● 鏡神社の祭神は片目
 福井町(現:高畑町)にある鏡神社は藤原広嗣をまつっている。
 広嗣が九州で戦ったとき、馬から落ち笹の葉で眼をついて片目となったので、祭神も片目であるといい、現在この神社の氏子である高畑町では、チマキに笹の葉は使わないという。
● チマキをつくらない町
 奈良市のあちこちにチマキを作らない町があり、それぞれに伝説を残している。
誓多林に弘法大師が来られたとき、農家でチマキを作っていたので、大師はその一つを請われたが、与えなかった。大師は「そんな心であるなら、お前たちの作っているチマキを全部蛇にしてやる」といわれた。百姓が蒸釜の蓋を取ると、チマキはみな蛇になっていた。
それからこの里ではチマキをつくらなくなったという。
 東九条町では里の神様がチマキを作っておられたとき、葉の先で目を突かれたので、それ以来作らなくなったという。
 古市町ではソラ豆とチマキは作らない。ここでも氏神様がチマキの葉で目を痛められたといい、ソラ豆は弘法大師が古市に来られたとき、里人の煎っていた豆が大師の目に当ったからだといい伝えている。
 阪原町ではチマキの形が男根に似ているので作らない。もし作ると、蛇になるという。
 鏡神社の氏子もチマキを作らない。
● 景清門 (奈良市手貝町)
 東大寺西北の大門・転害門《てんがいもん》を手貝門とも景清門ともいう。
 手貝門というわけは、昔、大仏が成就して、その開眼の導師菩提僧正を天竺から請待された。その菩提僧正が到着した時、この門で、待ち受けて居た我接待役の行基僧正が、早く早くと内から手招きした。その格好が丁度手で物を掻くようであった。それでテガキ門といったのが転じてテガイ門になったという。
 又、景清門というわけは、彼の平家の勇士悪七兵衛景清が、大仏供養のために上がって来た鎌倉の将軍・源頼朝を暗殺し、一族の怨みを晴らそうと思い、ここに待ち伏せして居たからの事だという。(山田熊夫)
● 景清地蔵尊 (安裸子新薬師寺)
 悪七兵衛影清が、大仏開眼供養に参列するため奈良に来た源頼朝を殺して、一族の恨みを果たそうと、転害門にひそんでいたが果たし得なかった。
 その後、影清は福井町に住んでいた母を尋ねて改心し、等身大の地蔵尊を刻み、自分の身代わりとして母の元に置き、わが目をついて死んだという。母はその後、毎日この地蔵尊に影清の冥福を祈ったという。現在、新薬師寺の本堂に影清地蔵尊として祭っている。
● 景清地蔵 (奈良市新薬師寺)
 奈良の新薬師寺に、景清地蔵という等身の木像があって、錫杖のかわりに弓を持っている。
 昔、悪七兵衛景清が、東大寺の景清門で、大師の飯をぬすんで食っていた。其後、新薬師寺の東の隠れ家に母親を尋ねて来て、大いに敬心し、等身の地蔵尊を作って、身がはりとして母の許に置き、みづから、我が眼をつぶして入定した。其像がこれである。
 その木像は、明治十年頃に、六圓で売られて居たのを、新薬師寺前の奥殿卯吉という人が買いもどして、新薬師寺に寄付したものである。 (橋本春陵)
● 夜なき地蔵 (奈良市新薬師寺)
 昔、春日神社に、夜な夜な子供の泣き声がした。神人があやしんで、その声を求めて行くと、本殿のおづしの中から出て居る。おそる、おそる、おづしを開いてみると、春日様というのは、地蔵様の姿であった。
 「新薬師寺にゆきたい。」
と、おごそかに仰せられた。それで、すぐ新薬師寺に移し、毎年春日神社から五斗の米を寺に届けるようにした。それが明治維新まで続いた。
 今、寺内の香薬師堂にある地蔵尊がそれである。(橋本春陵)
● 流れて来た十二神将 (奈良市新薬師寺)
 奈良の新薬師寺本堂には、国宝塑造の十二神将がある。是は昔、大洪水で岩淵寺から流れて来たものだという。
 岩淵は、新薬師寺の東南十丁程の所にあり、弘法大師の師僧なる勤操僧都のいた所、昔は千坊があったといわれている。(橋本春陵)
● 興福寺花の松 (奈良市興福寺境内)
 興福寺東金堂前に蟠った老松は、昔、弘法大師が、東金堂薬師如来に献ずるべき永代の花として、植えたものであるから、今も『花の松』と呼ばれるという。
 この大木の脚を、奈良の南なる添上郡東市村古市の廣瀬氏というのが嘗て寄進したので、古市の方角に向かってばかり、枝が伸びる。維新前までは毎年その廣瀬氏から脚をしたものだという。(橋本春陵)
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