● 長谷寺本尊の由来
 磯城郡初瀬町
 昔、大出水のあった時に、近江の国高島郡へ大きな木が流れついた。
 ある人が、その木のはしを伐り取ったところが、その人の家が焼けてしまい、その上、その家を始め村中に病気が流行して、死ぬ人が多かったので、占わすと、その木のたたりであると云うことで、その後はその木の傍による人もなかった。
 ところが、大和国の葛城の下の郡に住む人が、用事でその木の付近を通り、その話を聞いて、この木を以って十一面観世音の像を造り奉らうと考えたが、自分の家へ持って帰る方法がなかったので、そのままにして帰った。
 その後、人を伴うてあの木のところへ行った。重そうな木だったが、試みに、縄をつけて曳いて見ると、案外に軽いので、よろこんで葛城の当麻まで曳いて来た。
 しかし、その人は志を遂げず、久しく木をそのままに置いて居る中に、死んでしまったので、そのまま八十余年が過ぎた。ところが、その村に又病気が流行した。又、この木の故だと云うので、村人は長谷川へ曳いて行って捨てた。
 その後二十年を経て元正時代の御代に、僧徳道が、その木で、十一面観世音を造り奉り、神亀四年に出来上がり、夢のお告げによって、長谷寺の地に伽藍を起こしたのである。
 (東蕗村)


長谷寺の廻廊
● 塗潰しの絵馬
 百十余年前のこと、長谷寺へ、弁慶と牛若丸との五條橋の戦の絵をかいた絵馬を奉納した人があった。それ以来毎夜毎夜、長谷寺では剣戟の響きが絶えなかった。不思議に思った僧正は、ある夜ひそかに、音する場所へ忍び寄り、聞耳を立てていると、その絵馬そっくりの姿の弁慶と牛若丸が出て戦っているのであった。僧正は驚いて、翌朝早速その絵馬を塗り潰してしまった。すると、その晩からは剣戟の音もなくなった。やがて一年たち二年たちすると、塗り潰した墨も剥げて、又剣戟の音が始まった。僧正は困ってしまった。その絵馬を取り外すことも出来ず、それからは、毎年一度づつ、この絵馬を塗り潰すことにしたそうである。(柏原賢二司)
● 玉葛の旧蹟 磯城郡初瀬町
 初瀬町、初瀬川の東、鍋倉垣内の北に、玉葛<たまかずら>ノ内侍の墓という五輪塔がある。内侍は、筑紫から態々右近を尋ねて京に上り、初瀬観音の霊験によって、右近に会った後、長くここに庵を結んで住っていたという。(萩原愛孝)
● 流れ地蔵
 出雲に、流れ地蔵という石像がある。はじめ、初瀬の桜の馬場に在ったのが、大洪水のため流されて、出雲とその下流の黒崎との間に止まり、その後今の地に祭られたので、この名が出たという。(萩原愛孝)
● 笠間の長者屋敷
 笠間から初瀬にゆく途中に、長者屋敷という所がある。かなり広い荒地で、片隅に小さな祠がある。
 昔、ここに一人の貧乏な男が住んでいた。正直で善く働き、深く神信心をしていた。或る夜の夢に、その荒地の隅に、沢山の金の入った壺が埋まっていると見て、目が覚めてから、ヒョッとしたらと思って掘ってみると、間違いなくその壺が現れた。これでその男は急に百萬長者になった。これも神様のお陰と思って、益々信心を怠らなかった。併しその子孫はそれとも知らず、贅沢に耽ったので、ついにその家も亡び、屋敷は元の荒地になってしまったという。(笠谷竹夫)
● 蓑丸長者
 長谷寺の観音堂に、七書夜の断食参籠をしていた一人の旅人があった。今日しもその結願で、餓えを忍びながら、初瀬と笠間の境にあたる長井坂まで下って来た。もう餓えに堪えられなくなったその眼に、ここで一筋の薯蔓<いもづる>が見つかった。我を忘れてその蔓の根を掘って行くと、底から黄金のいっぱい入った壺が出てきた。旅人はこれで一躍大金持ちになった。早速ここに大きな家を作って、蓑丸長者と呼ばれた。
