ、生きながら。」
という俚謡が残っている。(二上村史による)
● 知足庵の大師 北葛城郡香芝町穴虫西(旧北葛城郡二上村穴虫西)
 知足庵の大師堂は、もと馬場にあった。一二〇年ほど前に高野山から持ち帰って信仰し初めたものである。庵主が不運にあい逆境の身となり、本尊を持ち出そうとして売ろうとして背負って出たところ、途中まで行くと一歩も足が動かなくなった。それで恐ろしくなり、もとの堂へ持ち帰って、一そう信仰したという。それから一時は一本松のところへ移転したが鉄道の布設のために、やむなく今のところへ三度変わったという。(二上村史による)
● 舞台とまわし池 北葛城郡香芝町磯壁(旧北葛城郡二上村磯壁)
 昔、当麻蹴速《たいまのけはや》と野見宿禰《のみのすくね》とが天下一の大相撲を、隣の良福寺村字腰折田で行った。字びわの辻から字長畦あたり一帯に、大ぜいの人が見物したので、その辺を舞台という。
 また、狐井のまわし池は、その時ここで相撲のまわしをしめたところとも、洗ったところともいう。(二上村史による)
● 肩見池と子守地蔵 北葛城郡香芝町磯壁(旧北葛城郡二上村磯壁)
 天文年間に、信貴山の城主松永弾正久秀が攻めてきて、その家来が正林院に乱入した。その時、盗人が木像の地蔵尊を持ち出し、背負って逃げたところ、背なかから火が燃え出して恐ろしくなり、途中の池に投げ捨てた。
それでこの池を肩もえ池・肩身池・肩間池と称している。地蔵尊は、もとのごとく檀家によって寺の本堂に持ち帰られて、子守の地蔵さんとして一そうあつく信仰されたという。 (二上村史による)
● 北野のあきない地蔵 北葛城郡香芝町磯壁(旧北葛城郡二上村磯壁)
 北野に霊験あらたかな石地蔵尊がある。明治維新の廃仏毀釈の時に、一時、正林院にこの地蔵尊をあずけたことがある。すると北野の人たちは大ぜい腹痛が起こって困った。それで、もとのところへもどした。この地蔵尊の前であきないをすると、その日は必ずよく売れるといって、商人仲間では大きな評判になっている。
 (二上村史による)
● 杉作大明神と浪曲師 北葛城郡香芝町磯壁(旧北葛城郡二上村磯壁)
 香芝中学校の西側、松の木二本あるところに杉作大明神をまつってある。霊験あらたかな稲荷である。昔、下田村に、たば中というたばこ切りの職人があった。浪花節が上手で京山と名乗って浪曲師の仲間入りをした。美声でたいへんな評判であった。同じ一座の中にねたむ者があり、美声の出ないようにと、ひそかにさ湯の中に毒を入れた。それがために美声が出なくなったので、京山は杉作大明神に三週間の祈願をこめた。すると、満願の日からふたたび美声が出るようになったので、喜んで石灯籠を奉納し、初午には毎年神前で奉納浪曲を演じたということである。 (二上村史による)
● 弘法屋敷 北葛城郡香芝町関屋(旧北葛城郡二上村関屋)
 下池の東の芝地、小字ありなし塚を俗に弘法屋敷という。自然石で石垣をしている部分がある。昔、弘法大師がおられたところとも、弁当を食べられたところともいう。ここの砂や土をもらって帰り、自分の屋敷にまくと、夏、ありが屋上へ上がらないという。それでここを蟻なし塚というのである。 (二上村史による)
● 身代わり矢除けの本尊 北葛城郡香芝町田尻(旧北葛城郡二上村田尻)
