● 経塚 奈良市広岡町(旧添上郡狭川村広岡)
 後醍醐天皇が笠置の山から瓶原<みかのはら>に落ちのびられた時、松の木の下にお休みになり、前記、「さして行く…」の唄を詠まれたという松の木があったが、大正元年、落雷のためになくなった。しかし、この松の根もとに護良親王が経文をおうずめになったという経が塚は今も残っている。(堀内初子)
● 五人斬石仏 奈良市両町(旧添上郡狭川村両)
 奈良駅から笠置行きのバスの停留所「両」から西へ、約五〇メートルのところに五人斬という地名がのこっている。今、そこに五体の仏を彫んだ石仏がある。ここは、その昔、五人の行脚者が斬られたといわれているが、一説では、大阪夏の陣でやぶれた落武者たちが斬り殺されたところであるともいう。その後、村人たちは、これらの人々の霊を弔うために、道ばたの自然石に五体の仏を刻み、供養したと伝えられている。(堀内初子)
● 天狗石 奈良市両町(旧添上郡狭川村両)
 笠置行きのバス停留所「両」から東南へ約三〇メートルいったところに、大きさ十畳敷ほどの大石がある。そのまん中にさしわたし七〇センチメートルもある窪みがある。
 昔、このあたりに天狗が住んでいて、この石で「でんがく」を焼いたところといわれ、まん中の窪みは火壺だと伝えている。(堀内初子)
● 吉祥寺 奈良市岡町(旧添上郡狭川村両)
 寺は現在両町の集会所となっているが、昔はここに吉祥天と毘沙門天をお祭りし、吉祥寺と呼ばれていた。いつの頃か、吉祥天は山城の九体寺に移され、毘沙門天だけをのこしていた。毎年、この町では毘沙門天の命日である満月の夜、必ず、ぼた餅をそなえ、参拝の人々にそのぼた餅を二個ずついだかせることになっている。ある年、凶作のためこの毘沙門天にぼた餅を供えなかったころ、その年に悪疾がはやり、村人たちがたいへんに困った。それ以来、どんな凶作の年でも、必ずこの毘沙門天にぼた餅を供えるようになったという。 (堀内初子)
● 静海坊の石像 奈良市下狭川町(旧添上郡狭川村狭川)
 狭川から柳生へ通じる街道に沿うた白砂川のほとりの大石に、坊様姿をきざんだ石像がある。町の人々はこの石像を静海坊の像と呼んでいる。静海坊は、もとこの村にあった勝福寺の住職で、自分の死後、いつまでも永く手向けの水を受けたいとの願いから、川に沿うた岩に自分の像をきざんでおけば、村人たちにも迷惑をかけないで、永久に水の手向けを受けることができるといって、自画像をこの石にきざんだという。 (堀内初子)
● 腰痛直し地蔵 奈良市南之庄町(旧添上郡狭川村南之庄)
 南之庄の町はずれ、笠置街道にそった山すその屋形の中に石地蔵がある。
その前にはいつも、小槌が供えられている。腰痛のおこった時は、この槌をもらって帰り、この槌で腰部をたたけばなおるといわれ、なおるとそのお礼に新しい槌を供えるという。この地蔵さんは、この村の小佐氏の夢に、
 「わたしは某所の畠に埋もれているので掘り出してほしい。」
との告げで、小佐氏が掘り出した石仏といわれている。 (東田正治)
● 龍の池 奈良市須川町(旧添上郡東里村須川)
 戸隠神社の北西の端に小池がある。この池の水は、どんな大雨の時でも、またひでりがつづいていも、ふえもせず、いつも緑色をたたえている。この池に底がなく、龍が住んでいるといわれる。
 ある時、村人たちはこの池の魚をとろうとして、池の水をかえだしたが、いくらかえてもかえても少しは水が減らず、それどころか、急に空が雲ってきて、にわかに大雨が降り出したので、そのまま逃げてかえったという。 (東田正治)
● 草の生えずの道 奈良市誓多林町(旧添上郡田原村誓多林)
  大柳生の東方、一台山連峰の峯つづきに一筋の道がある。大平尾から誓多林にはいり、沓掛<くつかけ>・日笠・大野・中之庄・南田原・初瀬を経て山田に入り、遠く吉野に通じている。
 この道は、後醍醐天皇が笠置から吉野へと難をさけられた時に通られた道で、心なき草木さえも、今に至るまで天皇の胸中をお察し申してか、草も生えないので、「草の生えずの道」といわれている。 (大谷進一)
● 天狗の足跡 奈良市下誓多林町(旧添上郡田原村下誓多林)
 下誓多林町の中程、新笠置街道に沿うた北側の岩壁に、大きな足跡が二つしるされている。昔、天狗がいて、暗夜に誓多林堂の太鼓を盗み出し、大平尾の一台山の青岩岳にある大きな松の木にかけてうちならしたという。この足跡はその時の天狗の足跡で、太鼓には天狗の血がついていた。
 一説には、この足跡は、春日大社の祭神、建甕槌命<たけみかづちのみこと>が鹿島から、春日山上におうつりの際、乗ってこられた白鹿の足跡とも呼ばれている。(山田熊夫)
