● 長楽寺の仏木《ほとけぎ》 山邊郡福住村福住
 福住小学校の校庭に大きな杉の株があり、これを仏木という。昔、ここに長楽寺という寺があった。永禄六年四月、筒井の軍が福住宗永の兵と、ここで戦ったとき、筒井の軍が火を放ったが燃えない。おので柱をきろうとしたが、堅くて切れなかったという。また東大寺の良覚上人が、この一木で長楽寺の柱梁をつくり、その余材で観音像を刻んだ。校庭の仏木は、その残し株で、今の西念寺の十一面観音像がその観音である。(天理市史による)


● 梨木谷の鹿 山邊郡福住村山田
 村里はなれた山奥に、梨木谷という深い谷がある。昔、ここにお堂があった。
ひとりの狩人が、大雪の日、ここで牡鹿を射たが、大雪のため帰れなかった。やむを得ず、その鹿を殺して食べ、お堂で一夜をあかそうとしたが、激しい腹痛を起こした。食べものを吐き出して、たらいで口をすすいだ。
 その時に観音様が現れたので、
 「これからはもう殺生はしません。」
とお誓いすると、姿を消された。
 それから、その狩人は観音様を信仰していると、ある日、
 恐ろしや、梨の木谷の夜更けて梢に叫ぶ声は何鳥
とうたわれ、高山にいきたいとお告げがあった。それで観音様を負って、隣村の馬場の高山へお供した。これが、いまの金龍寺の推古仏、聖観音菩薩だという。
 (天理市史による)


● 淵ヶ下の一つ岩 山邊郡都介野村友田
 友田の大池の下、深江川の畔に淵ヶ下の一つ岩という大岩が横たわっている。
 昔、お公卿さんが当地に滞在されていた時、はるかに見える五社尾さんを拝まれた場所であるともいい、また、高貴な人々が、月見などの小宴を催された場所でもあると伝えられる。(都介野村史による)


● かしわ峯から飛んだ白石 山邊郡都介野村南之庄
 南之庄にかしわ峰という山がある。艮に九重の石塔があり、乾に金剛寺という寺があったが、明治八年に廃寺になった。峯は一たいの塚になっていて、長髄彦の墓だといい伝えている。
 昔、このかしわ峯から白い石が飛んで、それが白石の国津神社の祭神になったという。それで、白石の石を南之庄へ持ち帰ると、必ず災難が起こるといわれている。
  (都介野村史による)


● 国津神社のご神体 山邊郡都介野村白石
 白石の国津神社の御神体は大きな石であり、昔は南之庄にあったという。南之庄の人が大ぜいよって動かしても、動かすことができなかったが、白石の六人の若人がこれを動かしてみたところ、ふしぎにも楽々と動かすことができた。そこで白石のこの六人衆は大よろこびで白石へ運んで帰った。そして、今の国津神社の地で休憩した。さて立ち上がろうとすると、これはまた、どうしたことか、石は急に重くなって、どうしても動かすことができなくなった。六人衆はもちろん、村の人々も、これはこの地に鎮座したいとの神意であろうと解し、この地にお祭りした。これがいまの白石の国津神社である。そのご神体は社殿の下にある。
  (都介野村史による)


● 伏人《ふせど》橋 山邊郡都介野村白石
 白石の国津神社と雄雅山との間に、伏人橋という橋がある。
 昔、ある人が雄雅山で悪いことをして、ここまで帰ってくると、雄雅山の蛇が先回りして、この橋のところで待ち伏せて、その人を殺してしまったので、伏人橋というようになったという。
 また、昔、この地方でいくさがあった時、多田・染田方面から攻め寄せる敵兵をこの橋で待ち伏せたから、その名が起こったともいう。(都介野村史による)


● 嫁取地蔵 山邊郡都介野村中白石
 中白石に嫁取地蔵という石の地蔵さんが道のかたわらに祭ってある。
 昔、この地を通って嫁いだ嫁は、不縁になった。それで村人が野辺の霊を供養し、みんなを守護してもらうために、この地蔵さんを祭ったという。嫁を取る地蔵ではなく、嫁の悪因縁を除いてもらう地蔵さんであるのだが、いまも嫁入りの際は、この道を避けて通っている。(都介野村史による)


● 坂上長者の屋敷と墓 山邊郡都介野村針
 針の北方、村堺の山地に小字長者屋敷という土地があり、坂上田村麿《さかのうえのたむらまろ》から針の土地の地名と、坂上の姓を与えられた坂上長者がいた屋敷跡であるといわれている。南に面し、北・東・西の三方は土塁を周らした一アールほどの土地であったが、十数年前に開墾された。その時、西の隅から火葬墳が発掘され、石棺や土師器や鉄片が出土したが、ここは坂上長者の墓であると伝えられている。(都介野村史による)


● 仲よし夫婦になれる雨水 山邊郡都介野村藺生
 藺生に表屋根に注いだ雨は淀川に流れ、裏屋根に注いだ雨は大和川に流れる民家が建っている。はじめは、お前北なら、わしは南だと、互いに反対の方向をとるが、やがては接近して行って、末は等しく大阪湾へ流れこむというところから、仲の良くない夫婦が、この家に降り注ぐ雨水を飲むと、やがては至極仲のよい夫婦になれるといい伝えられている。(都介野村史による)


● 長谷川の四十八井手 山邊郡都介野村藺生
 藺生は初瀬川の水源あたり、昔は大池や大沼もたくさんあり、長谷川四十八井手といわれた。郷民は泊瀬の建雄祭といって、毎年六月一日に 四十八郷の酒饌《しゅせん》を作って、各池や沼の畔で水の神を祭ったと伝えられる。いまは池沼はほとんど田地になっているが、四十八郷の祭りには、万《よろず》神社の氏子は昔の例にならって夏の祭りをしている。(都介野村史による)


