● 八幡長者と小太郎岩

 大字伊賀見に八幡長者屋敷跡がある。大和と伊賀との境で杉山になっている。白サツキや南天などの庭木が残っている。
 伊賀の国(三重県)黒田の荘一之井(滝川村字一之井)に道観という長者があった。この長者は九郷すなわち青蓮寺・中村・瀬戸口・夏見・星川・長阪・柏原・檀・一之井の田畑を所有していた。文治(1185ー1189)年間の頃と伝えるので平家が寿永三年(1184)に亡んだあと、後鳥羽天皇の御代で源頼朝が義経を奧羽に追いやり、西行法師が曽爾の地方へ来た頃である。
 長者は黄金の威力で栄華を極め、酒肉ふけり乱行も多かった。しかし、それも長くつづくわけはなかった。奥方の小満は病気で倒れた。さらに長男の左門は、親の力を笠に着てこれまた酒池肉林に身を持ち崩しはじめた。次男の梅若は労疫という難儀な病気にかかった。妹の時姫はこれまた稀代の美女であった。その末弟の小太郎は、至って親孝行な子供であった。長男も二男もつづいて病気がもとで死んだ。村人はこれを悪病だったと中傷した。鎌倉幕府が開かれようとして天下は漸く落ちついてきた。平家の真似をした八幡長者も追放を命ぜられる運命の日が来た。一之井の御館を涙をしのんで離れた。そして大和の国の宇陀郡の曽爾の山奥、河内の里に移住した。河内(かわち)の地名を香落(かおち)と改め、ここに八幡さまを守護神としてまつり大きな邸を構えた。そして家の再興を八幡さまに祈った。世にこれを八幡長者という。八幡さまは伊勢の国一志郡の若宮八幡を勧請したという。時は建久元年(1190)四月八日であった。(注 曽爾校調査にかかる「香落と奧香落」の冊子の中に建元元年四月八日とあるが、建元という年号はない。建元は建久の誤植であろう。)その時、小太郎は十二才であった。
 小太郎は馬術の稽古を初めた。父道観は、そのために新しく「馬駆け場」まで作った。それは母の病気平癒のため熊野権現や若宮八幡(伊勢国一志郡)に祈願参拝に遠路の旅をなすためであった。手まり歌の詞にも、
 お仙が櫓(やぐら)へ乗りついて
 よすかよさぬか又さぶ(三)か
 又さぶ(三)なんぞの行列は
 八つで紅鉄漿(べにかね)つけられて
 十で熊野へ詣られて
 熊野のお寺は誰建てた
 八幡長者の乙(おと)息子
 乙(おと)はよい子じゃ器量の子じゃ
 お器量に育てたお子なれば
 足には、くろがね靴はいて
 手には二本の槍持って
 栗毛の駒にまたがりて
 向(むこう)を通いやる
 何処の道者衆や
 熊野の道者衆や
 母の悩みを神に願ひて
 片にかけたる帷子
 肩と裾とは梅の打枝
 中は御前の袖の端
 袖の端から水がでて来て
 小万小袖を流した
 いくつ流した、七つ流した
 とても流せばこんといふ字と
 水といふ字と書いて流しゃれ
 スッテントン
(※注 古民謡研究家の野辺天範氏も「 最も古い手まり唄の一つ」と折り紙をつけている)
 母小万も病気は快方に向かい、父道観も、小太郎の孝心と里人の親切で、もとの善心に立ち帰った。晩年は私財を投げ出した。二月堂の再建に一方ならぬ力を尽くして死んだ。
 その時、小太郎の姉時姫は奈良にいた。母は小太郎を奈良へ馳せ向かわせた。 お仙という女中も忠勤にはげんだが、この時、小太郎に従いて奈良にゆき二月堂下の若狭井のほとりで姿を消した。小太郎は奈良より帰り母にその様子を話した。母姉は煩悶した。小太郎は悟を仏によって開かれた。毒婦お竜は小太郎の召使となり一家乗取り策を講じた。遂に母親と時姫とを毒殺した。更に小太郎の身辺にもその魔力を及ばんとしたが、小太郎の美男に魅せられて、その目的を達するに至らなかった。そこで小太郎を他地へ連れ出さんとしたが、かえって謀られてしまった。 小太郎をつれ出して岩上から突き落そうとした。しかし、この悪たくみも小太郎にさとられて反対に小太郎落としの巌頭よりお竜は落とされて無残な最期をとげた。ここを字小太郎といい、その岩を「小太郎岩」とも「小太郎落し」ともいう。
 小太郎は母姉の仇討って父兄の冥福を祈り、殺しの罪滅ぼしのために千部の法華経を書写して上経塚に埋めた後、出家して千部の経文を下経塚に埋めた。
 奈良県と三重県との県境に近い香落渓に沿うて高さ三百メートル、そそり立つような、すばらしいところに小太郎岩という絶壁がある。岩のまん中に、瀧が数段になって落ち、そのながめは、すばらしい。
 また一説には、近江の八幡長者の息子小太郎が悪病にかかり、ここに世を避けていたが、遂にだまされて岩の上からつき落とされて死んだともいう。


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