● 大和は国の始
 大和は、国の始まりで、日本六十余州は、昔こゝから分れて出来た。だから今も日本全国の国名は、大和に残って居る。武蔵、飛騨、但馬、出雲、吉備、備前、阿波、土佐、豊前、薩摩などの大字は、それぞれの国の原地を示したものだと云ふ。 (高田十郎)
● 鹿山 (奈良市高円町)
 奈良国立病院の南側の小高い丘を昔から鹿山と呼んでいる。
昔、春日の神を奈良にお迎えする時、一時、この丘の東にまつられて、連れてきた神鹿はこの丘にかわれていたので、この地を鹿山と呼ぶようになったという。
 (宮前庄次郎)
● 蛇が池 (奈良市白毫寺町)
 高円山の中腹に蛇が池という池がある。このあたりに離宮があった。その頃、聖武天皇にお仕えしていた美しい女官がいた。大仏建立ため、唐からわたってきた大工の娘だったという。この山の下にあった岩淵千坊の坊さんが、時々この離宮に招かれた。そして、この娘といつしか深い仲となったが、いつの間にか、その僧の姿が見えなくなった。娘はこの僧に別の女ができたと聞いて、ついに岩淵千坊に火をつけ、自分は、この池に身を投げてしまった。
 その後、大雨が降った時、この池から大きな蛇が天に舞いあがり、池には女の上衣が浮かんでいたという。それから、この池を蛇が池と呼ぶようになった。
 (宮前庄次郎)

● 青丹よし (奈良市)
 奈良に「青丹よし」という銘菓がある。昔は真砂糖という菓子であったが、享和年間に中宮寺へ有栖川宮がお成りになった時、これを献上すると、色を青と紅の二色にして白い雲を散らし、短冊形にせよといわれ、「青丹よし」という名をつけて下さったと伝える。  (竹村慶直)

 青丹よしとは、天平の古より呼ばれたる奈良の枕詞なり。昔より真砂糖と伝へる菓子あり。徳川末期享和年間法隆寺中宮寺へ有栖川幟仁親王成らせられし折、四角に切りしもの、胡麻を散らせしものを納めしところ、殊の他御嘉納賞味あらせられ、「色を青と紅の二色とし、白き雪を散らし、短冊形にせよ」と仰せられ、「青丹よし」との御銘を拝したり。囲碁粋人達に賞味せられ、益々茶菓に風雅の土産に、好適の古都の銘菓として、広く世の雅客に知られるに至れり。
〜『青丹よし』のしおりより抜粋〜



青丹よし
● 市の阪の念仏石 (奈良市奈良坂町)
 法然上人が奈良にこられた時、多数の人々が迎えにいった。よい教でも話して下さると思っていると、ただ一言「南無阿弥陀仏」とだけとなえられ、そのまま出ていかれたので、人々はその後を追った。上人は市の阪にこられた時、皆の者に、
「紙と筆を持ってきなさい。」
とおっしゃった。それから、上人はその紙に南無阿弥陀仏と書き、自分の笠よりも大きな石を持ってきて、紙と石とを天秤にかけられると、紙の方が重くなって地についた。上人は皆のものに、
「どうだ、南無阿弥陀仏のありがたさがわかったか。」
といわれ、皆のものは驚いて帰ったという。その後、この石を念仏石というようになった。
(中尾直美)
 注 奈良阪より少し北にいったところに市の阪がある。
● 川上の蛭子祭 (奈良市川上町)
 川上町にある蛭子神社のお祭りは十一月十九日に行われる。この月は日本国中の神様たちが、みな出雲に集まることになっているが、蛭子さまは、つんぼであるので、出雲に集まるということを聞きもらした。それからこの蛭子さまは、神様のいない月の留守居をされることになっているという。それで、この月にこの神様をまつると、商売が繁盛するという。
 (山田熊夫)
● 青衣の女人《しょうえのにょにん》 (奈良市雑司町)
 毎年三月一日から十四日間、二月堂で行われる修二会<しゅにえ>(俗にお松明という)に転読される過去帳の中に、「青衣の女人」がある。鎌倉時代に、東寺の僧集慶が過去帳を読んでいると、ひとりの青衣の女人があらわれて、
「など、わが名を呼ばざる。」
とうらめしそうにいった。集慶は、即座に「青衣の女人」と読み上げたので、その女人は姿を消したという。それ以来、過去帳に青衣の女人としてのせ、毎年の修二会にその名を読みあげている。(山田熊夫)
● まんなおしの地蔵 (奈良市雑司町)
 二月堂の北側を東へ百メートルほどのぼると、小さな石地蔵がある。まんなおしの地蔵と呼ばれている。この地蔵におまいりすると、商売が繁盛するといわれている。この地蔵におまいりする商人は、必ず、地蔵さんの付近の土中に銭を埋め、前にだれかが埋めた銭を探して持って帰ると、げんがよいという。
 (中尾新緑)
● 護良親王除難の櫃 (奈良市般若寺町)
 般若寺に古さびた経櫃<きょうびつ>がある。
太平記によれば、元弘三年、大塔護良親王が敵に追われてこの寺に難をさけられた時、この経櫃に身をかくし、難をのがれたという。
(山田熊夫)
● 空海寺の地蔵尊 (奈良市雑司町)
 正倉院の北側に空海寺という寺がある。その寺に空海が住んでいたので、空海寺と呼ばれている。弘法大師が東大寺で学問をしている時、北峯の伝教大師から戒壇院<かいだんいん>の土を盗みとり、山門へつかわそうとされたのを寺僧に見つけられたので、その土を捨て、この寺にかくれた。久しい間かくれている間に、石の洞に地蔵尊を刻んだという。今、秘仏になっている、
(奈良市名所八重ざくらによる)

