● はね坂
 五条市御山町(旧宇智郡南宇智村御山)
 御山には、はね坂というところがある。
 昔、高貴の姫君がこの坂を越えて嫁いだ。のち、懐妊して実家への帰途、この坂でつまずいて倒れ、ついに流産し、自身も死んだ。後世、この坂を不吉として、嫁入りの時には通行を避けるということである。(吉川星一)
● 村社の丹生神社 五条市丹原町(旧宇智郡南宇智村丹原)
 いつのことかわからないが、丹生≪にう≫川が増水して、川上の丹生神社の御神体と、その他多くの書き物が丹原へ流れてきた。それを上≪うえ≫という人が拾い上げて、社殿を建立し、御神体を安置して丹生神社といった。それから幾代か過ぎて明治維新となった。この時、政府から全国の宮々に、たしかな証拠のある神社があれば社格を賜るから申し出よ、という布告が出た。ところが、その当時の上家の主人は、丹生神社から流れてきた御神体をだまって祭っていた。これが知れると処罰されるかもしれぬという心配から、御神体も書き物も焼き捨てたということである。(吉岡治男)
● 泥よけの木 五条市丹原町(旧宇智郡南宇智村丹原)
 昔、丹原の吉祥寺≪きっしょうじ≫へ泥棒がはいった時、アカツキョウの木の束で追い払ったという。今も同寺付近の人たちは、この木の束をになって、村内の社寺を巡拝して泥棒除けをする。(吉川星一)
● しばし寺の話 五条市丹原町(旧宇智郡南宇智村丹原)
 丹原のしばし山吉祥寺の床下で、ときどきうなる声がきこえるという。これはある由緒ある仏像を埋めてあるためだといわれる。
 また、この寺の鐘楼のかたわらに、五葉の松のある塚がある。これは昔、姫をここに埋めたので、それが松の木となって生い立ったのだと伝えている。
(吉川星一)
● 姫谷 五条市良峯町(旧宇智郡南宇智村良峯)
 良峯に、昔、大蛇が住み、ときどき姫に化けて人を害したという。それで、この地を姫谷というようになった。 (吉川星一)
●天王様と胡瓜 奈良県五條市
 南阿田の中央にすさのおの命を祭った天王社があり、胡瓜の初生りを供える風習がある。絵馬にも胡瓜が描かれている。ところが湯谷では、天王社の御紋が胡瓜であるから、胡瓜を栽培しない風習になっている。(亀多桃牛)

● 居傳城山 宇智郡北宇智村居傳
 北宇智村大字居傳の東北に、城山と云う大きい台地がある。此所に昔、小さい城があった。今より数年前、北方二丁程の山の中で、大きい一つの石棺が、居傳の村人によって掘り出された。此の城山より少し下の方に、現在薬師堂がある。昔城主守本尊として祭った所と云う。
 現在、居傳の村内に流れて居る高井井手の番水が始まると、普通の所は、十一日目に一回、田に水を引くが、此の附近だけは、三日目に一回である。これは城主が火急の用水の為に、三日目に一回と短縮された名残と伝えて居る。
 又この村では、最近まで正月・盆の十五日も、他村と違ってずっと働いていた。それは昔、村人達が浮かれ気味で遊んでいる十五日の夕、敵兵の不意打ちにおうて、落城の憂き目を見たから、警戒することになった習慣だと云う。(坂上昇)

