● 龍田川の奇蹟 生駒郡斑鳩町龍田(旧生駒郡龍田町)
 中将姫十三歳の時、淳仁天皇は姫を後宮にしようとしたが、姫はこれを辞した。その当時、龍田川が鳴動していたので、天皇は姫に、この鳴動を止めるようにいいつけられ、
 「もし鳴動がやんだら、後宮にならなくともよい。」
と申された。姫は龍田川に行き、一心に祈願したあと、硯をとりよせ、
   浪はよし龍田の川に音なくて
    天の皇の悩みやすめよ
とたくさんな石に書きつけ、龍田川の中になげると、鳴動が急にやんだ。すると、どこからともなく白髪の老人が現われ、
「われは龍田の明神である。お前をここに誘うためにこの川を鳴動させた。お前と会えて何よりである。これから心を合わせて国の安穏を祈りましょう。」というなり、姿を消したという。 (上野恭雲)


● 蓮糸曼荼羅と当麻れんぞ(北葛城郡当麻村当麻)
 当麻寺一山の本堂を俗に曼荼羅堂と称する。昔、中将姫が雲雀山から奈良へ帰ったものの、自分がいるばかりに継母は逐電し、家来の嘉藤太の娘は身替わりとなって命を落とす。また自分が生まれたばかりに実母の命はなくなった。
 世の中は転変常ならず、はかないものは人の命であると観じ、十九歳の時、当麻寺へきて弟子入りを願った。中将姫は名を中将法如尼と改め、一心に修行し、二十六歳の時、
  「世にほんとうの仏があるならば、この眼前に現われ給え、
         われ現身の仏を見なければ、この座を立たない。」
と三七日の願を立てて念仏三昧に入った。満願の暁に、ひとりの老尼が現れて
  「われは長谷観音の化身である。
        生身の仏を拝みたければ、われのいう通りにせよ。」
といって、百駄の蓮の茎を集め、その蓮糸の筋をとってまんだらを織ることを命じた。法如尼は時の帝に願いを上げて、近江・大和・河内から百駄の蓮茎を集めた。そしていよいよ蓮糸から糸をとることになると、どこからか前の老尼が現われて、手伝ってくれた。それを染井につけて染めあげ、本堂の一隅で老尼に手伝われながら織ることになった。三把の藁に三枡(およそ六リットル)の油を注いで灯りとし、一節竹<ひとよだけ>を軸にして縦横ともに一丈五尺(四・五メートル)の曼荼羅を織りあげた。老尼は織り終わるといなくなったという。
 織りあげた曼荼羅を本堂にかけて懸命にいのっているうちに、生身の阿弥陀如来と二十五菩薩のお迎えを受けて、中将法如尼は生きながら西方浄土へ旅立たれたという。その有様を再現する会式が、毎年五月十四日に行われる当麻れんぞで、中将姫が娑婆堂から曼荼羅堂、すなわち極楽の浄土へ引椄されてゆく練供養は、その法悦のさまを表現している。 (上野恭雲)


● 糸かけ桜(北葛城郡当麻村染野)
 染野<しめ>の石光寺の境内に糸かけ杉がある。昔、役小角が一本の桜をここへ植え、仏法び盛衰はこの桜の栄枯によって判断されるといった。ところが、この桜は年々繁茂して花が咲いていたので、不朽の桜といった。その後、当麻寺にこられた中将姫が蓮糸曼荼羅を織られた時、菩薩の化身がここの染めの井で糸を染め、この桜にかけてほされたので、それから糸かけ桜と改められたという。また染野の桜ともいう。(当麻村史)


● ほとけ谷 北葛城郡広陵町馬見町安部(旧北葛城郡馬見町安部)
 安部から別所へ越す坂道にほとけ谷というところがある。昔、中将姫が当麻寺へお通いの時にこの坂道をこえられたが、疲れを覚えたので念仏をとなえていた。そして生きながら極楽の相を得て仏様になられたので、かく名づけられたという。また、穂雷神社のあるところもほとけ谷という。 (大和馬見町史)


● 中将地蔵(北葛城郡馬見町安部・旧北葛城郡馬見町安部)
 高田川を俗に中将川とい、安部に中将橋というのがある。今はコンクリートの端であるが、もとは土橋であった。昔、中将姫は六道山から築山を経、大谷を通って当麻山へ行かれた。姫は橋のたもとの木かげで侍女とともにお休みなったといい伝える。今、横大道にある地蔵堂は、もとこのあたりの中将畑から出土されたもので、中将地蔵ととなえられる。 (大和馬見町史)


