● 宵宮なしの祭り 宇陀郡大宇陀町春日(旧宇陀郡松山町春日)
 大宇陀町はもと松山とよんでいた。江戸時代に平山城があり、天守閣のあたりからぬけ穴があって、その出口のところに春日神社がある。
 本祭と後宴祭りがあって、宵宮祭りが行われない。それは城が焼けた日が偶然に宵宮の日であった。それから宵宮(土地の人はよみやという)を中止したという。
(菅谷文則)

大宇陀町 春日神社
 松山城四代目の長武公が自殺した日が、春日神社の宵宮の日であった。

松山城址
 それで翌日の本祭を中止した。
それから今でも宵宮祭と後宴祭りとあるが、本祭は遠慮して行われていないということである。(乾健治)
● 嬉河原の姫石さん 宇陀郡大宇陀町嬉河原(旧宇陀郡神戸村嬉河原)
 嬉河原領の道路に姫石さんというのがある。
 秘め石さんともいう。大きな檜や杉の根にはさまれた一個の岩があり、女陰の形に見える。祠を建てて祭ってあり、通る人はのぞいたり拝んだりする。
  (山尾一楼)



姫石さん
写真 u-diaさん

● 小峠の茶屋 宇陀郡大宇陀町半坂(旧宇陀郡神戸村半坂)
 半坂の小峠に茶屋のあった跡がある。
その昔、神武天皇が男軍《おいくさ》をここにおかれた男坂《おさか》で、その北の女寄峠《めよりとうげ》と共に桜井市の粟原・忍阪《おっさか》の方の平坦部へ出るたいせつな道であった。女寄峠の道路が完成してからは、山へ薪《しば》をしに行く人ぐらいしか通らなくなったが、往来の盛んな頃は、ここに茶屋もあった。(山尾一楼)
● いったちの宮 宇陀郡大宇陀町内原(旧宇陀郡神戸村内原)
 神武天皇東征のおり、女軍《めいくさ》のひとりが産気づいて内原の宮でお産をした。その時、境内の前を流れる中山川の水を、柏手二度で湯にしてこれを汲み、うぶ湯にしたという。それで内原の宮を産の神、子安の神といい、湯立神社ともいう。それがなまって「いたちの宮」「いったちの宮」というようになった。吉野郡の方からも安産を祈りによく参ったという。村に元禄七年銘の湯釜が残っている。(岸田定雄)
● 徳源寺の布袋《ほてい》さん 宇陀郡大宇陀町岩室(旧宇陀郡神戸村岩室)
 岩室の五十軒領に長泉山徳源寺という古刹がある。臨済宗大徳寺末で、織田高長の菩提寺。京の北野の徳源院の古寝殿を移して本堂とした寺である。織田氏が丹波の柏原に移封されてからだんだん衰えた、この寺に、丹州竹田の人、照信一世の最終の作といわれる布袋さんが、小堂の中に祭られている。ある時、近隣の人が自分の家へ持ち帰ってすえたが、不思議にも、
「いのう、いのう。」
と泣いたので、またもとの寺へもどしたといい伝えられる、いのうとは帰ろうという方言。(山尾一楼)
● 猫たたき如来(増補分) 宇陀郡大宇陀町西山(旧宇陀郡神戸村西山)
 西山の光明寺の本尊、阿弥陀如来を「猫たたき如来」という話は二百五十三話にあるが、少しちがった伝承もある。
 今から五〇〇年ほど前、見山沢応上人という高僧がおられたが、春日の老夫人の葬儀に参り、身内の者や村人と墓へ行く途中、一天にわかに曇って物すごい風雨雷鳴が起こり、あたりはまっくらになった。一同は大いに驚き、棺を捨てて逃げ帰ったが、上人だけはひとり残り、七条の袈裟を棺に巻き、その上に座禅して、この如来の箱をうち振っていた。すると、異様な音がしたかと思うと、たちまち風雨が止んで天気となった。逃げ帰った人々がふたたび来てみると、上人はおちついて棺の上に座っておられる。そのかたわらに目玉の飛び出した一匹の猫が死んでいた。それからこの仏を「猫たたき如来」というようになった。(岸田定雄)
● あしかる大明神 宇陀郡大宇陀町麻生田(旧宇陀郡大宇陀町神戸村麻生田)
 麻生田には氏神の威徳王神社のほかに、大明神さんというお社がある。