● 地福寺の天壷 宇智郡北宇智村久留野
 久留野の地福寺の宝物に、高さ二尺の壷がある。天壷という。天智天皇の御宇、白鳳七年に、諸国が非常な日やけで田植が出来ず、宮々寺々の祈祷も験が見えない。藤原不比等の意見によって、改めて役行者が雨乞いの祈祷をすることになった。三日目の早朝に、白髪の老翁があらわれ、一個の壷を行者に授け、
 『私は龍宮の使だが、行者が天子の命によって、万民を助ける心が殊勝だから、これを奉る。』
と、云って消え失せた。これが今の天壷である。やがて祈祷の験に大雷雨が起こり、人々は蘇生した。人々は行者のために寺院を建立して、孔雀院と名づけた。これは今の地福寺の前身である。後に、松平阿波守は此の天壷を借り受けてゆき、徳島の神護寺で、雨乞いをした。丁度五日目の七つ頃から大雨が降り出して、六日目の八つ頃までつづいた。阿波寺は非常に感じて、此の壷の絵を写し取られたという。壷が送り返される途中、鳴門の辺で船が止まって動かず、風波が起こって、将に覆没しそうになった。壷を敬持した慶海法印は、
 『此の壷は、始め龍宮の物で有ったから、龍宮から取り返へそうとして居るのだ。』
と思って、持合せの舎利を海中へ投げ込むと、忽ちにして風波も鎮まり舟は無事に堺に着いたという。(吉田福雄)

● 音無川 宇智郡宇智村子島
 五條の東、栄山寺の前は、吉野川が青く淀んで、音無川と呼ばれる。
 昔、弘法大師が、栄山寺で行をしようとしたが、前の吉野川の流れが耳にさはって、どうしてもうまくいけないので、その流れに向かって、
 『音を立てないでくれ。』
と一つの石を投げた。すると忽ち、あのやかましい水の音が、すっとなくなった。
是から音無川の名が出た。(里井善秋)

● 子島の岩神様 宇智郡宇智村子島
 南和の名所栄山寺の西の山麓に、子島と云う部落が在る。其ほぼ中央部、道より約二町登った山腹に岩神様という祠がある。
 子島部落の地盤は、全部一つの岩からなっていて、何所を掘っても水は無く、現在此の部落で水の湧く家は、僅かに二三軒である。此偉大な岩塊は、全部岩神様の持物、否、神体で、岩を取る事は身を削る事になるとて、神様が嫌われる、尤も子島の住民なら何の祟りもないが、若し他所の人が此の岩を取って使ったり、売ったりでもすると、或は病人が続き、或は家が衰える、近郷には其実例がある。又岩神様の使者は、尾の白い蛇であると云われている。(中川楢之輔)
● 笠の辻の地蔵さん 宇智郡宇智村今井
 宇智村今井の笠の辻に、地蔵尊を祀った小堂がある。
 昔、五條に一人の武士がいた。毎日狩に耽って、家の人が何と諫めても、聴かなかった。所が、或日狩から帰ってくるなり、馬から落ちて死んでしまった。併し、暫くして息を吹き返し、
 『自分は、生前殺生ばかりをしたので、どうしても冥途に行く事が出来ない。今から三年間、矢田の地蔵に日参することにしよう。』
と云い、是からは狩をやめて、毎日矢田の地蔵さんへお詣りしていた。或夜、夢枕に佛身が現れて、
 『我は矢田地蔵である。お前は、今後遠方に参るに及ばない。明日、お前の家から程近い所に、笠を置いて目標にしておくからそこへ参るがよい。』
と告げて消えた。其翌日、果たして、道ばたに笠があったので、其日から其処に小堂をたて地蔵様を祭って、お参りすることにした。笠の辻の名は、こうして生まれたと云う。(里井善秋)
● 日を射た長者 宇智郡宇智村岡
 宇智郡宇智村岡から、北宇智村に通ずる所に、荒阪峠という峠がある。
 昔、ここに荒阪長者と呼ばれる大金持ちがあった。毎日毎日、金を借りに来る者がひきもきらないので、長者の一人息子が、これでは、とてもやり切れない、お日様さへ無かったら、こんなうるさい事もあるまいと思って、或朝太陽に向かって、矢を放った。それから忽ちその家は衰えてしまった。此の峠に、荒阪池という池があって、水が白く濁って居る。是は長者が始終米を洗ったので、こうなったのだと云う。(里井善秋)
 又、長者が米を磨ぐ水は、流れて一の白水の池になり、夜になれば涸れ、翌朝又白い水が満たされていた。長者の零落後にも、水は涸れないで現在に及んだとも云う。(坂上勇喜男)
● 龍のお寺 宇智郡牧野村北山
 金剛山の南麓、北山村には、昔、大龍がすんでいて、村を荒らしまわった。或日、一人の修験者が、龍を退治しようとして、祈りをはじめた。一天にわかにかき曇って、あらわれ出た大龍は、今にも修験者に飛びつこうとすると、修験者は、手に持った数珠を振り上げて、ハッシと投げつけた。龍は忽ち天へ逃げ上がろうとしたが、身が三つに切れて、ぱたりと地上におちた。
 村人はよろこんだが、龍の祟りをおそれて、龍の頭の落ちた所に龍頭寺、胸の落ちたところに龍胸寺、尾の落ちた所に龍尾寺と、三つのお寺を建立して、龍を厚くとむらったと云う。今は寺のあとかたもないが、修験者の祈祷した場所を法願田と云い、龍の胸の落ちた所を胸が段と云っている。又、三つの寺の佛像は、今でも国宝として、北山村の草谷寺に残っている。(吉川星一)
● まだ見ぬ雨ふり不動さま 宇智郡牧野村北山
 昔、北山村に大龍が居た。それは、退治されたが、霊が猶残って大暴雨を起こし、野山を荒らした。折よく修行に通りかかった役の行者が、これを救おうと考え、濁流に臨んだ龍ヶ谷の断崖絶壁数百尺の上から、只一條の網に身をささへ、ひたすら衆正安全怨霊退散を祈りつつ、岸壁に不動明王のお姿を刻んだので、龍ヶ谷は長くもとの平和にかえった。併し誰もその不動明王のお姿を拝んだ者はない。今尚、『まだ見ぬ雨ふり不動さま』として、雨乞をする場所になっている。(吉川星一)