 長者はわずか二代で死んだ。今の長者屋敷という所は、その家のあとだという。
(萩原愛孝)
● 泥かけ地蔵尊 磯城郡安倍村
 醍醐天皇の御代延喜六年、安倍の青木山に青木千坊を建立された。その境内に、皮膚病に霊験ある、地蔵尊をお祀りしてあった。或年の夏、この千坊が大火でなくなり、地蔵尊は、境内の用水池に沈められた。後、里人が掘り出して、池の傍に再興した。当時、地方に天然痘が流行して、人々が大変苦しんだが、この里人だけは、誰一人も病に罹らなかった。これはきっと、地蔵尊のお守りだと云ふ事になった。そこで、隣村の吉備から、地蔵尊を借りに来た。池の尻までは、楽々と動かせたのに、それからは、どうしても動かなかった。是非なく借用を断念して、元の場所へ運ぶと、又楽々と動いた、村人が、こんな偏僻な所では、人々が参詣するのに、不便であるといふので、街道の方へ遷しかへようとしたが、矢張り前の時の様に動かなかった。
 そんなに動かない地蔵さんが、その後二度も池中に沈まれた。これは不思議、きっとお地蔵さんは池の泥がお好きに違ひない。お体に泥を塗ると、およろこびになるだろう。と云はれるようになった。で、皮膚病の人はお詣りして、満願の日まで、地蔵さまの体の、自分の病む所と同じ所へ、この池の泥を塗ると、その病を癒して下さることになった。(森継義雄)
● 智恵水 磯城郡安倍村阿部
 日本三文殊の一つなる安倍文殊院境内には、二つの古墳がある。その一つを閼伽井《あかひ》窟といふ。その古墳の玄室の中央に、弘法大師自作とつた傳へる不動尊の石像があり、その前に閼伽井がある。とてもきれいな清水である。これを智恵水といひ、この水を硯にうけて手習ひをすると、能書家になるといはれてゐる。
 (島本常治郎)
● 安倍の七つ井戸 磯城郡安倍村阿部
 七つ井戸は阿部にある。七ケ所から、年中清水が湧出して、石ノ川の源になつて居る。そこに見事な芹が沢山生える。
 昔、聖徳太子が、こゝの橘街道をお通りの時、皆々其行列を拝観に出てゐる中に、只一人見向きもしないで、芹を摘んで居る娘があった。太子が恠んで其譚を尋ねられると、
 『私の母は、私に芹を摘めとは申しましたが、太子様の行列を見よとは申しませんでした。』
と答へた。太子は大に感心され、後に召出して侍女の中へ加へられた。其時の芹が、即ち此七つ井戸の芹である。(森継義雄)

● 八釣の地蔵 磯城郡香久山村下八釣
 『八釣の地蔵さん』と呼ばれて、リューマチス等の病気に霊験があり、遠近の信仰を集めてゐる地蔵尊は、天ノ香久山の西北麓、下八釣のある。初め聖徳太子が篤く信奉され、後、蘇我氏が太子の御一族を滅した時、佛像は火をのがれて天ノ香久山の頂上に飛移其後今の所にまつられたといふ。(大窪庄一)

● 村名大隅の由来 磯城郡耳成村大隅
 昔、九州の大隅、薩摩から、天子の御心を慰める為に、京都に上って、御階の前で、犬、鳥、牛などの鳴聾をすると云ふ御用があった。当時、大隅の者は、今の耳成村大隅に、宿場として一軒の家を建て、往復そこで一・二日滞在することにしてゐたが、右の御用が廃止になった後も、帰国しないで土着したのが、此大字だと云ふ。
● 登ればソコマメをやむ丘 磯城郡耳成村太田市
 太田市の子安神社の東にある小さい丘を、マメハラと云ふ。高さ二尺、根廻り六間余りしかない。昔から、その上に登るといけない、若し誤って登る時は、ソコマメを病むといふ。これは目原神社の根本地であるからだといふ。(吉岡義一)
● 擔はれてきた山 畝傍山及耳成村