あしかる大明神
 この大明神さんに、昔、大きな木が立っていた頃には、三輪の明神さんからその木へ糸がひっぱられてあったという。三輪の明神から、五月の節句に作るチマキに巻く芦をここへ取りにきたが、弁当を持ってこなくとも、弁当は木にぶらさがっていたそうである。大明神の周囲には芦が生えていた。これを取るので「あしかる大明神」といったものであろう。三輪の母神さんといい、この村は三輪明神の鍵元であったので、麻生田から人が行かぬと三輪の祭りはできなかったという。(岸田定雄)
● 石増《いしまし》の姓と千本橋 宇陀郡大宇陀町牧(旧吉野郡上龍門村牧)
 源義経が兄頼朝に追われ、牧まで落ち延びた時のことである。家来と一しょに食事をしようとした時、村人のひとりがたいへん親切にしたのを喜び、
 「道の石ころが年々増していくように、
         お前の家も年々栄えるよう、石増と名乗れ。」
といったので、「石増」と名乗るようになった。
 義経が去ったあとに、弁当を使った箸が千本落ちていたので、そこにかかる橋を千本橋というようになったという。
● 不動が瀧の茶店 宇陀郡室生村田口
 今から二百年程前、田口の不動が瀧の上に、茶店があった。或日の事、一人の妙齢の美人が、此店に来て、餅飴をもとめた。主人は怪しんで、何処から来たかと尋ねると、美人は無言のまゝ店を出た。一層不思議に思ひ、その後をつけて、瀧壺の所まで来たとき、美人は、その姿を瀧の中へと消してしまった。それから後、この茶店がはやらなくなったといふ。(山田熊夫)
● 室生の爪出ケ淵 宇陀郡室生村室生
 室生寺や旧境内、室生川に爪出《つめで》ケ淵といふのがある。昔、慶圓上人が、こゝを通りかゝっると、淵にすむ善女龍王が美人となって現はれ、名を明して、即身成佛の印明を授けられたいと願った。上人は、懇ろにその願ひを叶へてやり、改めて、龍王の本身を現はして見せよと求めた。
 龍王は、全身を示しては、人を驚かさうから、片端だけを御覧に入れようとて、忽ち黒雲を巻起し、雲の間より、右の手だけを現はした。其の爪の長さが一丈余で、五色にかゞやいてゐた。其れから、こゝを爪出ケ淵といふことになった。
 (荒木良仙)
● カラミの辻 宇陀郡室生村室生
 室生寺のあり谷の西縁、寺を一目に見下ろす所に、カラミの辻といふ所がある。弘法大師が室生山を開く初めに、こゝに立って、カラの景色其のまゝだと感歎したので、此名が起こったといふ。(高田十郎)
● 狼石 宇陀郡室生村室生
 室生の谷の西縁、カラミの辻に、コシヲレ地蔵といふのがある。腰から折れた石の立像である。其前にオーカメ石といふ火山岩の塊がある。昔、狼があって、頻りに古墓を荒して人を困らせた。弘法大師が、此石に腰かけながら、其れを誡め、若し此石を甞めてしまふことが出来るなら、墓荒らしもやるがよいと云った。
 狼は、其れで断念して墓荒らしを止めたが、其時こゝろみに、数ケ所やってみた跡が、今も石面にコポリコポリと凹んだ所だと云ふ。オーカメとは、オホカミの方言である。(高田十郎)
● おころもかけ松 宇陀郡室生村室生
 宇陀郡室生村室生の谷の西縁、カラミ辻の少し上に、オコロモカケ松がある。弘法大師がコロモを掛けた所だと云ふ。(高田十郎)
● 宇賀志の血原 宇陀郡宇賀志村宇賀志
 昔、神武天皇の大和平定の初め、宇陀郡地方では、苦しい思ひをして、未開の土地を開拓しながら進まれた。即ち土地を切りウガッて進まれた所を、ウガチの邑と呼び、其れが今のウカシ村の元となった。
 其れから此地方には、兄猾《えうかし》・弟猾《をとうかし》といふ者が居り、弟猾は先づ帰順したが、兄猾兄猾は尚反抗し、更に天皇を誘って陥し穴に落さうと企てた。天皇は之を察せられ其陥し穴を逆用して兄猾を誅せられた。其時の血が野原一面を覆ったので、其地を血原《ちはら》と呼んだ。今も血原川があり、血原橋が架ってゐる。
● 白鳥居神社の由来 宇陀郡政始村白鳥居
  白鳥居神社は、政始《せいし》村白鳥居の西の森にある。昔、日本武尊が伊勢の能褒野に薨ぜられた時、其地に葬った所、其墓から一羽の白い鳥が飛出し、西南に向って去った。
御棺を開いてみるとカラになってゐた。鳥は一度伊勢の某地に下り、次に此村のコトホラ山に下りた。其れで其地に宮を建てゝ日本武尊を祀ったのが此神社である。白い鳥が来た所だから白鳥居神社といひ、又大字の名にも云ふのだといふ。其時鳥は更に河内の方へ飛んでいってしまったといはれる。今は此神社は、安産の神さまとして遠い所からも参る人がある。(笹岡研三)

