● 瀧野長者の遺蹟 山邉郡東里村瀧野
 山邉の東山中、伊賀境に接して、東里村大字瀧野といふ戸数僅かに九戸の小村がある。昔、ここに瀧野長者といふものが住んで居た。
 瀧野長者は、石工が家業であった。若い間に丹精した甲斐があって、大和屈指の長者になった。併し、別に驕りもせず、元のままのみすぼらしい家に住んで居た。
 長者には、二人の子供があった。兄は馬の名人、弟は親にも似ぬ怠惰であった。其うち弟は家出した。兄も馬に乗って伊賀の上野方面にいってしまった。つづいて長者の妻も、亦先立って死んでしまった。
 長者は全く力を落し、村の北にある雄瀧の不動尊に、日参をして居たが、遂に有るだけの大判小判を、深い滝壺へ投げ込み、其身もつづいて飛び込んで自殺した。
併し村人は、誰もこの事を知らなかった。
 その後、大干魃があった。誰いふことなく、瀧野長者は、雄瀧の瀧壺へ金を捨てて居るらしい、浚えて取ろうと云う事になり、村人総がかりで、水浚えをしてみたが、金は一つも出ず、底から長持形の大石が現れた。併し、是は砂と金とで固まったものかも知れぬと云うので、石を近くの小山の上まで舁上げ、玄翁で打割ろうとすると、急に物凄い雷雨が巻き起こって来た。人々は皆恐れて逃げ帰った。その後、又取掛ると又同じ様な凄い目に遭うので、村人も遂に断念した。此長持石は、今も在って、元旦の朝、その中で鶏の鳴く声がすると云う。
 長者が全盛の頃、大和と伊賀との国境青葉山に、広さ三町の千刈田というのを持って居た。五月には、数十人を雇って田植をした。或年の田植の時、未だ半分も済まない中に、どうしたものか日が入りかかった。長者は、金の扇を開いて、
 『日よ、いま暫く待てよ。』と麾《さしまね》いたが、だめであった。しかも、その翌年から、この千刈田には、米が出来なくなったと云う。今では、この地は広い茅原で、近年禁猟区になって居る。
 瀧野には、今も長者屋敷というのがある。又、長者の系図というものも、伊賀の其家に伝わって居るそうである。(松田晴栄)
● 小原のシングリマングリ 山邉郡東里村小原
 小原の東方、伊勢街道の旧道が、新道に合しようとする辺、右側に崖があって、シングリマングリと呼ばれる。シングリとは方言で、ビク、魚藍のことである。マクルとは高いところから物を転ばして落とすことである。ここは、昔、小原に貧乏人があって、子供の養育に困った末、子供をシングリに入れて、谷底へマクッた所だから、この名がついたという。(高田十郎)
● 笠間の角力 山邉郡東里村笠間
 笠置が落城して、後醍醐天皇が吉野へ御潜幸の際、御不例の為に、一時笠間に行宮を定めて、御逗留であった。種々の薬を服せられ、薬の滓《かす》を、一丁程北の小字ヤリウトに捨てられた。ここで、又種々の薬草を求められたが、中にはタバコも、何国からかの献上品中にあった。又、村では、村の力士を集めて、角力を天覧に供し、おぼしめしに叶った。今もある毎年八月十日の角力会は、その名残であると云う。(乾健治)
● 一夜に刻まれた佛像 山邉郡東里村笠間
 笠間の金毘羅に、一丈余の大石があって、如来像が刻まれている。昔、瀧野長者が一夜の中に作ったと伝えられる。(乾健治)
● 平原の焼魚 山邉郡東里村
 弘法大師が、ある時、山邉郡東里村笠間から三本松村に通ずる平原《へいばら》を通りかかられると大勢の子供が、魚を焼いて居るので、弘法大師が、子供から魚を買って、川に放された。魚はすぐ生きかえったが、尾がこげているので、今も焼魚と呼ばれている。(松田岩男)
● 『カネ』には『フシ』 山邉郡東里村青葉山
 豊原村毛原と、東里村との境に、青葉山という山がある。
 昔、東大寺建立の際、鐘をいくら吊っても、梁が折れて落ちるので困っていたが、或る信者が、夜この村を通ると、
 『娘や、カネにはフシがよいぜ。』
と親子が話しているのを、もれ聞いた。それから、ふしの木を探して寺の鐘を吊ろうと、百万捜索の結果、遂にこの青葉山で、立派なふしの木を見つけ、奈良の都へ運んだ。今も、その付近を木引の庄というのは、その為である。
  (峯憲仁、乾健治)
● 大師の箸柳 山邉郡豊原村切幡
 山邉郡の豊原村切幡《きりはた》から、針ヶ別所村小倉に通ずるみちに、泥の深い小川がある。其ほとりに小さい柳の木がある。昔、弘法大師がここで弁当を食べて、其箸を地に挿したのが根づいて、此の柳になった。尤も元の木は大木であったが枯れて、今のは其あとに小さく出来たものだという。池は『大師さんの池』と呼ばれる。
 又この辺一帯を『子洗ひ』という。昔、何処かの女が、ここで子を産んで、附近の田でその子を洗ったことから、この名がついたという。(井岡清)
● 鐘が淵 山邉郡豊原村毛原
 山邉郡豊原村の毛原と、岩屋との間、笠間川に、鐘が淵というのがある。
 昔、この淵に臨んだ山腹に建っていた毛原の某寺の鐘楼がこわれて、鐘がこの淵に落ちた。それで、今もこの淵の一番深い床尾路には、その鐘が沈んでいて、時々うなることがある。そんな時には、必ずこの地方に、何か凶変があると言われている。 (樫森政治郎)

● また(かっこう)山辺郡山添村助命《ぜんみょう》(旧山辺郡豊原村助命)
 母と子がふたり暮らしていた。ある日、母は背がかゆいので子供にかいてくれといったが、子供はおとましがって、どうしてもかかなかった。母はしかたなしに着物を脱いで、背をむしろにつけてこすった。あまりこすったので、それが瘡《かさ》になって死んでしまった。
 子供はひとりぼっちになっては、どうもしかたがなく、困りぬいたあげく、あの時、母の背をかいてさえおけば、こんな苦しみはせまいものをと、毎日嘆いていたが、とうとうそれが原因となって死んでしまった。その子供の正念《しょうねん》が鳥となってあらわれ、
「かっこう、かっこう、かっこう、かっこう。」
と鳴くのだという。(樫森政治郎)

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