 昔、辨慶が、大きなフゴで、山盛りの土を擔って、今の高市郡八木町附近まで来て、あまり重いので、其荷を置いた。それが耳成山と畝傍山とになった。八木の東外れにある夫婦池といふ二つの池は、其時の辨慶の足がただと云ふ。是は八木町辺の伝えである。(崎山卯左衛門)

此話の辨慶は、磯城郡朝倉村笠間地方では、役ノ行者となってゐる。(笠谷竹夫)
● 矢継ぎの森 磯城郡多村
 昔、大和の土佐の殿様が、郡山の殿様の方へ、矢を射た。すると今の磯城郡多村にある多社の西数町の所で、今小さな森がある所へ落ちた。これではならぬと、こゝから又矢を継いで再び射た。それから此の森を、矢継の森と云ふことになった。地は平野村に属してゐる。
 又一説には、昔聖徳太子が、何處か自分の住むに適した所はないものかと仰せられて、南から乾の方を向き、『あの方面が良いように思はれるで、これから矢を射るから、私は其の落ちた所に行かう。』と申された。そして矢を放たれると、今の矢継ぎの森に落ちた。そこで、家来が其の事を申し上げると、太子は、まだ距離が近いからと仰せられて、再び射放たれると、現在の法隆寺の所へ落ちた。愈々これで良いとて、永住の地と定められた。矢継の森には今、『矢継さん』と云ふ祠がある。(崎山卯左衛門)
 参照。山邉郡 ● うらなひの木
● 石棺発掘の祟り 磯城郡多村西新堂
 西新堂の氏神の西北方に、一つの塚がある。東西一間、南北二間半程で、石棺の一部分が露はれてゐる。昔、此塚は尚大きく、石棺も深く土中にかくれてゐた。其頃、村の総代が五六人の者を雇うて、此塚を発掘しようとした。一丈許ほりさげて、石棺が見えてきたと思ふと忽ち龍が昇るやうな雨雲が降って来、それに連れて、大暴風雨となって、神社の木が倒れる、村の家が壊れる、それはそれは大混乱を現出した。人夫達も仰天して其儘散りうせたので、一人残った総代は、狼狽しながらメチャメチャに石棺を土で蔽った。そして石棺が見えなくなってしまふと、大暴風雨はパッと晴れた。尚不思議な事には、此時、隣村では何の変わりもない晴天であったといふ。(清水重治)
● 八王寺の椿 磯城郡川西村結崎
 結崎の村を抱いて清く流れてゐる寺川の堤に、八王寺の椿といふのがある。触れると祟ると云ふので、其一区域だけは、雑草も刈る者がない。
 昔、或る若者が、此の椿の美しいのを愛でて、一枝折って帰り、床の間に活けた。ところが、活け終わると同時に、花はバラバラと散ってしまひ、若者は床について、十日程して死んでしまった。是から、愈々此椿は恐れられることになった。
 (上野恭雲)
● 油かけ地蔵 磯城郡川西村北吐田
 大軌電車・郡山線・平端駅より西南約十四五丁、板東の里より結崎に通ずる間道、南吐田と、北吐田の境界の四辻に、西向に立ってゐる地蔵尊がある。油かけ地蔵といふ。
 二百年程昔、泥田の中に、お地蔵様が埋もれてゐたのを、一人の村人が見つけて、お気の毒に思ひ、村人と相談して、引き上げて、其のまゝおまつりしておいた。ところが或る人が、あまり、お地蔵さまが汚れて、見苦しいので、地蔵様もお困りだらうと、水をかけ、タワシでゴシゴシと洗って、泥を落とし、きれいにした。その人は、『アゝきれいになった。これでお地蔵様もおよろこびだらう。』