● 蜂の宮 (奈良市雑司町)
 三月堂の北側、厨子の中にまつっている執金剛神<しこんごうじん>は、一名、蜂の宮と呼ばれている。
 天慶の乱(平将門の乱)に、この像の前で朝敵降伏の法を行っていたところ、像の右錺<みぎのかざり>が大蜂となり、また、像からたくさんの蜂が出て、東へ飛んでいった。ちょうどその時、戦場では大蜂があらわれ、平将門をさし殺したとも、多数の蜂があらわれて将門を苦しめたともいう。これからこの像を、一名、蜂の宮とも呼ばれている。
 この像については、天慶の乱に朝敵降伏の法の行われている時、この像が姿を消し、二十日あまりしてまたもとのところへ帰ってきたともいう。
 (山田熊夫)

● 奈良の寺の瓦 (奈良市雑司町)
 奈良時代に奈良にお寺がたくさん建てられた。その時、使われた瓦は吉備からテングリ(人がずっとならんでつぎつぎと手渡ししていくリレー式にはこぶ運び方)で奈良へ運ばれたという。瓦が備前から送り出され、先頭の一枚が奈良へついた時、生駒の山の上から、のろしをあげさせた。ちょうどその時、最後の一枚が備前をはなれるところであったという。
 (風土記日本巻二による)
● 若草山焼きの由来 (奈良市三笠山麓町)
 昔、東大寺と興福寺とが若草山を互いにうばいあって、どちらもゆずらなかった。そこで西大寺の坊さんたちが見るに見かねて、仲裁に入り、どちらのものともせずに、毎年この山を焼いて、あらそいからのがれようとしたのにはじまるという。  (乾健治)
● 景清眼つぶしの井 (奈良市福井町)
 平の悪七兵衛景清が、源頼朝を鎌倉の八幡宮と、奈良の東大寺・転害門<てんがいもん>で討とうとしたが果たさなかった。幾度もねらってもだめだとあきらめた景清は、ついに、
 「この眼があるから討ちたくなるのだ。」
といって、両方の眼をくり抜き、福井町の地蔵さんのうしろの井戸に捨てたという。それから、この井戸を景清眼つぶしの井と呼ぶようになった。
 (中尾新緑)
● 木魅《こだま》塚 (奈良市春日野町)
 東大寺南大門の南方二〇〇メートル、四つ辻の東北隅にこだま塚がある。
「木魅塚」と刻した自然石の石標もあるが、くわしいいわれはわからない。
 この塚のあたりで、大仏殿の方を向いて、オーイと叫ぶと、大仏の方からオーイとこだまがかえってくる、とだけが古老の話に残されている。
 (森川辰蔵)
● ニコニコ瓦 (奈良市登大路町)
 今の県庁の東側の道を延寿坊筋という。この通りの東側には興福寺塔頭の延寿坊があり、その西の門にニコニコ瓦がのっていた。翁の面を彫った瓦らしいのであるが、いつもニコニコして通る人に笑いかけていたので、これをニコニコ瓦といい、この道の名にもなった。
(竹村慶直)
● 春日明神 (奈良市登大路町)
 西国三十三所九番の札所である南円堂は、藤原冬嗣が藤原氏の隆昌を祈るために建てた寺で、造営の際、春日明神が匹夫の姿に変えて、この造営を手伝われたという。一説には春日の使、率川<いさがわ>明神であるともいう。
その時、冬嗣が、
  補陀洛《ふだらく》や南の岸に堂たてて北の藤なみ今ぞさかへん
とうたった。(山田熊夫)
● 持主にたたる田 (奈良市紀寺町)
 奈良の紀寺町に、もと、ある田があった。この田は、付近の地代の半分くらいしか買手がなかった。それは持主にフジが入る、といわれるからである。フジが入るとは、家に不祥なことが起こるという方言である。
 持主は近年にも三度ほどかわっているが、家が焼けたり、本人が死んだりした。また、ここから東南二キロメートルほどの鹿野園町にも、イケダという田がある。その田も持主が死ぬといわれ、さきにその田を甲乙両氏が共同で買うたが、乙氏はそのことを聞き、あわてて共同からぬけて、田を甲氏に譲ってしまった。
 (高田十郎著「随筆民話」による)
● 猿沢池の龍 (奈良市池之町)
 昔、猿沢池に龍がいたが、采女がこの池に身を投げたので、春日山の奧に移った。そこへ下人が死人を捨てたので、龍は室生の龍穴にすまいを移したという。春日山の香山神社は、龍の遺跡と呼ばれている。
  (山田熊夫)



