● 音羽と黒崎の火の印・水の印
 桜井市音羽・黒崎
(旧磯城郡多武峯音羽・朝倉村黒崎)
 昔、音羽に千坊も寺のあった盛んな時、札所の番定めが行われた。その時、黒崎の隣の出雲の観音様が、この番定めを邪魔されたというので、音羽は黒崎に対して火の印を結んだ。黒崎はこれに対して水の印を結んだ。そのために黒崎の石は全部焼けて黒くなり、音羽は水のために流された。今も音羽流れとして民間に伝えられている。(桜井町史続による)



● 京の清水と音羽 桜井市音羽(旧磯城郡多武峯村音羽)
 ここの音羽寺の新寺であるといわれる京都の清水寺ができて、その滝開きがあった時、「京の水や、清水や。」と称えごとをされたが、滝の水は出なかった。
 それで本寺である音羽という言葉を用い、「音羽の滝や、清水や。」と称えられると滝の水が出たという。(桜井町史続による)
 


● 音羽観音寺 桜井市音羽(旧磯城郡多武峯村音羽)
 昔、音羽に多くの寺院のあった時、ある高名の上人が夢の中に、
 「この上に霊地あり、そこに至れば万病癒ゆ。」と告げられ、
ふと目を開けると、眼前に白髪長身の老人が現われて、
 「お前は何をしているのか。」といわれた。上人が夢の話をすると、
 「しからば、その霊地を教えよう。」という。ついて行くと、立石より登ること十八町(二キロメートル)の、現在の音羽観音寺の地であった。
 (桜井町史続による)


● 菊目石 桜井市南音羽(旧磯城郡多武峯南音羽)
 南音羽字滝谷に三つの滝がある。長谷寺から名僧がきて行をしておられる時に現れたという不動尊を祭っている。この滝川から菊目石という軽石のような石が出る。土地の人は水垢離の塊だといっている。(桜井町史続による)


● 笠神の森 桜井市百市(旧磯城郡多武峯村百市)
 多武峯街道の百市の東方、山の中腹に、こんもりと茂った森があり、笠神の森という。昔、多武峯衆徒がこの地で激戦して多数の死者を出したので、ここへ埋めたという。また、藤原鎌足の子が家来をつれてきて、死者をここへ埋めたともいう。(桜井町史続による)


● 六万谷 桜井市八井内(旧磯城郡多武峯村八井内)
 八井内の東方の谷を六万谷という。天正の兵乱に、松永久秀が多武峯を攻めた時、将軍地蔵の威徳により、谷々に杉・檜が六万の大軍に見えたので、その名があるといわれる。(桜井町史続による)


● 舟石と鳴石 桜井市百市(旧磯城郡多武峯村百市)
 多武峯街道の通称観佳渓《かんかけい》から南方へ三〇〇メートルほど登ると、山林の中に大きな舟形の石がある。この石を舟石といい、真中から二つに割れているのは、昔、弁慶が割ったのだといわれる。
 また、観佳渓の下に鳴石というところがある。大きな石があって、この石のある部分に耳をつけて聞くと、糸を繰るような音がするので、鳴石といい、この辺の地名になった。(桜井町史続による)


● 飯盛塚 桜井市多武峯(旧磯城郡多武峯村)
 昔、この辺に桜が多く、花時の遠望はあたかも飯を盛った形に似ていたといい、西行法師が飯盛塚と名づけたという。(磯城郡誌による)


● 牛石 桜井市多武峯(旧磯城郡多武峯村)
 多武峯の下乗石から更に二〇〇メートルほどのぼると道の左側に、その形、牛の伏したような石がある。昔、殿様が多武峯を見分しようとしてここまでくると、はげしい雷が鳴り、たちまち、護法善神がこの石の上に現れたので、殿様は恐れてついに目的を達せずにかえったという。(乾健治)