● 竹川と中将姫 宇陀郡榛原町山路(旧宇陀郡伊那佐村山路)
 宇田川の上流で、昔は川の両岸に竹やぶがあったので竹川といわれ、三軍のやぶともいっていた。吉野から萩原までの間である。大字山路に竹橋がかかっていた。中将姫が吉野山に入り、葛根を掘り、竹川の流れで葛粉を作ったといわれている。 (乾健治)


● 誕生寺(奈良市鳴川町)
中将姫がここで生まれたので誕生寺と呼ばれている。父、藤原豊茂公に子供がなかったので、長谷寺の観音に、子供をさずかるように願をかけたが、満願の夜、夢の中に観音が夫婦の前に姿をあらわし、「子供をあたえてあげるが、お前達のひとりが欠けることになるが、どうか。」と告げると、夫婦は、「それでも結構です。」と答えたとたん夢がさめた。それから十二月目に玉のような女の子が生まれた。これが中将姫であるという。 (上野恭雲)


● 中将姫雪責めの松 奈良市鳴川町
鳴川町の徳融寺に中将姫雪責めの松というのがある。昔、このあたりが、横佩大臣<よこはぎのおとど>藤原豊茂の屋敷跡といわれる。横佩大臣には子がなかったので、長谷の観音に祈って生まれたのが中将姫で、母は姫の三歳の時に他界した。五歳の時継母がきて、いろいろ中将姫をいじめ、雪の日、この松にしばってせっかんをしたという。 (上野恭雲)


● 日張山<ひばりやま> 宇陀郡菟田野町宇賀志
 中将姫をにくんだ継母は、姫を家来の松井嘉藤太に、その所領地である宇陀の山奥、日張山(雲雀山)へ捨ててくるようにいいつけた。嘉藤太は、心ならずとも姫を輿<こし>に乗せて雲雀山へ行った。姫を輿から降ろし、
「まことにお気の毒ですが、姫のお命を賜りますから、お覚悟のほどを。」
と申し上げると、姫は、
「母上の言い付けならば是非もない。しかし、わたしは一日に七巻の経文を読む習わしで、今日はまだ三巻読み残している。どうぞ残りの経文を読むまで、待ってもらいたい。」
と頼んだ。嘉藤太は、
 「承知しました。お心残りないよう、読経なされませ。」
といって岩かげで待った。姫は輿にはいって経文を読みはじめた。読経をおえた姫は輿から出て、
 「もう思い残すことはない。
    どうぞ首をきって持ち帰り、母上に見せておくれ。」
といって首をさしのべた。しかし嘉藤太はこの時、姫を救う決心をした。
 「姫さま、わたしは、姫君をおたすけ申します。
    二、三日の間寂しいでしょうが、ここで待っていて下され。」
といって、急いで奈良へひき返した。
 自宅にもどって妻と相談していると、隣できいていた娘が自害して、その身代わりになった。夫婦は涙ながらに娘の死体をたずさえて、雲雀山へもどって埋葬した。そして姫を護って三カ年、この雲雀山で暮らし、父の横佩<よこはぎ>の大臣を狩りに誘って親娘の対面をさせ、無事奈良へ連れもどした。それで継母はいたたまれず、どこかへ出てしまった。
 中将姫が後に当麻寺で得度してのち、雲雀山に一寺を建てたのが現在の青蓮寺という尼寺であるという。また、大字松井の松林寺は、嘉藤太が娘のなきがらを埋めて菩提をとむらったもので、この村は嘉藤太が生涯を送ったところだという。
 (上野恭雲)


● 中将姫と勘定仕<かんじょうし> 五條市田殿町(旧宇智郡阪合部村田殿)
 田殿町の仲山家の家号を勘定仕<かんじょうし>という。旧家であるが、同家には中将姫の念仏仏と伝える小さい観音像をまつっている。中将姫が紀州有田の雲雀<ひばり>山から、あちこちさまよってこの近くの運び堂というところにおられた時、 おりおりこの家へもこられ、「都を出てから月日は積って、指折り数えると早や三とせになる。」と勘定されたので、この家を勘定仕といったという書き物が残っている。 (阪之上夏三)

 勘定仕・仲山家の主人が、代々神主をつとめる五條市田殿町の大性神社
<たいせいじんじゃ>には、中将姫もよくお参りに来られたという。



● 中将姫の休けい所 桜井市桜井(旧磯城郡桜井町桜井)
 大願寺は中将姫が長谷寺へ通われた時の休けい所であったという。それで、この寺に中将姫の御毛髪自作と伝える三尊真影一幅がある。泉大津の阿弥陀寺にもこれと同じものを秘蔵していて、山越の如来といっているという。 (乾健治)


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