● 櫻井寺の縁起 宇智郡五條町
 宇智郡五條町の櫻井寺の開祖櫻井康成は、郡の牧野村安山の青年城主であった。早く父を失って国政を顧みず、毎日狩猟に耽って居た。母が憂いて、極諫したが用いない。或日康成は、例の如く山に入り、岩陰に眠った大猪を射たが、それが意外にも猪の皮を被った母であった。それから発心して城を捨て、吉野川に臨んで二つの寺を建て、其一つに住んで母を弔った。即ち櫻井寺であった。(吉川星一)

● 今弁慶 宇智郡五條町
 昔、五條の東浄に、今弁慶と云って大力無双の男がいた。
 或時、東浄寺の鐘楼で、釣鐘を地上に取下して、撞けないようにして置いて、午睡をしていた。丁度いい心持ちで、夢を見ていた真最中に、不意に寺の外で、ズドーンと大きな鉄砲の音がした。今弁慶は眼をさまされて、大層腹を立て塀の上から覗いて銃口を見つけて、コイツだなと思って、すぐに手をのべてそれを奪い取ろうとした。併し塀の外からも、中々強くぐんぐんと引張ったので、とうとう、銃身は飴の様に曲がってしまった。塀の外の人は、今の南宇智村御山の野原助兵衛、後に大阪役武勇を現して戦死した武士であった。今弁慶は、助兵衛と顔見合わせて、カラカラと笑いながら、鐘を元の様に架けて、悠々と立ち去った。
 又或時、牛車に五斗俵十数俵を積んで、下淵の下流、『坐頭が淵』の難所を通っていた時の事である。丁度そこへ、紀州の殿様の行列が通りかかった。今弁慶は、どうしようかと一寸考えたが、静に左手に牛の腹帯を取り、右手に車の心金を握って、牛と車とを、道端にから淵の上につき出し、行列の通過を待っていた。
 其後、吉野川に出水があって、恐ろしい濁流が渦を巻いて流れて居た時、こんな時に力を試してみなければと思って、左右に丈夫な戸板を持って、川の中に飛び入り、激流にさからってせき止めたが、力余って、骨までクザクザにくだけて死んでしまった。(里井善秋)
 又、坐頭が淵で、大名行列に行逢った時の事についての一説には、車は牛車引の物であったのを、今弁慶が、形の如両手に支えて云々したとなっている。
  (小山隆敬)