 田尻の観音寺の本尊、十一面千十千眼観世音菩薩は、楠公矢受け身代わりとして知られている。昔、楠正成が河内の赤坂城の戦いに敗れて、敵におそわれ田尻の十丈坊まで落ちのびて、清水を飲んでいた。その時に敵の坂田新之丞の放った矢が正成の乳わきに当たった。正成は驚いて、その矢を抜くと、不思議にも一滴の血も流れず、なんの傷あともない。観音経を入れたお守りふだの「一心称名」の二句の偈《げ》に矢が当たっていた。田尻の霊堂にかけつけて本尊を拝すると、これまた観音の左胸のあたりに血が流れていた。これは楠公の深く崇信していた聖徳太子作という木像で、もと河内国石川郡芹生谷にあったものを田尻に移し、一族の一道法師というのを住ましめていたものという。寺の屋根に菊水紋の瓦がある。
 (二上村史による)
● ずべら山の馬蹄《ばてい》石
  北葛城郡香芝町田尻(旧北葛城郡二上村田尻)
 屯鶴峯《どんずるぼう》の西側に、谷となって水の流れているところがある。楠公が赤坂城から大和路に応戦の時、騎馬でかけてきた蹄《ひずめ》の跡が岩に残っているのだという奇形石がある。 (二上村史による)
● 恵心僧都の幼時 北葛城郡香芝町良福寺(旧北葛城郡五位堂村良福寺)
 良福寺の東に「つがわ」と呼ぶ小川がある。恵心僧都の幼い時、この河原で砂遊びをして石ころを数えなどしていると、当麻寺から叡山への道すがらの僧がこれを見て、
 「一つ、二つ、三つと数えると、どれもツの字がつくのに、十の字にのみツの字のつかないのは何故か。」と問われた。他の子供たちはこの問に答える者がなかったが、恵心は、
 「それは、五つにツの字が二つあるから、十の字にツの字がない。」
と答えた。これによってその僧に見いだされて叡山に上り、高僧となったという。
 (沢田四郎作、大和昔譚による)
● 来迎《らいごう》の松 (北葛城郡当麻村当麻)
 当麻寺の仁王門をはいると、中の坊の前に、今は枯れて株のみ残っているが、来迎の松があった。中将姫が入寂のとき、紫雲があいたいとしてこの松に懸ったので、来迎の松という。
 また、中将姫が当麻寺にこられたとき、奈良から記念の松として、たもとに入れておられたものを植えられたのだともいう。
 貞享元年、芭蕉がここに詣で、「大いさ牛をかくすともいふべけん。」といい、「僧朝顔いく死かへる法の松」と吟じたころは、まだ盛んだったのである。今は第二世が中の坊の門内にあり、芭蕉の句碑が残っている。 (当麻村誌による)
● 蜘蛛の書いた歌 (北葛城郡当麻村当麻)
 中将姫は長谷の観音の申し子であった。観音は蜘蛛に化けて、つぎのような文字を表して当麻寺へ行くことを暗示された。
 極楽はいづくと問へば大和なる 丸子の里とゆきてたづねよ
これがために当麻寺へこられたのだという。 (当麻村誌による)
● 糸くり堂 (北葛城郡当麻村当麻)
 中将姫があの有名な曼陀羅を織るときに、近江・大和・河内・摂津の五カ国の蓮を四十五駄集めて、その繊維を織って布にされた。その時、この当麻寺の糸くり堂で、糸繰りをされたという。糸そろえの観音を祭っている。 (当麻村誌による)
● 不思議の間 (北葛城郡当麻村当麻)
 中将姫は糸くり堂の観音の手伝いを得て、九尺(二・七メートル)四方の室で、一丈五尺(四・五メートル)四方の蓮糸曼陀羅を織りあげられた。
 それでここを不思議の間といい、当麻寺の曼陀羅の西北隅にある。当麻七不思議の一とされている。 (当麻村誌による)
● 一夜竹《ひとよだけ》 (北葛城郡当麻村当麻)
 当麻寺本堂の横に一夜竹の跡というのがある。中将姫が蓮糸の曼陀羅を織り上げる時、軸にする物がないので、仏にいのると、一夜に一本の竹がここにはえた。一丈五尺(四・五メートル)の竹に節が一つしかなかったので一節竹《ひとよだけ》ともいった。その竹を軸として、縦横一丈五尺の曼荼羅を織り上げられたという。 (上野恭雲)
● 血ダレの元祖 (北葛城郡当麻村当麻)
