● 池の坊の塚 
奈良市忍辱山町(旧添上郡大柳生村忍辱山)
 忍辱山の三つの池の奧に、古塚がある。昔、池の坊という僧が生きたまま入寂され、七日七夜墓の中からかねの音がきこえたといわれる。(大柳生史による)


● 雨を降らす鏡 奈良市忍辱山町(旧添上郡大柳生村忍辱山)
 忍辱山、三つの池の上池の奧、檜林の中に高龗神社がある。その社の前に小さな井戸がある。ひでりがつづくと村人たちはこの井戸の水をさらえ、中に沈めてある鏡(裏に鶴・亀・松・竹の絵がある)をとり出し、日光にあてた後、村人全部がこの鏡を拝んで、もとの通り井戸に沈めると、必ず雨が降るという。(田畑賢住)


● 大慈仙跡 奈良市大慈仙町(旧添上郡大柳生村大柳生)
 奈良時代、仏教隆盛の時、かの釈尊修行の印度五山になぞらえて、菩提山・鹿野園<ろくやおん>・誓多林<せたりん>・大慈仙<だいじせん>・忍辱山と、いずれも寺を造営したという。今も奈良市内にこれらの寺の名が町名として残っているが、この大慈仙もその一つである。しかし、この寺は廃寺となって年久しく、所在を知る由もないが、坊・寺に関係の地名が多く残っている。(大柳生村史による)


● 大平尾の起こり 奈良市大平尾町(旧添上郡大柳生村大平尾)
 松永弾正久秀の奈良多聞城が織田の軍勢に攻略された時、敗残の武士二十騎が神を奉じて春日山を越え、大平尾の地に土着したという。当時は白砂川岸の大岩石のかげに氏神を祭ったといわれ、ここを古宮、潔斎の地を湯屋垣内<ゆやんがいと>、燈明をかかげたところを燈明でんといい、今もその地名が残っている。
  (大柳生村史による)


● 天狗松 奈良市大平尾町(旧添上郡大柳生村大平尾)
 一台山連峯の一つ、青岩岳に一本の松の木がある。昔、この山に天狗がいて、暗夜に田原の誓多林堂の太鼓を盗み出し、この松にかけて打ち鳴らした。村人はおそれて外に出ることができなかった。翌朝、この太鼓を見ると、天狗の血がついており、岩に天狗の足跡が残っていた。それでこの松を天狗松という。
(大柳生村史による)


● 一台山の石 奈良市大平尾町(旧添上郡大柳生村大平尾)
 昔、生駒山の天狗と神野山の天狗とがけんかして、石を投げあった。神野山の天狗の投げた石で先方へとどかないものは、一台山に落ちた。それで生駒山の石と、神野山と、一台山の石戸が同じ質の石であるという。(田畑賢住)
関連:● 神野山の天狗(山邊郡豊原村伏拝)


● はだかの神様 添上郡月ヶ瀬村尾山
 笠置落城の時、園王<そのおう>という『きさき』が、はだかのままで落ちのびられ、今の月の瀬の尾山で、村人に助けられ永住された。都の習わし通り、ベニを使おうと云うので、その原料の梅を植えられたのが、今日の月の瀬梅林の始まりだという。
 今、ヒメワカ塚というのがあり、園王の森というのがあって、村人は、今でも裸のお方だからというので、お参りする時には、襦袢とか前垂れとか手拭いとか、すべて布の物を供えることになっている。(橋本春陵)


● かつら木橋 添上郡柳生村
 柳生から笠置駅に出る阪路の途中、かつら木橋がある。地は笠置の内である。
 笠置を落ち延びられた後醍醐天皇は、この橋をお渡りあり、橋の袂のかつらの木の下でしばらくお休みになった。それ故、今もかつらの木は、北朝が気にかかって、その枝が北を指しているという。(橋本春陵)