● 今井堂 奈良市日笠町(旧添上郡田原村日笠)
 源頼朝と一戦をまじえてやぶれた木曽義仲は、家臣今井四郎兼平と共に、信楽・名張をへて、大和の田原郷隈笠(今の日笠)にのがれ、ここに身をかくしていた。頼朝におわれた義経が、大和の興福寺に行く途中ここを通ったので、兼平は義経を討とうとしたが果たさなかった。その後、頼朝が大仏殿に詣でると聞き、兼平は衆徒の姿にかえて一矢をはなったが、これも果さず、遂に仏門にはいり、名を義兼法師とあらため、六十四歳でこの世をさった。その一子、隈笠四郎兼則が、父、兼平のために七重の石塔婆をたて、義仲の霊と共に兼平の霊を祭ったのが今井堂であるという。 (大谷進一)
● 朝起きの仏さん 奈良市日笠町(旧添上郡田原村日笠)
 この町にある帝釈寺の観音さまは、朝起きの仏さんと呼ばれている。
この仏さんは、ある時、仏さんたちの会合に招かれたが、お若い(年十八歳といわれている)ので、その前の夜、おそくまで化粧されていたため、あくる朝、おきるのがおくれて会合のまにあわなかった。それがため、三十三番の札所の仏さんの仲間に入れてもらえなくなり、それから後は非常に早起きになった。それで、この仏さんを朝起きの仏さんと呼ばれるようになった。 (大谷進一)
● 正暦寺のおこり 奈良市菩提山町(旧添上郡五ヶ谷村菩提山)
 一条天皇が奈良の春日神社におまいりになった。その夜、たつみの方に光明を放つ山のあることをごらんになり、お伴の藤原道長をして、光を放つところにつかわされると、白髪の老人が白鹿にのってあらわれ、
 「われは春日の神である。夜はこの山にきて国を守っている。この山は仏法清浄の霊地である。ここに精舎をたてて、玉体を安らかにせよ。」
というなり、姿を消した。すると、そこから急に清水がわき、九頭の龍王があらわれて、ただちにまた水の中に消えた。天皇は兼俊大僧正に命じて、その地にたてられたのが、今の菩提山正暦寺であるという。 (乾健治)
● 血の出るくすの木 奈良市米谷町(旧添上郡五ヶ谷村米谷)
 昔、筒井順昭という人が金閣と同じ堂をたてようとして、くすの木の一枚板を諸国にさがさせたが、米谷<まいたに>山に大きなくすの木のあることがわかったので、家老の島左近や家来の赤根半六らに切りにやらせた。米谷村の寿福寺の僧、龍溪大あじゃりが反対して切らさなかった。無理に斧をふるって切りつけると、木から血が流れでて、大ぜいの家来が木から落ちてきずついたという。このくすの木は神木で、三輪の明神さんの杉の根が通っていたといわれている。 (乾健治)
● 光をはなつ山 奈良市虚空蔵町(旧添上郡五ヶ谷村虚空蔵)
 嵯峨天皇がある夜の夢に、ひとりの老人があらわれて申されるのに、
「奈良の南に七仏舎利山がある。もろもろの仏があらわれて、お経の声がたえない。ここに寺をたてて、衆生を利益されたい。」
とあって、夢がさめた。
 天皇はさっそく諸臣におたずねになると、時の大臣、小野篁<おののたかむら>が、「奈良の南にふしぎな霊山がある。毎夜、光明をはなって、見るものはみな敬信の念をおこしている。お夢の山はこの霊山でしょう。」
と申し上げた。
 天皇は、さっそく篁をして寺を建立させられたのが、今の虚空蔵山弘仁寺であるという。 (乾健治)
● 七つ塚 奈良市山町(旧添上郡帯解町山村)
 山村の円照寺の南に塚がある。七つ塚と呼ばれている。これは伊勢・伊賀の殿様が敵に追われて大和におちのびた時、かくれ場に困ったので、土地の百姓にたのんで、七つの塚をつくってもらい、そこにかくれたという。
 それが今の七つ塚である。あやうく難をのがれたので、その殿様は古市に城を築いたという。 (中尾新緑)
● 柳生十兵衛の墓 奈良市帯解町(旧添上郡帯解町)
 帯解の町の南端、龍象寺(奥の院という)の北側の家の裏に、柳生十兵衛の墓と称する五輪塔がある。昔はここも奥の院の境内であった。十兵衛は武者修業に回国し、この寺で禅の修養をしているうちに、病気になって亡くなったので、ここへ埋葬したのだといい、この石塔を動かすと必ずたたりがあるという。正木坂は柳生にあるというが、ここでも、この奥の院の前の坂を正木坂といっている。
  (上野恭雲)
● 池田の大とんど 奈良市池田町(旧添上郡帯解町池田)
 池田では、毎年八月十四日の夕方から、広大寺池の堤で大とんどがおこなわれる。これは、昔、この池に龍がすんでいて、人々を困らせた。村の人々は、この龍を退治するために大きなかがり火をたいた。毎年おこなわれる大とんどは、このかがり火のなごりであるという。(上野恭雲)
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