● 曲淵の緋鯉 宇智郡五條町二見
 二見御霊神社の下は、吉野川の岸の断崖絶壁で、水は碧黒く、底もわからない。曲淵と呼ばれる。
 昔、大台ヶ原に、大きな緋鯉が棲んでいたが、吉野川を下って此の淵まで来た。人々が争って取ろうとしたが、忽ちにして、どこへ行ったか、わからなくなった。
 それからは、鯉をめったに、姿を見せないが、若し姿を見せる様な事があったら、きっと数日中に一人二人の溺死者が此の淵に出来ると云う。(里井善秋)
● 杖櫻 宇智郡野原町上之段
 野原の上之段に、大きな石地蔵がある。『大佛さんの子供にしてやれ。』と或人が言った程、大きくて立派なものである。其前の広場に、古い櫻の大木が、昨年まであった。弘法大師が、ここまで来て、折れた杖を挿しておかれたのが、生きて成長したもので、美しい八重櫻であった。上之段のことを『つゑさくら』とも呼ばれるのは、是からである。(小林清行)
● しばし寺 宇智郡宇智村丹原
 南宇智村丹原に、『しばし』という寺がある。なぜ、こういう名がついたかというと、昔弘法大師が、はじめて此の寺を建てられた時、或る日の、日の出までに、建てをはらねばならない譚があった。然るに、其朝、まだすっかり建ち終わらぬ中に、もう東の空から日が出はじめた。そこで大師は、これはと思って、側にあった檜の材を取り上げ、『しばしまて』といいながら、向こうの立木になげつけた。それから『しばし』という寺の名がでた。今も寺の庭に、椿と檜との合体した不思議な木があるが、是が当時大師の投げた檜の引っかかった木だという。(山口七郎)
● 弘法大師と犬飼 宇智郡阪合部村犬飼
 弘法大師が、支那から日本に向かって三鈷を投げ、其の落ちた場所を密教場所の道場としようと思って、帰朝してから、彼方此方を捜しもとめながら、宇智郡へやって来て、狩場という狩人に出会った。狩人は、
 『高野山全体は、私の持山であるが、此頃、不思議に、猟が利かなく成ってしまった。』と云う。是は、弘法大師が三鈷が落ちて、光を放つので、鳥獣が寄って来なくなった為であった。
 『それでは、一つの山を案内してくれないか。』
と大師が言うと、狩場は、
 『私は案内出来ないので、犬を貸します。』
といって、黒白二匹の犬を貸して呉れた。弘法大師は、犬の先導によって、高野山に分上り、三鈷を見出し、そこを修行の地とした。それから犬をもらった地を犬飼といい、猟師狩場は、狩場明神として、犬飼の法輪寺と、高野山とにまつられることになった。(平井日出雄・森脇為雄)
● マツチ峠と待乳膏薬 宇智郡阪合部村相谷
 弘法大師が、今の大和・紀州の境のマツチ山の茶店で休んで居られると、乳を痛めて難澁している女が通りかかった。大師は、呼止めて乳の妙薬を授けられた。その時の大師の言葉に、
 『しばし待て、乳の薬をやろう。』
とあったから、峠をマツチ(待乳)峠といい、其薬を待乳膏薬と呼ぶことになり、今も其地で売っているのだという。(田村吉永氏の調査に據る。高田十郎)
● 又(マツチ峠)
 少し異なった傳へには、大師が高野山へ上がる途中、マツチ峠で赤子の泣声を聞きつけた。唯の泣声ではないと察して、其方に尋ねよると、みずぼらしい一軒の藁屋があって、声は其内から起こっている。見ると、母親の乳房に、大きな腫物があって乳が出ず、親も子も苦しんでいるのであった。大師は、直に傍の或樹の脂を採って、乳房につけてくれると、忽ち腫物は消えて、乳が出るようになった。それから、大師は、峠の頂に、二つの井戸を掘り、其水で樹脂を練って、膏薬を作ることを教えて去った。
 是が、今も、ヒビ、アカギレの妙薬として、広く世間に行われている
『待乳膏薬』だという。(里井善秋・大西孝雄)
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