● 三笠山焼と天気 (奈良市)
 奈良の有名な年中行事として、二月の中頃に三笠山焼という事がある。日暮れから若草山の枯草に火を付けて、全山を焼払うのである。ところが、此山には天狗が棲んでいて、これを嫌うために、いつも雨や雪で延期をさせる。
 ある年の山焼きの時、山頂に僧形の人が二人立っている。人夫が危険だからと注意しても一向気にかけない。人夫は腹を立てて、
 「是ほど言うてるのに、のかんやつ、焼き殺せ、焼き殺せ。」
とて、その足もとに火を付けると、忽ち風が返って来て、その男が焼き殺されてしまった。翌日いって、その男の屍骸を見たという人もある。
  (高田ひさ子)
● 菅公腰掛石 (奈良市手向山八幡宮)
 奈良の手向山神社境内、若宮の拝殿脇に菅公腰掛石というのがある。
彼の「此度は」という歌を詠むとき、菅公が腰をかけた所だという。
 (高田十郎)
● 人躰の温味ある観音像
 東大寺二月堂本尊は、秘仏中の秘仏で、古来一山の首脳と誰も、直接に拝した者はない。併し本尊は、十一面観音であって、その御身には人間同様のあたたかみがあると伝えられている。
 昔、二月堂の創立者・覚忠和尚は、かねがね生身の観音を拝したいと熱望していた。ある時、摂津の難波津にゆき、補陀洛山に向って懇に祈願した。すると、海の彼方から、一枚の閼伽井折敷<あかいおしき>が漂って来た。上には、七寸ほどの十一面観音像が乗って居られる。和尚は、狂喜して早速これを取り上げると、人の膚と同じあたたかみがあった。これが即ち今の二月堂の本尊たる生身の観音像である。
 この二月堂では、毎年三月一日から十四日まで二週間、東大寺一山から選ばれた一定数の練行衆によって、国奉民安を祈念する為の修二会が勤修される。世には、これを二月堂の『おたいまつ』とも『お水とり』ともいう。練行衆が参籠所から本堂に上がる途を照らすために、一種大規模なタイマツが点ぜられ、又、会中の中心たる三月十二日夜半に、二月堂の下にある若狭井戸と呼ばれる秘泉から、一定量の水が汲み上げられるからである。
 さて、修二会の行法は厳列恠奇であって、従事各員の動作音律等は、皆急調促迫、誠に不思議を極めている。これは、彼の覚忠和尚が兜率天の儀式を伝えたのに始まるという。
 はじめ天平勝寶三年に、覚忠和尚は、山城笠置山の龍穴に入り、行くこと一里ばかりと思う頃、忽然として兜率の内院に到着した。そこには荘厳なる四十九棟の摩尼寶殿が建並んでいた。和尚は、その四十九院を一々巡礼し、ついに常念観音院に到ると、丁度、諸の天衆が集って、十一面観音の悔過を勤修しておられる所であった。
 覚忠和尚は、つくづくその行法を拝観して、これは実にありがたい作法である。願わくば我が人間世界にも伝えたいものだと考えた。それで、先ず聖衆にその希望を告げてみると、それはいけない、この兜率天の一昼夜は、人間世界の四百年に相当するのみならず、行法の規定も極めて厳重で、一日に千遍の行道を正確に繰り返さねばならない。これは到底人間輩に出来ることでないから、思い止まれ、との挨拶であった。併し、和尚は、ナニ、一心にやれば出来ないこともなかろう。千遍の行道も、歩いて及ばなければ、走って其の数を満たすまでだと決心し、敢然として二月堂に兜率の行法をうつしたものだという。
 (山田熊夫)
● 良辨杉 (奈良市東大寺境内)
 良辨僧正は、近江志賀の里の人である。其母久しく子がなく、観音に祈って儲け得た子である。二歳の時、母が桑摘に行くので、携へて出ると、不意に鷲が来て、幼児をさらった。鷲は、奈良の二月堂下の大杉まで其子を運んで、翼を休めて居た。そこへ、南都の名僧儀淵僧正が来合せて、子供を助けて養育した。良辨は、其後一世の名僧となり、聖武天皇の尊信を得、東大寺の建立に盡力したが、彼の杉を父母と思ひ、毎日参拝を怠らなかった。それが今いふ良辨杉で、二月堂の下に聳えて居る。
 さて良辨の母は、其後三十年間、東西に彷徨って子の行衛を求めて居たが、偶然淀川の舟の中で、当時南都に栄えてゐる良辨僧正が、幼時鷲に取られて奈良に来た子供の後身ださうなとの噂を耳にし、若しやと思って、此地に尋ね寄り、遂に此樹の下で母子の対面をとげたといふ。(山田熊夫)
● 若狭井戸 (東大寺境内)
 昔、實忠和尚が、東大寺二月堂修二会の行法中、全国一萬七千余の神名をよみ上げ、参集を求められた所、若狭の国、遠敷明神だけが魚釣りに出て居て遅刻された。諸神が其遅刻を咎められた。
 遠敷明神は、遅刻の申譯(※信約)として、道場のほとりに、香水を出して奉らうとて、懇に祈念せられると、二月堂下の大岩が、グラグラと動いて二つに割れ、其間から黒白二羽の鵜が飛び出し、傍の樹に止った。続いて無類の清水が涌出した。
 實忠和尚は、石を畳み、之を閼伽水とせられた。今現に二月堂の下にあって、国宝建造物にふたはれた若狭井は是である。
 此井戸には、常に水なく、一年に一度、即ち修二会中の三月十二日夜半、 『お水取』の儀式の時にだけ、彼の若狭の遠敷明神の社前の川の流れが止まり、其水がこゝに湧出るものだと言はれる。二月堂のお香水として信者に授けられるのは、右の儀式によって汲上げられた水である。
 (山田熊夫)



若狭井戸
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