● 入鹿の首の落ちた所 桜井市多武峯(旧磯城郡多武峯村)
 談山神社付近に、蘇我入鹿がかくれたという岩がある。鎌足が入鹿を攻めた時、入鹿はのがれて、この岩にかくれた。しかし追手に見つけられ、ついに首を切られてしまった。入鹿が首を切られた時、首はポーンと大きな音をたてて飛んでいった。そうして談上が森に落ちた。この談上が森は、中大兄皇子と藤原鎌足が入鹿誅伐の相談をされたというところである。その首が飛んだ夜、天地が大いに荒れたということである。談上が森は、いまの談山神社の上手にある。(中尾新緑)


● 大日堂の鐘楼と鐘つき田 桜井市黒崎(旧磯城郡朝倉村黒崎)
 黒崎の大日堂に釣鐘が寄進され、りっぱな釣鐘堂が建立された。この村に貧しい老夫婦が住んでいて、「作兵衛さん、作兵衛さん」と村人に慕われていた。 自分たちの死後も、この鐘が毎日村中にひびきわたるようにしたいという念願から、
「自分の全財産である田地五畝(約五アール)を村へ寄進し、鐘つきの費用にあててもらいたい。」と申し出た。村では、その田の所得を鐘つき人の所得とし、その田を「鐘つき田」とした。村人はかれの徳を慕い、大日堂の前庭に石塚を建て、毎年供養をしていた。しかし、その鐘は昭和十九年に供出され、今は鐘楼だけが残っている。(桜井町史続による)


● 天の岩屋  桜井市龍谷(旧磯城郡朝倉村龍谷)
 龍谷の天の岩屋というところがある。昔は北の慈恩寺で世話してきたところで、今も雨が降らない時は、祈願のためおまいりする。その岩屋の中に清水がちょろちょろ流れている。そこへ白木綿を流すと、奈良の猿沢池まで流れてゆくと伝わっている。(西野英子)


● 与喜《よき》山 桜井市初瀬(旧磯城郡初瀬町初瀬)
 長谷寺の東にそびえる山を与喜山という。中腹に菅原道真を祭る神社があるので、天神山ともいう。菅原道真が長谷寺に詣で、その山容を眺めて、「良き山」とたたえられたので、与喜山というようになったという。(巖樫俊夫)


● 化粧坂《けわいざか》 桜井市初瀬(旧磯城郡初瀬町初瀬)
 初瀬から宇陀方面へ通じる古い伊勢街道に、化粧坂というところがある。
ここに巨岩があり、これは泊瀬斎宮《はつせのさいぐう》跡だといわれている。土地の人は伊勢に詣る女御の化粧したところとも、倭姫命が化粧されたところともいっている。(巖樫俊夫)


● 豊山《ぶざん》と泊瀬《とませ》石 桜井市初瀬(旧磯城郡初瀬町初瀬)
 長谷寺のある土地を豊山といい、泊瀬豊山、または豊山長谷寺というのは、昔、この土地は三神の里、初瀬川を神川といっていた。ある時、初瀬の川上約二キロの滝倉山にまつる毘沙門天像を、雷神が奪って天に昇ろうとした時、毘沙門天所持の宝塔が落ちて川に流れ、与喜山の麓、今の天神橋下の瀬に泊まった。土地の人は、そこにあった大きな石を泊瀬石と呼んでいる。時の大臣武内宿禰《おおおみたけのうちのすくね》がこれを占って、「これ天の徳を授け、地の栄を表すなり。」といい、宝塔を北峯最北隅に祭り、今までは三神の里といったのを改めて、泊瀬豊山とした。はじめは豊の山といったが、豊山というようになった。
 (長谷寺縁起による、巌樫俊夫)


