● 油かけ地蔵
 添上郡東市村古市
 添上郡東市村古市の岩井川端に、油かけ地蔵といって、六尺位の石地蔵がある。昔、岩井川に大洪水があった時、流れて来た者だといふ。それは、大暴風雨で闇の晩であったが、濁流の中から、まばゆい御光のさしているものがあった。それが今の地域である。
 之を見つけたのは、他の大字の人であったが、信心が浅かったので、何人集まって協力しても、引揚げることが出来なかった。ところが、その大字に非常に信心深い一人の老人があって、何の苦もなく引揚げた。その夜のこと、老人におつげがあった。
『あの地蔵は、子供を授ける地蔵だ。毎日種油をかけて日参したら、必ず子を授けて呉れる。』
という事であった。
 子の無かった老人は、間もなく男の子を授けられた。是から、次第に信仰される事になった。(中尾新緑)


● 又 添上郡東市村古市
 この油かけ地蔵は、鼻がかけて居る。昔、藤堂氏の城下で、相撲があった時、奈良の相撲取りが、是非勝たして下さるように、と此の地蔵に願をかけて出て行った甲斐もなく、負けてしまったので、怒って、帰り途に石でなぐりつけたので、鼻がかけたのだと云う。しかし、其の相撲取りも、やがて途中で倒れて、鼻を打って死んだそうである。(中尾新緑)


● 夫婦の玉火 添上郡東市村
 雨のふる闇の晩などには、大安寺の墓地からと、白毫寺の墓地からと、尾を曳いた玉火がジャンジャンジャンと恐ろしい音をさせながら出て来る。そして奈良の南の夫婦《みよと》川のあたりで、二つが互いにもつれ合った後、もとの墓へ帰って行く。
 もし、人がそれを見つけると、二つの火は何時までも彷徨って流れる様にしている。若し又何時までもその火を見ていると、二つの火は、その人の頭上に流れて来て、人を悩ます。十幾年前に、そんな目にあった人があった。奈良聯隊兵営(※現在の奈良市高畑町辺り)の南の池のところで之に会い、逃げても逃げても追いかけられて、遂に池の中に飛びこんだが、それでも、頭上をジャンジャンジャンと彷徨って離れない。水に沈んだり息をすったりして、朝まで苦しんで、漸くのがれたということである。
 この玉火は、昔夫婦が心中したのを、別々に大安寺と白毫寺との墓に埋めたからの者だという。(中尾新緑)


● 龍腹寺の由来 添上郡明治村神殿
 神殿《こどの》に龍腹寺というのがある。昔、大干魃があって、村人が集まって、僧をよんで雨乞いをした。僧は法華経をよんで祈祷した。人々が皆帰っていった後、龍宮の龍が一人の老翁と現れ、僧に向かって、
 『龍女成佛の文は、誠に有りがたく、心肝に徹しました。此のお礼に雨を差し上げますことは、おやすい事ですけれども、私は元来小龍の身で、大龍の許しを得ないで雨を降らせると、命を取られまする。しかし、人々のお気の毒な有様を見るに忍びませんから断然わが命をすてて、雨を降らせましょう。後生菩提のことは、講師にお任せ申し上げまする。』
と言い終わったかと思うと、忽ち黒雲が下がって来て、老翁は空にかくれてしまった。そして村人は、したたかの雨に喜び合った。
 やがて雨が霄れると、俄に凄まじい物音と共に、何やら天から落ちて来た。驚いてよく見ると、一つの龍が三つに切られて死んで居るのであった。村人は、彼の小龍の志をかなしみ、其の屍體を三ヶ所に葬り、菩提を弔う為に三つの寺を建て、それぞれに龍頭寺、龍尾寺、龍腹寺と名づけた。この寺は、即ち其の腹を葬ったあとであると云う。(山田熊夫)


● 黄金造りの塔 添上郡大安寺村
 七大寺の一たる大安寺の東西雨塔は、黄金造りであった。其の光は、闇の夜でも遠く山を越えて、大阪・堺の海まで照らした。
 ところが、其の光の為に、大阪・堺の海では、魚が集まらなくなったので、漁民共は大いに苦しみ、遂に隊を組んで大安寺に押し寄せ、火をつけて塔を焼いてしまった。それから魚も元の通り取れるようになったと云う。塔の址は、現に史蹟指定地になって居る。(中尾新緑)


