● 礎石の起源 添上郡月ヶ瀬村
 昔、名人の大工があった。家を建てるのに、誤って大黒柱を五寸(約15センチ)短く切った。ついだりしては面目にかかわるし、切腹せにゃならんことが起こった、と家に帰って嘆いていた。その妻が、かたわらから、そんなら下にそれだけの石を置いたらよろしかろうと口を添えた。なるほど、それはエエ考えじゃ、イヤ「物も相談、常には何にもならんお前じゃと思うたが、間に合うときもあったナァ」といって、その通り柱の下に石をつぎたした。
これが「柱の根石<ねいし>」(礎)の始まりだという。(高田ひさ子)


● おそめ塚 奈良市古市町(旧添上郡東市村古市)
 古市町小字タカンドに塚がある。タカンド塚とも、おそめ塚とも呼ばれている。いつも、やみ夜になると、きまったように、この塚から玉火が出た。これはおそめという武士の妻の亡霊であるという。今はその亡霊も年老いて、その光も弱くなっているということである。
(中尾新緑)


● 飯合<いあい>橋 奈良市古市町(旧添上郡東市村古市)
 昔、春日大社のおん祭に、いつも横井の穴栗神社から春日大社への参拝のお渡りがあった。その時、お供えする米(飯)を、今の飯合橋のところで、春日大社の氏子に渡したという。両方ともここで待ちあって、米(飯)の受け渡しをしたので、飯合橋というようになった。
(中尾新緑)


● 姉妹の地蔵 奈良市古市町(旧添上郡東市村古市)
 昔、岩淵川に、二体の地蔵さんが流れてきた。一体は東金坊<とうこんぼう>にあげられ、一体は古市にあげられた。東金坊の地蔵堂が先にあがったので姉の地蔵といい、古市の地蔵があとであがったから、妹の地蔵という。
 (中尾新緑)


● 帯解地蔵 奈良市古市町(旧添上郡東市村古市)
 昔、たいへん地蔵さんを信仰している家があった。この家に盗人が入った。家の者はだれも知らなかったが、その家に飼っていた犬が、これを見つけて、逃げていく人を追うた。そして盗人にかみついたが、帯にからみついたので、盗人は帯を解いて逃げてしまった。それから帯解の名がうまれたという。これは地蔵さんがお助けになったのであるが、後に帯が証拠となって、盗人はつかまったという。
(中尾新緑)


● 眼つぶれ塚 奈良市古市町(旧添上郡東市村古市)
 古市町に、カカンボというところがあるが、そこから南へ約100メートルのところに、眼つぶれ塚というのがあった。昔から、この塚を掘ると、眼がつぶれるといわれている。ある人が、「そんなことがあるものか。」といって、この塚を掘ったら、急に両眼がつぶれ、錦の茶碗がでたという。(中尾新緑)


くさ神さん 奈良市横井町(旧添上郡東市村横井)
 奈良から桜井に通じる上街道にそって登坂町がある。この町の中ほどに青井明神という社がある。俗にくさ神さんと呼んでいる。
 昔、小野小町が宮中で歌会があった時、全国からたくさんの歌人たちが集まったが、だれも小町に勝つものはなかった。紀州から出て来た某は小町に負けたのを残念に思い、朝廷にざん言して、小町を宮中から追い出してしまった。小町は途方にくれ、あちこち歩き回っている間に、瘡毒にかかり困っていると、ある夜の夢に翁があらわれ、「前世の悪因によって、そのようになったのである。奈良から一里(4キロメートル)はなれたとろにホウソウ神をまつる神社がある。そこへ詣り、一心に拝むがよい。」と告げた。
 小町はそこで、二十一日間、行水して祈願すると、満願の日に瘡毒はすっかりなおった。小町は、
  はるさめは今ひと時にはれてゆく
     ここにぬぎおくおのがみのかさ

の歌を残して、伊勢に去ったという。(上野恭雲)


● ふじの田 奈良市帯解町(旧添上郡帯解町)
 帯解町の北のはし、桜井の西側に「ふじの田」という田がある。二百年ほど前、ここに尼寺があった。住職の尼さんは非常な倹約家で、一生の間にたいへんな金をためた。これを知った北永井の某は、その金を借ったが、なかなか返さないので、尼さんはついに気が狂って死んだ。その後、寺も怪火に焼け、借りた男も気が狂って死んだ。それから、この田をふじの田と呼ぶようになったという。(上野恭雲)


● 人積塚 奈良市北之庄町(旧添上郡明治村北之庄)
 北之庄の国道二十四号線から南へいく道にそうて、田の中に小さな塚がある。その昔、このあたりでいくさがあり、たくさんの武士たちが戦死したので、その屍を一所に集めて葬ったので、人積塚という。この塚にさわると、必ず病にかかるという。(上野恭雲)


● おきよ橋 奈良市北之庄町(旧添上郡明治村北之庄)
 奈良・橿原間の国道で、北之庄町と大和郡山市三橋間との境におきよ橋がある。昔、おきよという狐がここに住んでいて、よく化かして、下の川に落としたりしたところだという。
(上野恭雲)


● おかん藪 奈良市東九条町(旧添上郡辰市村東九条)
 東九条公民館の南側の屋敷跡は、今は藪になっている。昔、母娘ふたりが住んでいたが、母は皮膚病をわずらい、いつもからだをかいていた。娘にも「かいてくれ」と頼んだ。初めはかいてやったが、かくのがいやになってかかなくなったので、母は「かいかい」といって死んだ。それから後、娘が生んだ子はにわとりで、母の命日の夜は、「おかん、かっこう、かっこう。」と、この藪で鳴いたので、この藪をおかん藪というようになった。
 (辰市村史による)


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