 当麻寺山内、奥院の本尊は浄土宗の元祖、法然上人の木像である。法然御自作の像といい、盗賊がコメカミへ釘を打つと生血が流れたといい伝えている。もとは京都の浄土宗本山知恩院にあったが、十一世の管長誓阿上人の時、夢のお告げがあり、大和のセイレンの地へつれて行ってくれ、と告げられた。
 上人はこの木像を背負って大和へ旅立ち、セイレンの地を求められた。当麻寺へきて、本尊の裏山に法然上人が念仏修行をしておられた小屋があるということを教えられ、そこへ行くと、大きな岩があり、まん中から一本のまっ青な蓮が出て咲いていた。
 セイレンとは青蓮のことだと知り、ここに一寺を建立して、地流れの元祖上人像を本尊とした。これが今の奥の院で、後に、この寺は知恩院の奥の院として代々管長の隠居所になっていた。 (上野恭雲)
● 光る石 (北葛城郡当麻村染野)
 当麻寺の北方、染野《しめ》というところに、天智天皇の御代に夜な夜な光明を放つものがあった。天皇のお耳に達したので皇宮の使にたずねさせられた。すると光を発する三つの大きな石で、その形は仏像に似て、額には金の玉がついていた。
 天皇はこれを掘らしめて、弥勒三尊を刻ましめ、これを本尊として堂を建てさせられた。これが石光寺である。 (当麻村誌による)
● 蹴速《けはや》の塚と屋敷跡 (北葛城郡当麻村当麻)
 当麻寺へ詣る道端に当麻蹴速の塚という大きな五輪塔がある。
 また、新宮一の鳥居の北に、蹴速の屋敷跡といい伝えるところがある。今は藪になって石垣などが残っている。 (当麻村誌による)
● 二上山の黒岩 (北葛城郡当麻村加守)
 二上山雌岳の東側に松香石《しょうこうせき》が露出しているところがあり、黒岩といっている。昔、役の行者が修行したところだという。 (当麻村誌による)
● 馬の足形 (北葛城郡当麻村加守)
 加守の龍峯寺跡に、雷よけの松という大木があるが、その北側に馬の足形という石がある。穴があいているので、鳥居の柱石のような形をしている。昔、二上山にいた大津皇子の悪霊が馬に乗って、山からここへ飛び下りたのだという。
 (当麻村誌による)
● 裏向きの不動 (北葛城郡当麻村染野)
 役の行者が三十二歳の時に二上山に入り、現在、祐泉寺《ゆうせんじ》のある二本松の地に草案を結び、不動の滝で難行苦行の末、ついに大日如来を感得し、密印真言を授けられて神力自在の身となられた。それでみずから不動明王の像を石に刻み、滝のほとりに安置して滝の不動と称した。ところが、この不動尊の御霊力があまりに烈しく、人はその前を通ることができないで倒れ、あるいは転げ落ちるので、像を他に埋めて裏向きにしたので、いつの間にか裏向不動明王と呼ばれるようになった。今は、この近くに祐泉上人が永延二年に開いた祐泉寺がある。
  (当麻村誌による)
● 熊野権現さんの絵具 (北葛城郡当麻村今在家)
 京都大雲院の高誉上人が当麻寺の大曼荼羅を修覆された時の話である。粗末な絵具で困っていたが、弟子の僧ふたりが二上山を登って行くと、ひとりの老人に会った。老人は、
 「このごろ大曼荼羅の修覆をされるそうだが、もし絵具を望まれるならばさしあげよう。」
とふたりを導き、森の中に入り、
 「これは熊野権現が鎮座ましますお社で、このうしろの方の色彩の土くれを掘れ。」
と教えてくれた。ふたりがお礼を言おうとすると、もうその老人の姿は見えなかった。
 その土は、色合いも望む通りのものであったので、これで修覆を成就した。この老人は熊野の権現さんであったという。
 (西国三十三ヶ所図会・当麻村誌による)
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