● 蟻通しの宮
 磯城郡纒向村穴師
 穴師から少し高く登った所に、蟻通しの宮という祠がある。昔、支那から我国へ、智慧だめしの不思議な玉を持って来た。ジッグザッグしたアナを持った玉だが、それに紐を通して呉れとの難題であった。そこで、時の天皇は、これを臣下に諮問せられたが、誰一人お答への出来る者はなかった。其内ただ一人、その難題を解決して、完全に紐を通し得た者が出た。それは、孔の一方の口に砂糖をつけ、他の一方の口から蟻を入れ、其足に細い糸を結びつけておくと蟻は砂糖の香ひを求めて、ドンドン孔の内部に進んで行き、遂に一方の口まで糸を曳いて出たのであった。其功績により其人を祀られたのがこの宮である。穴師という地名も、それから出たと云われる。(小島千夫也)
 参照:吉野郡『蟻通明神』


● かた屋敷 磯城郡纒向村穴師
 穴師神社の二の鳥居から、二丁許り西の所に、『かた屋敷』という所がある。形屋というのは、角力場所の古語である。垂仁天皇の御代、野見宿禰と當麻蹴速の、力くらべをした所であるという。(荻原愛孝)


● 狭井神社の鎮花祭と薬井 磯城郡大三輪町(旧磯城郡三輪町)
 四月十八日(昔は旧三月十八日)に狭井神社で鎮花祭が行われる。
花の咲く頃疫病が流行するので、それを鎮めるためだといわれている。それで、この神社を花鎮《けちん》社、または「しずめ宮」ともよばれ、土地の人は「しじめさん」ともいっている。
 この神社の境内に「薬井」があり、万病にきくというので、この霊水をいただく人が多い。昔は三輪素麺もこの薬井の水を使って製造したものだとも伝える。
  (荻原愛孝)
 また、三輪山から出て、狭井神社をめぐり、箸中に流れる巻向川にそそぐ間を狭井川といい、俗に薬川ともいう。この水を飲むと病がなおるともいう。(乾健治)


狭井川の山百合 磯城郡大三輪町茅原(旧磯城郡三輪町茅原)
 神武天皇が橿原に都を定められ、新しく皇后をお迎えになることになり、大和の高佐士野《たかさじぬ》で七人の姫たちをご覧になり、その中で、大物主命と三島湟咋《みしまみぞくい》の娘、勢夜陀多良比売《せやたたらひめ》との間にお生まれになった比売多多良伊須気余理比売《ひめたたらいすけよりひめ》という方を皇后にお決めになった話は古事記に出ているが、日本書紀では、大三輪の神の娘、媛踏鞴五十鈴媛命《ひめたたらいすずひめのみこと》とも、また事代主神《ことしろぬしのかみ》と玉櫛媛《たまくしひめ》との間に生まれられた娘ともなっている。
 いずれにせよ、三輪の神さまの娘で、三輪山のふもとを流れる狭井川のほとりに姫の家があったと土地の人は信じている。このあたりには山百合がたくさんあり、山百合の古名を「さい」といったので、「佐韋河《さいがわ》」といったという。
 奈良の率川《いさがわ》神社の三枝《さえぐさ》祭は六月十七日に行われるが、この姫のお祭りだから、この狭井川の山百合を捧げることになっている。
(荻原愛孝)


● 僧都《そうず》川 磯城郡大三輪町茅原(旧磯城郡三輪町茅原)
 僧都川は一名三輪川ともいい、玄賓僧都のいた玄賓庵の境内と旧屋敷の間を流れている渓流である。玄賓僧都は常々この水で沐浴され、修行をつまれていた。
 平城天皇のお召しがあって宮中に出た時、
   みわ川の清き流れにすすぎてし
     衣の袖をまたやけがさん
とよんだのも、この川のことである。玄賓庵の東で、この僧都川に滝を作って、玄賓の滝といい、参詣者はここで身を清めている。(荻原愛孝)


明神さんの箱 磯城郡大三輪町茅原(旧磯城郡三輪町茅原)
 茅原には昔から正言講という神事組合があり、この神事の中心は明神さんの箱である。この箱の中には、慶長十五年正月十一日、この講をはじめた時の記録の巻物を納め、それを荒縄で七くり半(七回り半)くくって、三輪明神のご分霊と崇めている。これは三輪の明神さんが巳《みい》さんで、三輪山を七巻き半しているという古い伝説によっているので、箱は三輪山、縄は蛇ということにしている。今も毎年四月一日には当屋で神事が行われ、一同そろって大神神社へ参拝する。
  (荻原愛孝)


● 車谷の夫婦松 磯城郡大三輪町箸中(旧磯城郡織田村箸中)
 上箸中の車谷の三分の一の地蔵さんの前に、一株から二本に分かれた松があり、夫婦松と呼んでいる。昔、三分一分水で水げんかがあって血の雨を降らした。その仲直りに、分水の井堰《いぜき》の石の下には人柱が埋めてあるといわれている。またその時、記念として植えた木が二つに分かれて大きくなったのが、この夫婦松だと伝えられている。その時の水げんかで死傷した人々の霊をなぐさめる地蔵を祭ったのが、今の地蔵さんである。(堀井甚一郎)


● 金の鎧の落武者 磯城郡大三輪町三輪(旧磯城郡三輪町三輪)
 今は廃寺になっている三輪の平等寺へ、昔、金の鎧を着た大将らしい落武者がやってきた。寺へ武士は入れないので、僧は武士の頭をまるめて坊主頭にして、かくまってやった。そこへ追手の武士がきて、落武者がこなかったと尋ねたが、僧は、
「ここはお寺だから、そんな武士はいない。お前も武士だから早く帰るように。」
といった。それを前の落武者は、味噌をすりすり聞いていたという。
 あぶない一命を助けられた落武者は、いくさが終わってから国へ帰り、そのお礼として毎年平等寺へ米四十石(およそ六〇〇〇キログラム)を行列を作ってもってきていたという。それで、この寺は知行八十石の他に四十石の収入があったといわれていた。しかし、その黄金作りの鎧は、いつか盗人がはいってとられたという。
 この落武者は、関ヶ原合戦で敗れた島津義弘であったという。(勝井武雄)


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