● 天狗杉 桜井市初瀬(旧磯城郡初瀬町初瀬)
 長谷寺の仁王門を入って、一の回廊を上りつめたところの右側に、一本の大きな杉が高くそびえている。この杉を天狗杉と呼んでいる。長谷寺第十四世の能化《のうげ》(今の管長)に英岳大僧正という高僧があった。伊賀上野の生まれで、小僧の時から長谷寺へ登って勉学修行されたが、英岳のお師匠さんの寺は貧乏だったので、苦学され、毎晩回廊の釣燈籠に灯をつけてまわって、残りの油をいただいて自分の部屋の行燈《あんどん》に灯をつけて勉学されていた。その頃は回廊の左右には大杉が繁っていて、天狗がいたずらをして釣燈籠の灯を消し、灯のさらをひっくり返すので、英岳は、
 「天狗といえども、長谷の霊山のやっかいになっているくせに、観音さまにあげる燈籠にいたずらし、あまつさえ、三界の大尊師となるべきわれら僧侶に迷惑をかけるとはけしからぬ。よし、わしがこれから修行して、必ずこの長谷寺の能化となり、その暁には天狗の住む杉の木を一本残らず伐り払ってやる。」
といって発奮された。それから五〇年、六十六歳にして能化の栄職につかれた。
 英岳大僧正山内各伽藍の再建修築のため、杉の大樹を伐られたが、木樵《きこり》が最後の一本に斧をかけようとした時、
 「まあ、この杉だけは伐るのを待ってもらいたい。なるほど、わしは天狗のいたずらで発奮したが、天狗はわしの恩人でもある。この一本だけは、天狗の安住の場所として残してあげよう。」といわれたという。
  (豊山長谷寺による、巌樫俊夫)



長谷寺の天狗杉
● 未来鐘 桜井市初瀬(旧磯城郡初瀬町初瀬)
 長谷寺の長い回廊を上りつめたところの頭上にある鐘は、未来鐘といわれている。昔、山城木津の里にひとりの貧しい人があり、野慈と呼んだ。家は貧しいが信心深く、長谷寺観音に月詣りした。
 ある時、宿坊の慈願に、この寺の鐘楼の小さいことを話し、
  「わたくしの願いが成就しますと、鐘を一口奉納します。」といった。
聞いていた人々は、
 「なあんだ、未来のことか。」と笑った。それからこの男を未来男と呼んでいたが、その後、観音の御利益によって近江の国司代になり、栗田助貞と改名し、鐘を鋳て奉納し、供養を営んだという。それで、この鐘が未来鐘と呼ばれる。
 (豊山長谷寺による、巌樫俊夫)


● 曽我地蔵 桜井市初瀬(旧磯城郡初瀬町初瀬)
 長谷寺本堂内に曽我地蔵という地蔵さんをまつっている。文保の昔、奥州田村にある多聞院の鏡線は、長谷寺の専誉上人について学業を受けたが、その郷里に帰り、ふたたび豊山に上らうとした時、相州箱根山中の権現さんのほとりで、狩衣いかめしい一老翁が現れ、
 「われは曽我十郎祐成で、地獄におちて呵責をうけている者である。
弟五郎時致は強化をうけて再生し、今は長谷寺の専誉上人となっている。それでお前が帰山すると、専誉によって地蔵菩薩を彫刻せしめ、開眼供養して、われを成仏させてくれ。」といった。鏡線は、
 「何をもって、専誉上人が五郎であることが証明できるか。」と尋ねると、
 「上人の右脇下に牡丹の形の赤あざがある。また、腕力がすぐれ、ことに左手が強い。」といって、にわかに姿を消した。
 長谷寺へ帰って専誉に告げると、
 「示すところに赤あざはあるが、力はそうすぐれているとは思わぬ。しかし、何を持っても、そう重いとも感じない。」といいながら、試みに左手で庭石を持ち上げると、軽々と上がった。それで前生の兄十郎の菩提のために、この地蔵尊の大座像を彫刻し、開眼供養を行なうたという。(豊山伝通記による、巌樫俊夫)


● 論議地蔵 桜井市初瀬(旧磯城郡初瀬町初瀬)
 今は長谷寺本坊に安置されている論議地蔵は、もと地蔵堂の本尊で、春日仏師の作と伝え、蓑丸長者が奉安したものである。専誉僧正が長谷寺へ来て、法幢をたてようとされた時、この地蔵さんは所化の僧となって、伊賀・伊勢などの近国を遍歴して学徒を誘い、長谷寺へ入学させ、みずから論席について、問答決択をして法化を助けられた。その間だけ、この地蔵の像は姿をかくして見えなかったという。
  (豊山玉石集による、巌樫俊夫)