奈良県宇陀市の吉祥龍穴
● たたり石 (奈良市内侍原町)
 昔、春日大社に使えていた内侍原<なしわら>家があった。この家に大きな蛇が住んでいたが、若い人々がこの大蛇を見つけて殺し、土中に埋め、その上を石でおおった。ところがいつの間にか椿の木がはえ、その椿の木が大きくなるにつれ、内侍原家がだんだんに衰え、ついに滅んでしまったという。しかし、石は今も残っており、この石を踏むと必ずたたりがあるといわれている。
 (山田熊夫)

● 千両橋 (奈良市法蓮町)
 奈良の聖武天皇陵前の、佐保川にかけた法蓮橋を別名千両橋という。元来、この御陵の東側は多聞町で、ここには奈良奉行所に勤めた与力たちの住宅地ばかりがあった。何にせよ、飛ぶ鳥を落とすお役所の人たちで、その収入も目ざましく、それ故、日に千両の金がこの橋を渡って自宅に運ばれた、といってつけた名である。
 (「奈良叢記」中、野村伝四執筆「ことばの奈良」による)

● ジャンジャン火 又(奈良市法華寺町)
 奈良高校の西百メートル北側にセンダンの古木の株が今も残っている。昔、野原の中にこの木が茂っていた頃、南の方の高橋提(アイガシ藪の西)にあったセンダンの木との両方からジャンジャン火が出て、よく互いに合戦したということである。
(竹村慶直)
● ジャンジャン火 (奈良市)
 現在の奈良県の西方にある高橋堤のあたりに、雨の降る夜には、決まった様にジャンジャン火が出た。青い火の玉であって、長い尾を引いて居り、よく見ると、其の火の中に、かなり年配の男の顔がうつっていた。昔、奈良朝時代に、何か怨をのんで死んだ公卿の怨霊だと云う。
 此のジャンジャン火を見た為に、熱を出して、遂に死んでしまった人もあったと伝えられている。 (宮武正道)

 編者曰く、ジャンジャン火とは、奈良以南一帯に言われる事である。後章添上郡『夫婦の玉火』磯城郡『ホイホイ火』、及び山邊郡『首切地蔵』等、参照。
● 横笛の像 (奈良市法華寺町)
 有名な十一面観音像をまつる法華寺の中に、紙でつくった横笛の像がある。もと、この寺の南の横笛堂にまつってあったものである。滝口入道との間にとりかわされた恋文によってつくられた像であるという。入道との物語は平家物語・源平盛衰記・樗牛《ちょぎゅう》全集などに書かれている。
 (山田熊夫)
● 阿しゅく寺の由来 (奈良市法華寺町)
 光明皇后が浴室(からふろ)をつくり、千人の垢を取り去ろうとの誓いをたてられ、九百九十九人までの垢をながされた。最後に一人となったが、この人は癩病患者で膿がからだから流れ、見るもいたましい姿であった。
 しかし、千人の誓いを破ることができないと、皇后はねんごろに垢を取りはじめられた。するとその人は、「私のこの病気は、どなたかこの膿を吸うて下さればなおるとのことですが、だれも吸うて下さる方はございません。どうか慈悲深い皇后さま、お吸い下さって、私の病気をなおして下さいませ。」
と願ったので、光明皇后はいわれるままに、その膿をお吸いになると、急に病人の体はりっばな姿と変わり、からだから光明が輝いた。その病人は、
「あなたは阿しゅく仏の垢を流したということを誰にもいわないで下さい。」
という声を残して姿を消した。光明皇后はお喜びになり、寺をたて、阿しゅく仏をおまつりになったのが、阿しゅく寺であるという。(元亨釈書による)
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