● まつ毛の森と倒さの篠 添上郡柳生村
 柳生村の柳生から大保への入口に、まつ毛の森というのがある。後醍醐天皇が、笠置山から落ちられる時に、ここで弁当をつかはれたが、全く涙の旅で、まつ毛の雫がその弁当の中に落ちた。それでこの名が出た。
 又、その時の弁当の御箸を、山にさして置かれたのが、土について倒さに芽を出した。今もこの辺の篠の枝は、皆倒さに出て居る。(橋本春陵)


● 柳生の戸谷岩 添上郡柳生村柳生
 柳生の一方に、戸谷岩というのがある。萬年渓とも称される。三十畳程の切った様な大岩をご神体とする式内天之石立神社の所在地で、谷一帯に、自然石が沢山あり、神社の参道の傍の石には、すべて三千一百三十二柱の神々が祝い祭ってあるといわれる。今でも人々は、ここで不浄などをしない様に、固く戒めて居る。
 昔、天の岩戸を手力雄命が押し開いた時、その扉の一方は、大御空を飛んで、大和の国添上郡小柳生の庄に来て留まった。即ち、ここの御神体であって、これを神戸岩<かんべいわ>と云った。神の宮居の戸ということである。それで、付近の小柳生庄(即ち、今の柳生村柳生)、坂原庄、邑地<おうぢ>庄、大柳生庄を合わせて、昔から『神戸<かんべ>四ヶ郷』と云ったのである。
 この四ヶ庄を、後に宇治の関白頼道が、奈良の春日に寄進したが、その時、神戸岩は鳴動した。その後も、皇室に慶事のある時に、鳴動すると云う。(橋本春陵)


● 杖から育った柳 添上郡柳生村柳生
 明治十年頃まで、柳生の村の中程の田の中に、直径一丈余の柳の木が一株あった。この木は、柳生藩主の祖・菅原某が、江州から始めてきた時に、ついて居た杖を地に挿しておいたものが、一夜洪水の為に流され、止まった所に根を下ろしたもの、又それが、柳生という地名の起こりだという。(橋本春陵)


● しゃくり川 添上郡柳生村柳生
 柳生の東、戸谷岩に入る途中の小川をシャクリ川という。昔、織田信長の時、横田某、あるいは松田某なる者が、柳生宗巖のことを讒言して、柳生に隠し田ありと云った為に、宗巖は一時柳生の所領を没収された。その時、使者として来た柴田勝家が、ここで、馬柄杓で流れる水をシャクって、馬に飲ましたから、この名がついたと云う。(橋本春陵)


● 柳生の十兵衛杉 添上郡柳生村柳生
 柳生十兵衛三巖は、三代将軍家光の内命を受けて、西国の諸大名が徳川氏に対する心底をさぐる為に、表面は剣道慢心の狂気といつわり、十年余を西国九州に送った。その在所柳生村を出立する時、先祖の墓所たる中宮寺に、一本の杉の若木を植えておいた。今、柳生の下村の西山裾に、高さ百尺、経六尺、中天に聳えている十兵衛杉というのはこれである。(橋本春陵)


● 柳生宗矩の忍術観破 添上郡柳生村柳生
 柳生藩の家老・小山田氏の邸の所に、もと興福庵という小寺があった。その頃、柳生藩と東続きの伊賀の国との間には、境界の事で、いつも小さい争いが絶えなかった。ある時、柳生宗矩は、興福庵に参詣したが、不意に一匹の鼠が現れた。宗矩はすかさず之に目をつけて、鎧扇で打ちたたいた。鼠はそのまま影をかくした。
 その翌朝になって見ると、なま血のしたたりが、伊賀街道につづいて居た。そして、その後と云うものは、伊賀の関所で、柳生の者といへば、町人百姓に至るまで、その調べが著しく厳重になったという。これは、全く彼の鼠というのが、伊賀の廻し者の忍術者であって、宗矩の燗眼に観破されたわけであった。(橋本春陵)


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