● 稗田の里
 大和郡山市稗田町(旧添上郡平和村稗田)
 稗田は堀に囲まれた古い村ではあるが、ここは古事記を伝誦した稗田阿礼<ひえだのあれ>の住んでいた里であるといわれている。ここの氏神売田神社<めたじんじゃ>は、稗田阿礼を祭り、昭和五年から県童話連盟の主唱で、毎年八月十六日に阿礼まつりが行われ、この祭りはいまも続いている。
● 稗の御飯 大和郡山市稗田町(旧添上郡平和村稗田)
 聖徳太子が稗田の里へお越しになった時、村の人が稗の御飯をさしあげたところ、たいへんお気に召して、
  「どうしてこんな珍しいものを食べているのか。」
とお問いになったので、
  「この土地は水の便が悪く、米が十分にとれないので、
         稗を常食としています。」と答えた。太子は、
 「それはかあいそうだ。水の便を計ろう。」
とおおせられて、その付近を馬にのってお回りになり、今の奈良市池田町にきて馬をとめ、錫杖でお堀になると水がわき出たので、さっそく池をおつくりになった。今の広大寺池が、この池といわれている。それで稗田はこの池のかぎ元といい、今も出水の権利をもっている。稗田の農民はこの池の水を出すたびに、聖徳太子のお建てになった法隆寺へお礼まいりをすることになっている。
● 櫟<いち>の木と天狗 天理市櫟本町(旧添上郡櫟本町櫟本)
 昔、櫟本の西にいちいの大木があった。この木の上に天狗が住んでいて、いっちんの実を投げて人を苦しめた。また近所のにわとりや果物をとってあばれ、はては毎年ひとりずつ娘を人身御供<ひとみごく>に出せとまでいった。
 覚弘坊というえらい坊さんが中国から帰ってきて、天狗退治をもくろんだ。ある日、覚弘坊が、
 「もしもし天狗さん、シナからいいものをみやげに持って帰ったよ。」
と木の下から呼び、衣の中から目がねを取り出して、
 「これをかけると、大和国中すっかり透<すか>して見えるんだ。」
と誘い出した。そして目がねと櫟の木と交換する約束をした。坊さんはのこぎりで木を切った。木は西を向いて倒れた。天狗は米谷<まいたに>山の方へ去った。櫟の根もとを櫟本村、櫟の枝の指した方向を櫟枝村、横のところを横田村、枝を積んだところを千束村と名づけたという。(天理市史による)
[HOME] [TOP]