● 牛若丸から習った棒術 添上郡柳生村柳生
 柳生藩の棒術長谷川流の祖、長谷川金右衛門が、甞て奈良からの帰り、大柳生村を通ると、子供の泣声が、夜更けの山中に聞こえた。それは、常磐御前が、牛若丸を産み落として、旅の苦労をして居るのだった。金右衛門は不憫に思って、親子を柳生の宅に連れ帰り、牛若丸を養育してやった。此の縁故によって、後に牛若丸が鞍馬山に居た時、金右衛門は彼山で再会し、棒術を伝えられた。それが此の流儀だと云う。
 今も大柳生には、常磐の森があり、産湯の淵があり、当時不自由であったというので、不自由寺と称する寺もある。(橋本春陵)


● 白蛇の石 添上郡柳生村柳生
 柳生藩の棒術家、長谷川氏の屋敷には、土蔵と板倉との間、現にナツメの木の奧五間程の所に、もと五尺四方程の、ころがり石があった。南天や豆蔦などが生えて居て、その上に小さな祠があり、長谷川氏の守護神で、すこぶる畏れられていた。
 昔、何かの理由で、土地の芳徳寺で斬られた人の首が、飛んで来て此の石に食いついた。そしてその後、白い片目の蛇となって、此の石の下に棲んで居ると伝えられたものだが、大正三年頃に、この石はとりこわされた。(橋本春陵)


● 小山田氏の財力 添上郡柳生村柳生
 柳生藩の上席家老の、小山田家初代主鈴は、八代藩主俊則公の時、奧州白河から見出されて召し抱えられた者である。主鈴は非凡の経済家で、大阪の米相場によって大資産を得た者だが、その母堂が又エラく、いつも城下の八阪神社に参詣して、こんにゃく橋の袂の水の寒暖をみては、相場の上る下るを豫言し、又は蝉の声を聞いて之を判じたものだと云う。
 したがって、小山田氏に対する財界の信用は、たいしたもので、後に、奈良で柳生の藩札の相場が下がろうとする時には、『小山田が、ただ今千両箱を馬に積んで、石切峠にかゝった』との評判がたてば、直に又上がったと云うことである。石切峠とは、奈良の東入口の峠である。現に藩の勝手許不如意の為に、金千両を取り替えた時の、一藩の内閣連署の証文も、その時拝領した二蓋笠の定数入の刀も、その家に伝わって居る。(橋本春陵)


● 柳生の西行の遺蹟 添上郡柳生村
 柳生に、西行法師の遺蹟として、西行の井戸というのがある。水が清く、大旱にも決して涸れたことがない。その半丁ばかり上に、庵の址がある。西行檜というものもある。ここで西行は、
 萩のはねぐそ今こきはじめ
という下の 句の歌を詠んだと云う。上の句はわからない。(橋本春陵)


● おふぢの井戸
 柳生但馬守宗矩が、ある日、奈良へ往くことがあって、馬で出かけた。丁度、今の大柳生村の大字坂原にさしかかると、村の娘おふぢという者が、すすぎ洗濯をして居た。宗矩は、いきなり馬を止めて、
 『これ娘、お前は、今洗濯をしているが、その所の波の数は幾つあるか。』
と出しぬけに尋ねた。おふぢは、隙かさず、
 『ハイ、二十一波ござります。』
と答えておいて、直ぐ、
 『殿様は、柳生からここまで、馬の足跡は、いくつ程ござりました。』
と問い返した。
 勿論、宗矩グッと詰まった。そして大にその娘才気を愛し、之を個室に召入れることにして、尻馬に乗せて柳生にかえった。おふぢには継母があったが、この時、坂原と柳生との間の峠まで見送って来て、かえっていった。
それでその所を今も『かへりばな』と呼ぶ。おふぢが洗濯をして居た所は、おふぢの井戸と云って、今もある。
 おふぢの方は、柳生氏の菩提所・芳徳寺の第一世列堂和尚の母がそれである。寛文十一年十一月二日に没し、法名『景徳院殿寶山宗富大姉』、その墓は現に芳徳寺にある。柳生俚謡に、
 仕事にせーでも器量さへよけりゃ
   おふぢ但馬の妻となる。
 器量よければ手に職いらぬ。
   おふぢけなるや但馬さん。  (橋本春陵)


● 嵯峨氏の龍退治 添上郡大柳生村坂原
 坂原に、嵯峨氏というところがある。昔、ここに非常に恐ろしい龍が棲んでいた。村人をさらっては食い、それが出来なければ、大暴風雨を起こした。時に嵯峨氏という武士があった。或る夜、龍を捕らえて大きな井戸に入れ、石でとぢこめておいて、その身はその傍らに住んで、常に龍の番をしていた。これで村は平穏になった。その嵯峨氏の居た井戸の付近を、今も嵯峨氏というのである。(小林富夫)


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