白鳥居神社
● 猫たたき如来 宇陀郡神戸村西山
 西山、光明寺の本尊、阿弥陀如来を、『猫たたき如来』といひ傳へてゐる。
 それは、天和年中のことである。百姓七兵衛の妻が亡くなって、その葬式の途中、俄に眞暗になり、物凄い雷鳴風雨が起った。その時、導師の光明寺憲海上人は、『これは、必ず畜類の災ひであらう。』と、その棺に七條の袈裟をまき、本尊阿弥陀如来の箱を捧げて、棺に投げつけた。すると、忽ち天気もはれ、元の白昼となって、一匹の老猫が傍に死んでゐた。見ると、其一眼がつぶれてゐる。これは彼の本尊の箱が、猫の眼に中ったのだった。それから此本尊を『猫たたき如来』と云ひ傳へるやうになった。(辻本好孝)
● 身投石と鶴が淵 宇陀郡松山町
 昔、宇陀の松山に、織田山城の守常眞といふ大名があった。当時の神事に際し、大に家康の処置に憤慨し割腹した。これを聞いた山城の守の用達、野口某が主人の横死を見、残念で堪らず、是亦自殺してしまった。この死を聞いた二人の姉妹、姉を亀といひ、妹を鶴といったが、姉の亀は十二単衣の正装で、岩の上から淵に身を投げた。妹も亦姉の跡を追って、同じく十二単衣で、身投げした。それからその石を、身投石といひ、その淵を鶴が淵といふ様になった。俗謡に、
 鶴が平からかめ屋を見れば、四方白壁八つ棟作り、中は黄金の五畳敷。
と謳はれたのは、此姉妹の家であった。(山田熊夫)
● 金の茶臼 宇陀郡内牧村赤埴《あかばね》
 金の茶臼といふのは、赤埴佛隆寺の什寶で、側面に麒麟を彫刻した石像茶臼に、金で破損のケ所を修理したもの、目方が六貫三百匁ある。
 是は、昔、弘法大師が唐から帰朝のとき、唐の徳宗皇帝から、茶の実と共に贈られたのを、此寺に留められたのである。当時茶の実も、大師手づから寺内に蒔付け、『苔の國』といふ茶園になってゐた。今も寺の付近の山野には、自生の茶が多いが、いくら煎じても色と香気が失はれぬのは不思議だ、とて珍重される。
 さて、茶臼は寛文年間に、宇陀郡の松山城主織田長頼公が、別荘を建て茶の湯を催したとき、寺から借受けていったが、いくら催促しても惜んで返さない。其内、城中では、毎夜、鹿のやうな獣が出て鳴き騒ぎ、室の内外をかけ廻っては器物を破壊する。よく調べてみると、茶臼に彫刻された麒麟の仕業と知れた。長頼公は非常に立腹して、臼をとって庭石に投げつけた上、やうやく佛隆寺に返させた。金で修理された損傷は、この時のものであるといふ。(日高大信)
● 石楠花谷 宇陀郡内牧村赤埴
 高峰山の東端に、石楠花谷といふのがある。五町歩余りの山で、石楠花満開の時は、大へん美しい。附近に法華経ケ瀧がある。
