● 背後に鳥居のある社
 (奈良市猿沢池)
 奈良の猿澤の池には、東の岸に衣掛柳《きぬかけやなぎ》といふのがあり、西の岸には采女神社といふのがある。
 其社は、池に背を向けて西向きに立ち、背後に鳥居がある。日本廣しと雖も、うしろに鳥居のある神社は、こゝ只一つだと言はれて居る。 昔、奈良のみかどに仕へた采女といふ美人があった。御目にとまって一度みかどに召されたが、どうした者か其後は召されなかった。采女は世を果敢なく思ひ、猿澤の池に身を投げた。其時、衣を掛けておいたのが、東岸の衣掛柳である。
 みかどは、深く哀れに思召され、池にみゆきして人々の歌を召された。


采女神社
柿本人丸の歌に、
 わきもこがねくれた髪を猿澤の
   池に玉藻とみるぞかなしき。
みかどの御製、
 猿澤の池藻つらしなわきもこが
   玉藻かづかば水ぞひなまし。
其後、西岸に采女の社を建てられた。初めは池に向かって社殿を設けられたのに、みづから命を落とした水面を見るのは恨めしいとあって、一夜の中にクルリと西向きになってしまったのだと云ふ。(山田熊夫)

● 額塚 (奈良市興福寺境内)
 奈良興福寺の境内、南大門址の西に、額塚という小丘がある。
 天平寶字八年五月に、南大門の芝生に、大きな穴が出来、洪水が噴出して、往来困難となった。占者に占わせてみると、南大門に、『月輪山』という額が懸かって居る。月輪は水に縁のあるものであるから、水が出る。之を取下せば宜しい、とある。その言葉に従ったら、即ち洪水がおさまった。その額の埋められた所が此額塚であるという。(山田熊夫)
● 十三鐘の石子詰 (奈良市興福寺境内)
 昔、三作という子供があった。寺子屋で手習をして居る隙に、春日の神鹿が来て、雙紙の紙を食った。三作は何気なく筆をなげると、生憎鹿の鼻にあたり、鹿はその場にたおれた。三作は神鹿を殺した罪により、石子詰《いしこづめ》の刑に処せられた。即ち一丈三尺の穴を掘り、死んだ鹿と抱き合わせにして、生き埋めにされたのである。その後、三作の母が尋ねて参り、永年の花として、モミヂの木をその塚の側に植えた。『鹿にもみぢ』という取り合わせは、是から始まったという。
 石子詰の址は、興福寺境内の菩提院大御堂、通称十三鐘の前庭にある。
 又別に、此子供は興福寺の稚児で、此の十三鐘で手習をして居り、鹿に投げ付けたのはケサンであった。石子詰に逢った時刻が、夕の七つと六つとの間であったから、ここを十三鐘というとも伝える。(山田熊夫)
● 童子が化した観音 (奈良市興福寺菩提院)
 昔、朝欣という僧が、毎日初瀬寺に詣で、道心開発を祈っていた。或る夕方の帰路、奈良の南なる鹿野園《ろくやそん》の村に差し掛かると、道端の松の葉に、十二三の童子が現れ、
『吾をあはれと思し召し、何卒お助け下され』
という。朝欣はあはれに思い、坊につれ帰って、養育すること六年ばかり。
或る日童子は、
『わが死後は、棺に収めて鹿野園の松の木の上に置き、七日経て後開いて下され』
といい終わって、俄に死んでしまった。朝欣は恠みながらも、其言の通りにして、七日の後、之を開いてみると、驚くべし金色生身の十一面観世音が出現せられた。是が、いま興福寺菩提院大御堂にある稚児観音だという。(山田熊夫)
● 玄昉僧正の遺蹟 (奈良市)
 昔、玄昉僧正は、筑紫の観世音寺の供養に、導師となって赴いたが、彼処で、藤原廣継の怨霊が雷になり、玄昉を黒雲の中に掴み上げてしまった。その後、その髑髏が、奈良の興福寺の唐院の庭上に落ちて来た。唐院と寺の西大門内の南側、今の『新温泉紅葉館』(※現在は不明)の地に当たっている。
 その骨を三方に分けて葬られた。今の高畑町の指定史跡たる頭塔は、その頭を埋めたところである。市の南端肘塚<かいのつか>町はそのカヒナ(※二の腕)を埋めた所で、近頃まで肘塚というのがあった。又その眉と目とを埋めたのが、市の中部にある大豆山《マメヤマ》町だと伝えられる。
 あるいは又、漢国町の懸社漢国神社の境内に、白雉《びゃくち》塚というのがる。彼の孝徳天皇朝の年号の元となった白い雉を埋められた所、その飼料の大豆を作った所が大豆山町だともいう。 (山田熊夫)
● 又 (奈良市元興寺町)
 奈良元興寺町の西南、白山辻子の南側に、大きなイテフの木があって、その下に小祠がある。昔、一人の僧が、ここの道を歩いていると、にわかに雷雨が起こり、ひとりの鬼が現れて、僧を掴んで天に上り、首と胴と肘とにちぎり分け、首は奈良市の東方の何処やらに棄て、肘は南方に落としたが、今そこを肘塚と云う。そして胴を落とした所がこのイテフの下で、人々はそこをハクサと名づけ、祠を建てて、祭ることにしたものだと云う。(井角芳雄)
● 不審ヶ辻子 (奈良市不審ヶ辻子町)
 奈良の御所馬場と鵲町との間に通ずる東西の狭い横丁を、不審ヶ辻子《ふしんがづし》、俗にフリガンヅシと呼ぶ。
 昔、御所馬場に松浦という長者が住んで居た。ある夜、一人の賊が忍び込んだ。長者は之を捕らへ、現在奈良ホテルのある鬼隠山《きそんざん》から谷底へ投げ込んで殺した。その後、賊の霊が鬼と化し、毎夜、元興寺の鐘楼に現れて、人を悩ました。当時元興寺には、後の道場法師が小僧で居たが、進んで鬼を退治しようと申出で、鐘楼に待受けて、鬼と激しく格闘し、まだ勝負のつかない中に、夜が明けて来た。夜が明けてはと、鬼はあわてて鬼隠山の方へ逃げ出した。法師も続いてその跡を追ったが、今の不審ヶ辻子の辺までいった時、たちまち鬼の姿が見失われた。それからこの地名が出たという。
 又この元興寺の鐘楼にあった鐘は、現に奈良高畑町の新薬師寺鐘楼に懸った国宝であるが、当時格闘の時の鬼の爪あとと云うものが、その片側に沢山残って居る。
 (山田熊夫)
● 啼き燈籠 (奈良市元興寺町)
 南都七大寺中の元興寺の境内に、延元元年に造立の石灯籠があった。
延享年間に、京都の下村某が、請受けて京都に持ち帰ったが、夜毎に南都を向いて「帰りたい帰りたい」となくので、気味悪くなって再び元興寺に返した。この燈籠は、現在国宝の一つで、一時奈良帝室宝博物館の庭に置かれたが、今は又、元興寺の境内に戻されている。(上野武男)
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