● だだおしの由来 桜井市初瀬(旧磯城郡初瀬町初瀬)
 昔、長谷寺の西南の谷、今の白山社の土地に悪い鬼が住み、暮れ六つの貝を吹けば、鬼がきて人々をなやますから、暮れの貝は一声だけ吹くことにしたという。
 いつの頃からか、正月十四日の夕刻から、修正会《しゅうしょうえ》を行い、悪鬼を追い払う行事が行われるようになった。現在は二月十四日、大鬼面を着けた者が炬火《たいまつ》を振って堂内からあばれ出て、堂内を回ること三度、炬火を奪われて山中深くににげ去るという行事である。(巖樫俊夫)


● たいのほね 桜井市初瀬・与喜浦(旧磯城郡初瀬町与喜浦)
 蓑丸長者屋敷のある山の北側の谷に、たいのほねという地名の田がある。
昔、蓑丸長者の食べた鯛の骨で埋まったところだという。(巖樫俊夫)


● 青江下城 桜井市和田(旧磯城郡上之郷村和田)
 昔、この地に青江下城という名剣鍛冶があり、その姓を和田といった。磯城の井戸から鉄鋼を掘り出して、剣をつくった。そして、その剣を、今の和田橋の下にある鬼のまないたという石にならべて、さらした。剣は淳和天皇に献上して、和の一字を賜って和田といい、それが後に村名になったという。今も鍛冶屋敷という地名が残っている。また、剣は穴師《あなし》神社や長岳寺に奉納してあったという。 (乾健治)


● 龍野《りゅうの》 桜井市和田(旧磯城郡上之郷村和田)
 和田の一部に龍野という垣内がある。昔、霧の深い日に和田の神社に大きな音がした。村人が出てみると、霧の中を龍がほうてあがってゆくのを見た。それが今の龍野の堂山へおりた。それからそこを龍野といった。そこには家が数軒あって、神社も寺もあった。(乾健治)


● 黄金塚 桜井市滝倉(旧磯城郡上之郷村滝倉)
 滝蔵神社から少し下がったところに黄金塚がある。
 「黄金を埋めてあるから、村が貧乏して食べられなくなったら、ここを掘って黄金を出せ。」という、昔からのいい伝えがある。(乾健治)


● 流れたつりがね 桜井市白木(旧磯城郡上之郷村白木)
 金平山(鐘が平山ともいう)に、聖武天皇の時につくられたという観音堂(白木寺)というのがあった。貝が平山の鬼門除けに建てられたという。ここに東大寺のつりがねより大きいのが二つあった。毎日雨のふりつづく年があった。山くずれがして川があふれ、つりがねはおちて、二つは仲よく初瀬川から堺の浦まで流れた。山太郎・海二郎という。堺の浜の三月の大潮引きの時は、金平山からつりがねの龍頭《りゅうず》が見えるという。(乾健治)


● あまのじゃくの石 桜井市白木(旧磯城郡上之郷村白木)
 白木の金平山へのぼる途中、字神田《しんでん》というところに、一メートルぐらいの、四角で、のみで作ったあとのある石がある。あまのじゃく石を積みかさねて、もう一つで天へとどく時に、できずしてくずれてしまった。その最後の一つの石がこれだという。(乾健治)


● 化粧川 桜井市小夫(旧磯城郡上之郷村小夫)
 化粧川というのが小夫の天満神社の西を流れている。大来皇女《おおくのひめみこ》が伊勢神宮に奉侍《ほうじ》する前に、泊瀬斎宮《はつせのさいぐう》にいた。大来皇女は、いつもこの化粧川で、みそぎをされた。化粧川の中央にある岩は、中心がくぼんで壷のような形をしている。直径一メートル半、深さはわからないほどである。これを化粧台といい、みそぎの時に使われたという。(乾健治)


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