と、家へ帰った。其夜其人は、俄に腹痛になって、とても苦しんだ。あまり苦しむので、看護の人が、種々しらべると、昼に地蔵さまの体を洗ったとの事、それでは、地蔵様のお怒りにふれたのだから、早速謝罪つて元通りにせなければならないと、折角洗った地蔵さまの体へ、又泥をかけたり油を浴せたり、元通り汚い地蔵様にした。すると今まで腹痛で、部屋中のたうち廻って苦しんでゐた病人が、ケロリとなほってしまった。その後、或る可愛い一人児を持った母親があった。其の児の全身に悪性なクサが出来て、日夜苦しめられた。母親はこの汚い地蔵様に平癒を祈り、地蔵さまの体についてゐた汚い油と、どの泥のネバネバしたのを戴いて、我が児のクサに塗った。斯うして毎日地蔵様へお詣りして、新しい油をかけ、古い油を児のクサに塗りしてゐる内に、さしも悪性なクサも、遂に治ってしまった。是から此お地蔵様は、クサを治す地蔵様になった。此の信仰は、今も続いて居る。汚いからと云って洗ったりすると、すぐ腹痛になるさうで、地蔵様は、毎日油を頭からかけられて、汚い姿で立ってゐられる。(上野恭雲)
● 源兵衛さん 磯城郡川西村唐院
 唐院の村外れに、西口地蔵といふのがある。栴檀《せんだん》の大樹二本の下にある。昔、この村に源兵衛さんといふ人があった。村一番の金持ちの息子に生まれたのであるが少し変り者であった。いつもこの道に腰かけて、『左は箸尾村、右は法隆寺、東は結崎村。』といって、道案内をしてゐた。鳥の鳴かぬ日はあっても、この源兵衛さんの出ぬ日はなかった。本当に石標の代りであった。一生涯こゝに居て、幾百千人かに道を教へた。この源兵衛さんが死んでから、兄の綿屋五郎四郎はこゝに一つの地蔵を刻んで、弟源兵衛の記念として建てた。死んでも、源兵衛さんは人を導いて居るのである。銘に『觀山道慶禅定門觀慶清音禅定門、俗名爲源兵衛位、右法隆寺大阪、左高野高田。』とある。(乾健治)
● 焼け地蔵 磯城郡川西村唐院
 唐院の東口、交叉した道に南面した地蔵堂がある。村の人は『焼地蔵』と呼んでゐる。どうしたのか、この堂は十年に一度は、何の原因もなしに必ず焼けるからである。焼ける度に新しい堂が建てられ、その都度堂が一尺づゝ大きくなって行く。新しいお堂の中の石地蔵は真黒である。(乾健治)
● 白蛇の霊 磯城郡川西村唐院
 唐院の福西氏の裏、『城の内』といふ所に、八王子といふ小祠と一基の石燈籠とがある。もと、唐院山の城址で、昔、其城主に可愛がられた白蛇が一匹居た。この蛇は、城主の守り神の役をつとめ、何か変事のある前には、いつも城主に或予感を与へてゐた。落城後、白蛇は。こゝの小祠に置かれてゐたが、間もなく死んで、その地に埋められ、あとで更に石燈籠がたてられた。其後、夜な夜な怪しい火の玉が此燈籠から出るといふ。(乾健治)
● 實盛塚 磯城郡川西村上保田
 上保田に實盛塚がある。實盛といふ刀鍛冶の墓だと云はれてゐる。
昔、この塚の土を、すっかり取ってしまった者があった。ところが、忽ち大病に罹ってしまった。家族は大変おそろしく思って、もとのやうな塚を築くと、病はからりと癒ってしまった。其の後は、誰もこれに触れるものはなくなった。(乾健治)
 又一説に、實盛は此村あの名鍛工で、村民から大に敬はれ、死後墓を造って弔はれた。後に、其墓と知らずに田にした人があって、夢に實盛の塚と分り、大病にかゝって死んだ。村人は恐れて再び此塚を造ったともある。(山田熊夫)
● 片目の神様 磯城郡川西村保田
 六縣《むあがた》神社の境内には、杉の木が沢山ある。周囲六尺乃至九尺の大木が五本もある。
 或夜、あまり月がよいので、保田の神様が、境内を散歩された。そして、杉森の中に一本の松のあるのを忘れて、杉ばかりを愛して居られた。すると、不意に、神様の左の目を松葉の針が刺した。神様は苦しんで、その夢を村人におみせになった。村人は、毎夜の様に同じ夢をみたので、一同相談して、其松を堀取り、六縣神社と由緒深い河合の廣瀬神社へもって行き、そこの杉と取替へて貰った。今、沢山の大木の中に、若い杉の一本あるのは其杉だと云ふ。(乾健治)
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