 昔、弘法大師が、此瀧で経供養をして、手向けのため、彼花を挿された者だといふ。(眞田松露)
● 甚二郎の芝 宇陀郡内牧村高井
 榛原《はいばら》町から伊勢本街道を東へ一里ほど行った所が、内牧村高井である。この村の入口で内牧川を距てた向岸に、甚二郎の芝といふ共同墓地がある。
 昔、甚二郎といふ者の夫婦があった。何処からか此辺りに来て、伊勢街道に面して、梅ヶ瀬橋の袂に、茶店を出した。後で分かって見ると、是は伊勢方面で罪を犯した兇状持で、其内捕はれて打首になった。其刑場が甚二郎の芝であった。現に夫婦の墓も其処にあるが、子供の夜泣きや、さかやき嫌ひを直すことを祈る人が、草花を供へて参詣して居る。是は夫婦が死に際に、村人に対して遺言し、よるべ無い夫婦の墓に草花なりとも手向けてくれ、これこれの守りにはならうと誓ったからだといふ。(眞田松露)
● 鶏を飼へば祟る処 宇陀郡内牧村高井
 高井にの椿尾垣内では、昔から、鶏を飼ふと祟るといって、飼はなかった。氏神様たる大山祗の神様が、鶏を嫌はれるからだと云ふ。併し大正の初めに、氏神は伊豆神社に合祀されたので、此の頃は鶏を飼ふ様になってゐる。(眞田松露)
● 千本杉 宇陀郡内牧村高井
 高井に、幹が二十幾本に分れた杉の巨木がある。昔、弘法大師が、室生山へ登る時、此処で弁当を食べられた。その時の箸が地に立って、生育したのが此杉であるといふ。この枝を切ると祟りがあるといふので、霊木として七五三を張ってある。
 (眞田松露)
● 高井戸 宇陀郡内牧村高井
 高井の千本杉の下に、昔から涸れたことのない井戸がある。とても高い所に在るので、高井戸と云ひ、それから此里をも高井と呼び、附近の阪を井阪と名付けることになった。昔、弘法大師が、この水を飲まれたと云ふので、霊水とたゝへられてゐる。(眞田松露)
● 毘沙門の祟り 宇陀郡内牧村高井
 高井に、弘法大師が勧請の弥勒堂がある。不動、弥勒、毘沙門の三像が安置してある。
 昔、村に百姓宗平といふ者があった。或日近所の子供と、玩具の弓をもって遊んでゐたが、おもしろ半分に、御堂の障子の破れ目から、毘沙門の眼を射た。毘沙門は左眼がつぶれ片目になってしまった。それから宗平の子供は、皆、眼病を患ひ片目となった。里人は佛罰覿面だと云ひ傳へてゐる。(眞田松露)
● 爪がき不動尊 宇陀郡内牧村自明
 自明の伊勢本街道の道端に、聳え立つ岩に『爪がき不動尊』といって、村人から大へん祟められてゐる不動尊がある。これは弘法大師が通行の際、爪で彫刻したものであるといはれてゐる。(眞田松露)