● 東郷ヶ池と嫁取橋 山邊郡都介野村藺生
 藺生には、昔、池沼が多くあって、埋立工事が盛んに行われた。いまの並松の堤を築いていた時、宇陀郡東郷の娘が嫁入りしてきて、乗馬でここを通って、娘・馬共に堤に築きこめられたという。それでこの池を東郷ヶ池といい、かけられた橋を嫁取橋といい、いまも嫁入りのときはこの橋を避けている。近年、橋下の溝から石の地蔵さんが現れたが、多分供養のために祭ったものと思い、その付近にある女郎塚と馬塚のそばに祭ることになった。(都介野村史による)


● 三荷芝《さんがしば》 山邊郡都介野村小山戸
 小山戸の都祁直《つげのあたえ》の墓地と称する荒芝の付近に三荷芝というところがあり、いまは茶畑となっている。昔、長助という男ほか六人の者が、都祁直の墓を掘ったが、その時、そこからたくさんの白蛇が出てきた。捨て場所に困った七人の男は、この場所に捨てにきた。運んだ蛇が三荷あったので、それ以来、この地を三荷芝というようになった。七人の男は霊のたたりで、その日に全部死んでしまったといわれている。(都介野村史による)


● 御社尾の神石 山邊郡都介野村小山戸
 小山戸に御社尾の神石という石がある。これは昔、水分《みくまり》の神が白龍となって、天から降りてこられたものだといい伝えらている。
 都祁山口神社から少し上がった山の上にあり、御神石としてまつられている。
 (都介野村史による)


● 五坊の神迎え 山邊郡都介野村吐山
 吐山の成福寺の金平山鎮守、十二社権現の摂社に言代主神を祭ってあった。
 昔、大洪水があって金平山が崩れ、言代主神が五キロも川下へ流されられた。成福寺五坊の僧たちは驚いて川下へお迎えに行き、帰る路で砂川山の原で休み、さて、立ち上がろうとすると神様は一こうに動かれない。これはこの地に鎮座しようという神意であると察し、さっそく祠を建てて、この神を祭った。いまの須川山の蛭子神社がそれである。
 四月二十三日の例祭には、成福寺の五坊が渡御の先頭に立った。いまは五坊の代わりに、少年五人が渡御に出、うち、乗馬のひとりは成福寺から出る定めとなっている。(都介野村史による)


● 火取石 山邊郡都介野村吐山
 吐山の長野の道ばたに、火取石という大きな岩が横たわっている。
ついたちの朝、提灯を持って通ると、急に鶏の声がして、同時に火が消えるので、火取石といって、昔から気味悪く思っているということである。
 (都介野村史による)


● 具呂孫仏《ぐろそんぼとけ》 山邊郡都介野村吐山
 吐山から金平山に登る途中、字狸尾に具呂孫仏という地がある。長さ三メートル、幅七〇センチ程度の石材が数百本も散在している。南海から渡ってきたともいい、俗にアマンジャクともいう。
 昔、慈覚大師がこの地で修業された時、その石材の一つに、みずからその像を刻まれたともいい、今も山積の石材のいすれかにあるといい伝えて、道行く人々の中には拝礼して通る人もある。(都介野村史による)


● 月の輪 山邊郡都介野村吐山
 吐山の貝ヶ平山に、月の輪といって、草木の茂る山腹に黄褐色の輪型が現れる。そして、この輪型は年と共に移動している。昔の人が不思議に思って掘ってみたことがあったが、この地から堺の海へ飛んだ鐘が、故郷なつかしく飛びもどり、地中に埋もれていたことがわかった。それ以後、おそれて、だれも手をつけるものがなくなった。
 (都介野村史による)


● 不動寺の朝明堂 山邊郡都介野村吐山
 吐山の小川口には不動山の不動・上の不動・下の不動と三対あったが、いまは下の不動寺に三体とも安置されている。
 この不動寺に、朝明堂いう堂があるが、昔、飛騨匠《ひだのたくみ》がこの地にきて、朝食前に建立したのだという。そしてその日の夕食後に、宇陀郡戒場の戒長寺を建てたといわれる。(都介野村史による)


● 香水峠の駒進め 山邊郡都介野村吐山
 香酔峠は香水峠とも書く。昔、天武天皇が東征された時、この峠でしばらく休まれたが、あまり清らかな水が流れているので、将士らにも軍馬にも飲まし、疲れを医《いや》して進軍されという。今も道を横切る渓流があり、その地を駒進めといっている。(都介野村史による)


● 香酔峠の名付け親 山邊郡都介野村吐山
 後醍醐天皇が藤原藤房。季房の二人を伴われて、笠置山から吉野方面へ遷幸された時、この峠にさしかかると、たいへん高貴なにおいがしてきたので、ここで休まれた。藤房・季房はこのにおいを酔わんばかりにかぎ、この峠を香酔峠と称しては、と語りあった。それからここを香酔峠と呼ぶのだという。(都介野村史による)


● 安産の薬師 山邊郡都介野村相河
 相河《そうご》にコードの薬師、一名一本杉の薬師、または天の薬師という三〇センチ四方の細長い先のとがった石の薬師さんが、一本の古杉の下に安置されている。
 昔から、天から薬師如来が降りてこられた時、仏体が二つにわかれて、一つは吐山の成福寺のカク薬師となられ、他の一つは相河に降りてこられたといわれる。
 安産守護の薬師さんである。(都介野村史による)


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