● 塩井戸

 大字塩井にある古井戸、井上正氏の宅の倉の横に塩水の井戸がある。これを塩井という。傍らに石灯籠がある。火袋だけが人工で他は自然石で、竿石に「善へ」と刻まれている。井筒の内側に「施主得性」と刻まれている。このあたりは、むかし漆部<ぬるべ>の里といったが、後にこの塩井の名をとって塩井村といった。むかしはこの井戸水で大根、芋を煮て食べたという。井上という姓も井戸の上のことである。
 むかし弘法大師が巡って来て塩が出るから掘れと教えられたという。ところが近代になって山崩れがあって、もとの塩の井戸が埋まってしまった。後世になってこの辺だという想定で掘ったところ水がわいたので井戸にしたが塩分はない。もとの塩井は埋もれて判らない。
 高田十郎編の「奈良」(念仏堂)(大正十三年五月三日)にも「井戸の由来ハ、タシカニハ分カラナイ。イマ七十歳バカリノ老人ガ子供ノコロニ昔ノコトトシテ聞イタノニハ、ココカラ塩ガワイタゲナ、「ツキコミ」ガキテ、埋マツテシマツタガ、ソノ後、マタ今ヤウニ堀リ出シタノダサウダ、ト云ウ位ノコトダト云フ、「ツキコミ」トハ山崩レナドノコトデアラウ」とある。


● 念仏堂の狐
 大字塩井、字ネブト(念仏堂)に狐がだまして提灯行列をする。春の暖かい日の夕暮れと冬の夜である。一つ出る、二つ出る、三つ出る、一列にならんで上下に動いてのぼってゆく、その時、狐が人のそばに居って手をふって合図をしている。すると人がだまされて首をつって死んだことがあった。


● 古光山(ここやま)
 大字塩井にある。古光山(ここやま)とも書き、高さ九五三米で山容雄大で玻璃質黒雲母岩、石英質よりなる。頂上に奇岩が突き出て奇観を呈している。むかし、この山に天狗がすんでいた。この山へ草刈りに行った人が、天狗の太鼓を叩く音が聞こえてきたので、こわくなって逃げ帰った。この古光山のふもと八分目ほどのところに天狗の「踊り場」というのがある。天狗が踊るところであるという。
 また古光山を別名ヌルベ山ともいう。この山の塩井に面せるところに城跡と伝える広い土地がある。これにつづいて京谷というところがあり北京川が流れている。これを「北京越え」という。漆部造磨の宅跡とも漆部仙女が七女を生んだところとも伝えている。


● 漆部(ぬるべ)の里
 大字塩井に、ぬるべの仙女が住んでいたという。その墓が南の方にあると伝えられていたが、今は見あたらない。塩井のことを漆部の郷ともいう。
 日本武尊が宇陀の山で狩をしていた時、木の枝を折ると、その木汁で手が黒く染まった。手下のものに命じて黒い木汁を集めさせた。そして持っている品物に塗ってみたところ美しく染まった。そこで曽爾の里に漆部造(ぬるべのみやつこ)を置いた。これが日本のウルシ塗りの初まりである。この漆部の人びとが曽爾川添いに一帯住み、門僕神社の前の橋も漆部橋という。この橋を渡って山に入ると漆部造の屋敷跡がある。門僕神社の祭典に八大字の真先きにオスコ(もち・かき)を供える。塩井が一番先きにお供えすることになっていたのは宮本であったからである。その後には今井が宮本となり、今は順番になっている。門僕神社がもと塩井領の古光山の上にあったが地殻の変動で流れて、今のところに祀ったという伝説がある。それで一番先きにお供え物をしたという。唐招提寺の前の長老北川智海師(※唐招提寺第八十世長老)はヌルベノサトと号し、別院が曽爾ロッジの上にあった。


● ぬるべの仙女とその塚
 大字塩井にあり、漆部造磨の妾の塚だという。日本霊異記によれば、宇太郡漆部の里に風流の女があった。これは漆部の造磨の妾であった。天季風声の修行をなし、自ら塩、醤油をつくる。七子を生んだが極めて貧乏で、食物がなかった。着る物もなかったので藤を綴って身にまとうていた。毎日沐浴して身を潔めて藤のつるを着物としてまとひ、野山に出ては薬草をもとめて採集することを日課としていた。家に居ては家中を浄め、身心を修行し、盛んに何事かを唱え、七人の子供は、その間、端座して笑っていた。彼女の身心の気合術は天上の人のようであった。
 孝徳天皇のころ、難波長柄の豊前宮(とよさきのみや)へこの風流の話が伝わった。
 神と仙女が感応して、春の野薬をもって天にのぼる。仏法を修するが故にあらずして、風流を好む仙女が精進していること、あたかも仏家のお経をとなえるにひとしい。つまり俗家が心を端正にして庭を掃除し五功徳を得たものとうわさされた。
 また一説に、ここを千畳敷ともいう。


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