● 血の出た礎石 添上郡大安寺村
 この大安寺の塔の礎石を、明治初年の廃佛の頃、ひそかに金にしようと思って、一人の石工が、夜先づ西塔の心礎を割りかけた。追々割っていって、最後にもう少しという所になって、石の中から真っ赤な血がふき出した。石工は驚いて逃げ帰り、病みついて死んでしまった。その後は、誰も手をつける者がなく、今も旧境内唯一の礎石として、史蹟指定地に残って居る。(中尾新緑)


● 『笑』といふ字の起り 添上郡大安寺村
 大安寺の大師堂の前に、小さな森がある。明治の頃、馬頭観音像が、永らく雨ざらしになって居られたというところである。
 昔、弘法大師が大安寺の大師堂にいた頃、修業のかたはら、文字を作って居たが、どうしても『わらふ』という字の工夫がつかなかった。
 その時、向こうから、念仏を申しながら一人の旅僧が来た。あたりにいた犬が、驚いて吠え出した。旅僧も驚いて、その犬を追はうとした。犬はその時逃げそこなって、そばにあった竹の籠を踏んだので、籠が頭にかぶさった。
 その様がおかしかったので、誰も皆大笑いにわらった。そこで大師は思い付いて、竹冠に犬と書いて、『笑ふ』といふ字にした。(中尾新緑)


● 弘法大師と女の歌争ひ 添上郡大安寺村
 昔、弘法大師が、今の大安寺八幡宮の南側の川辺を通って居ると、一人の女が、コシキを洗って、それから腰巻きを洗って居た。女は人影を見て、あわてて其のコシキで前を隠した。
大師は、そこで一首の歌を作り、
  なんぼの○○も見たけれど
     ○○にこしきは見始めや
と口ずさむと、女も直ぐ返歌をして、
   ○○にこしきは有りやこさり
     なんぼの子もむし出した。
とやった。大師は遣りこめられて、気をわるくしながら、辰市村東九條から帯解《おびとけ》町に廻り弘法大師井戸や廣大字池を掘ることになった。(中尾新緑)

(註) 『こしき』は甑である。返歌の『こさり』は『こされ』とも云ひ、『こそあれ』の約言として、現に一般に用ひられて居る者。


● 大安寺の諸佛像 添上郡大安寺村
 大安寺村大安寺の東口に、熊凝《くまごり》氏という家がある。其の屋敷内に古い地蔵堂がある。大安寺伽藍が、松永久秀の兵火に罹った時、古い佛像も殆ど失われ、僅かに不空羂索、十一面、楊柳、馬頭、及び聖観音の五躯と四天王像とだけが、免れて残った。馬頭観音だけは、伽藍址の大師堂に、本尊として安置されたが、あとは殆ど雨ざらしの姿で、旅僧などの折々の供養を受けるばかりであった。其の後、村人も是ではいけないと云うので、是等諸像を、仮に前記の地蔵堂に奉安して居た。
 ところが、当時村内に、四天王といはれる四人の勢力家があって、馬頭本尊以外の諸佛像を、外国人とかに売り払うとの相談を始めた。そして、いよいよ売離さうという段になった時、不思議にも、四天王の一人の親に、稲荷がさがって、
 『佛様を売るとはけしからん。売るなら売ってみよ。命を取ってやる。』
と言い出した。さすがの四天王達も、是にはいささか気味が悪くなり、遂に売買破談としたと云う。
 是等の佛像は、今はことごとく国宝に列し、現に奈良帝室博物館(※現在の奈良国立博物館)に出陳されて居る。(中尾新緑)


● 神社移転の祟り 添上郡大安寺村
 大安寺村大字大安寺、ヒラキという所に、行教和尚開墾の井戸を前にして、小さな祠が二つある。一つは高《たかおかみ》神社といい、善女龍王が祀られて居り、他の一つは推古天皇社である。
 昔、大安寺伽藍の整って居た頃には、勅願創立の方々として、金堂の東脇に推古天皇の御堂、西脇に聖徳太子の御堂を置いてあった。松永久秀の兵火の後にも、村民は小さいながら推古天皇のお社を建立して、非常に崇敬して居た。其の後再建の時には、場所を、今の大師堂の東方なる小さな森の中にした。其の後、更に誰かが今のヒラキに遷したので、大いに天皇のご機嫌を損ずることになった。
 村内に、気ちがいとか馬鹿とか重い病人とかの出来るのは、皆みだりに社地を変えた罰があたって居るので、早くあのお社を元の所に還さねば、まだまだ大きな事があるだろうと言われて居る。(中尾新緑)


[HOME] [TOP]