●五右衛門ヶ淵のかっぱ 宇陀郡内牧村檜牧
 檜牧《ひのまき》の小字高星、小阪平峠の下を流れてゐる宇陀川に、五右衛門ヶ淵といふのがある。
 二百年前、大字赤埴《あかばね》に、五右衛門といふ医者があった。長崎では蘭学を修めた、随分胆力のある、田舎にはめづらしい豪腕肌の人であった。六月十八日、村の夏休みを幸にして釣り好きな五右衛門は、弟共に、夏涸れの字宇陀川へすなどりに出かけた。淵まで来て見ると、三尺余りもあらうと思はれる鯉が、岸近くにゐる。よい獲物と見て、川へ一足入るや否や、五右衛門は水深く吸込まれていった。ハット思って、弟もつゞいて飛込んだが、兄同様に引込まれてしまった。是から、此淵は、五右衛門ヶ淵とて恐れられ、六月十八日には河童が、魚に化けて、人の血を吸ひに出るから、川行きはならぬと誡められるやうになった。(眞田松露)

まんが淵 宇陀郡内牧村檜牧
 昔、或百姓が、一心に田を耕してゐると、急に牛が鳴いてあばれ出し、いくらなだめても止まず、遂に人も牛も、ともにまんが淵に落ちて死んだ。其の後もこの淵に多くの人々がおちこんで死ぬので、村人はおそれて、或る高僧に頼み、この淵の屏風岩に、三尺余りの地蔵像を彫り、祈祷してもらった所、その後は何事もなくなった。今も旱魃の時には、この像に雨乞いをすることになってゐる。(山田熊夫)
● 天狗の足跡 宇陀郡榛原町山邊三 
 神野山は大和富士と云はれる。昔、天狗の棲所であった。天狗杉は、其場所だといふ。又天狗岩は、天狗の一服した所で、天狗の足跡が残ってゐる。(眞田松露)

● 身代り焼地蔵 宇陀郡三本松村大野
 昔、大野の郷士・杉山平左衛門の侍女に、小浪とて気だての優しい女があった。いつも地蔵菩薩を信仰してゐた。ところが或年の事、杉山の家が全焼し、それが小波の仕業だとの嫌疑で、小波は火あぶりに処せられることになった。人々は皆其冤を哀れんだ。
 刑場に臨んで、小浪は一心に地蔵尊を念じながら、合掌瞑目してゐた。やがて炎々たる猛火に包まれ、忽ちクワッと光明を放ったかと思ふと、小浪の身は一変して地蔵菩薩の姿となった。それと同時に、遙か向ふの石の上に、合掌瞑目の小浪の姿が現はれた。人々は此不思議に畏れおのゝいた。小浪は、即日剃髪入道して、妙悦と号し、一生を報謝念佛に終った。
 此地蔵尊が、今も大野寺の国宝たる身代り焼地蔵尊である。弘法大師の御作だといふ。小浪の遺蹟は、今に悦庵と称し、墓所もある。(吉岡正一)

● 飯降淵と龍王ヶ淵 宇陀郡三本松村向淵
 むかし向淵の小字飯降に、飯降淵といふのがあった。三方は絶壁で南方だけが開けてゐた。
 ある日のこと、この淵で襁褓《むつき、しめ/※オムツのこと》を洗った女があったが、其夜のうちに、急に土地が高まって高台になった。現に飯降淵は高台で、中央の一部に、沼地が残ってゐるだけで、その周囲は凡て耕地である。併し今日でも、尚その沼地に足を踏み入れる者はなく、その水の深さを知った者はない。
 飯降淵のこの不意の隆起と同時に、遠く南方の山頂で、周囲五丁余の地面が落込み、現在の龍王ヶ淵が出来た。一名『履《くつ》ぬぎの池』ともいふ。それは次の様な由来である。
 後朱雀天皇の時、向淵の目代藤原時廉が、観音の霊夢に感じ、清浄の浴地を求めてこゝまで来た。見ると、可愛いゝ童子二人が、池水に浴してゐた。童子等は、時廉の姿を見て大いに驚き、早速上って羽衣をつけながら、
 『我等は、人界の者ではない。この池は、善女龍王の都、底は無くて、天竺の無熱池に通じてゐる。それで、吾等は天から降って浴してゐたのだが、人間に此事を知られた上は、もうダメだ。』
と云って、クツを履くひまさへなく、あわてゝ天上してしまったと云ふ。
  (吉岡正一)

● 最明寺時頼實植ゑの松 宇陀郡三本松村三本松
 三本松といふ村名は、其地にある名木『三本松』から出てゐる。是は、最明寺時頼が、諸国巡歴の際、手づから實植《みう》ゑしたものと傳へられ、今は根廻り、三丈余、三つ又に分れて珍しい形をして居り、天然記念物の指定を受けてゐる。
 (吉岡正一)

● 焼けバイ 宇陀郡三本松村
 三本松に鎌倉といふ字がある。そこから発する渓流に、高さ二丈巾七尺の瀧がある。対岸の岸壁に、北面の不動尊が安置されてゐる。最明寺時頼が、行脚の砌、病躯の全癒を祈り、効験があって以来、鎌倉の瀧と云はれてゐる。
 この鎌倉の瀧の渓流に、昔に焼け痕のやうな斑点のある小魚が棲んでゐる。ヤケバイと呼ばれ、今に誰も取るものがない。(吉岡正一)
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