● ちょんがりの宮 大和郡山市上三橋町(旧添上郡平和村上三橋)
 上三橋の須佐之男神社を俗にちょんがりの宮と呼ばれている。この境内に、その昔、超願寺という寺があった。須佐之男命は、
 「いつもまっこうくさい仏さまと一しょにいるのはつらい。」
というので、毎夜、前の池に大蛇に化けて水浴されるので、村人は気の毒に思って、超願寺の本尊を村の西にうつし、堂は奈良の高畑にうつした。超願寺がなまって、ちょんがりの宮となった。(乾健治)

● 大師垣内 大和郡山市稗田町(旧添上郡平和村稗田)
 六百年あまり前の亀山天皇の弘長年間に洪水があった。いまの佐保川があふれて、その付近一帯が砂原となったが、その砂原の中から、めずらしい弘法大師の像を刻んだ石仏が出た。村人は興福寺にたのんで、春日山の木材をもらって、大師堂をたてた。ここは昔、大峯山への参詣道となっていたので、おいおい人が移り住むようになり、一村落をつくったのが、いまの大師垣内であるという。(乾健治)

● 犬伏城の抜け穴 大和郡山市(旧生駒郡郡山町)
 郡山城を、一名、犬伏城ともいう。
この城に二つの抜け穴があるといわれている。一つは富雄町の木島方面、もう一つは矢田町の外川に通じているという。その後、この抜け穴には大蛇が住んでいるといわれている。(山田熊夫)

● 元《もと》の杢阿弥《もくあみ》 (大和郡山市)
 天文十九年、筒井城主順昭が病気でなくなったが、嗣子順慶が幼少であったので、順昭のなくなったのをかくし、順昭によくにた琵琶法師、杢阿弥を城主になぞらへ、三年間をすごし、順慶が五歳になったので、杢阿弥は御用ずみとなり、筒井城を去ったという。ことわざにいう「元の杢阿弥」というのは、これから起こったという。(郡山町史による)
● あかかき地蔵 (大和郡山市洞泉寺町)
  洞泉寺町の境内に垢抓<あかかき>地蔵がある。土地の人はあかすり地蔵といっている。昔、郡山城主大納言秀長公と洞泉寺開山の宝誉上人とは、天正十四年六月十四日の夜卯の刻に同夜同じ夢を見られた。
 夢に教えられた郡山城内の大書院の西庭の沓脱石を掘り起こすと、それはくつぬぎ石ではなく、りっぱな地蔵尊があった。秀長公は寺社奉行に命じてしらべられた。それは光明皇后御願の垢抓地蔵尊であった。光明皇后は難病に苦しむ人々のために、大石に地蔵尊を浮き彫りにし、それを石の湯船の上に安置し、御頭から白湯を流し下し、御尊体を流通して、御足下から湯槽にはいるようになっていた。難病は、これを浴びて平癒しないものはなかったといわれている。のちに秀長公は、りっぱな地蔵堂をつくってまつった。(乾健治)
● 洞泉寺《とうせんじ》の湯舟 (大和郡山市洞泉寺町)
  あかかき地蔵のかたわらに大きな石風呂がある。内部に四仏の梵字があり、鎌倉時代のものとされている。これはあかかき地蔵と一具のもので、郡山城から移されたという伝説は前話にあるが、南北二京霊地集につぎの伝説をのせている。
 奈良の法華寺の東にあった阿しゅく寺の沐浴の具は、後に般若寺のうしろの北山に移された。ところがこの大きな石槽<いしぶね>は、天正年中、郡山城を造る時にそこへ運ばれたという。
 あかかき地蔵(注、あかかけの地蔵か)から流れてくる湯が、この風呂にはいるような仕掛けになっている。(仲川明)
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