● 国樔の翁 吉野郡吉野町国栖(旧吉野郡国樔村)
 昔、大海人皇子が吉野山におられると、ミルメ・カクハナなどが、不意に山を襲うた。皇子は敏くそれを察し、夜中に山を落ちて、国樔の河辺をさまよっておられた。敵はたちまちその後を追って、皇子に迫った。
 川には橋もなかった。皇子は進退きわまった。ちょうどその時、ひとりの漁翁が川舟に乗って現われた。皇子は急に言葉をかけて、漁翁に頼まれた。漁翁はうなずいて、とっさにその舟を河原に伏せて、皇子をおおい、舟底にはぬれ着物を引っ張っておいた。
 やがて敵がかけつけて、翁に皇子のゆくえをなじった。そこへまた付近の犬が一匹出てきて、鼻をクンクンといわせながら、しきりに舟のまわりをかぎ始めた。これではならぬと思って、翁は追手の大将ミルメ・カクハナのすきをねらって、一撃にこれを打ち倒した。
 手下どもは、この勢いに恐れて散り散りバラバラに逃げうせた。
 こうして、翁は皇子の危難を救い、付近の和田の岩屋に案内して、粟飯にウグイの魚をそえてさしあげた。すると、皇子はウグイの片側だけ召し上がり、残りの片側を水中に投じて、いくさの勝敗を占われた。魚は勢いよく活きて水中をはねまわり、皇子の先勝を予示した。
 皇子は大いに喜び、一首の歌をよまれた。

浄見原神社近くから見た吉野川
 世にいでば腹赤の魚の片割れも
   くずの翁がふちにすむ月
 腹赤とはウグイのことである。この魚は、産卵期になると、腹が赤くなるからいうことである。皇子は、他日帝位に即いたら、これをシルシに持って参上せよと仰せられて、錦旗と鼓胴とを翁に賜わった。それで翁は、その後大和浄見が原の宮に参上して、勅によって歌曲を奏し、桐竹鳳凰の装束と御製とを賜わった。
 その御製に、
    鈴の音に白木の笛の音するは
      国栖の翁がまいるものかは
 その後、恒例として代々参内して歌曲を奏していたが、いつとはなしにそのことが絶えた。翁の子孫はこの典例の湮滅することを憂えて、寿永四年正月に新たに地を占って社を営み、天武天皇を祭り、毎年正月十四日、古曲を奏して現今におよんでいるという。 (吉水俊門)


● 筏<いかだ>乗りの神さま 吉野郡大淀町増口
 増口の椿井の森に水分神社<みくまりじんじゃ>が祭られてある。昔、ま下に流れている吉野川は、奔流が岩をうつところで、筏乗りの難所といわれた。
 年々、死者・負傷者などの事故が起きるので、明和4年に筏連中が合議して、高さ61段、幅4mの扁状花崗岩の石段を献納した。それからは事故が絶えたと伝えられている。
 (升井貞一郎)

 水分神社の石段は、幅4m・62段で境内へ至る。明和四年(1767)に上市筏<いかだ>連中の献納によるものだという。







水分神社境内へ続く石段
● 丹生神社 大日川
 昔、丹生川上神社下社(下市町丹生)の社殿が大水で流れ、大日川村でとまった。 丹生の村人は急いで丹生へもって帰った。
 幾年か後に洪水があり、ふたたび大日川に流れついたので、同地に丹生明神を祀った。
それいらい丹生の社殿は流されなくなった。

丹生神社(西吉野町大日川)

● 平家の村 吉野郡宗檜《むねひ》村檜川迫《ひかはさこ》
 吉野川の支流なる丹生川を遡る事五里余り、檜川迫という一寒村がある。ここは平家の落人の末孫と伝えられ、今ある四十余戸は、皆一の総本家をめぐっての、分家又分家となって居るという。(羽根準一郎)
● やおろせ坂 吉野郡宗檜村陰地《をんぢ》
 宗檜地方には、もと真言宗を信ずる者が多かったが、丹波国六人部《もとべ》生まれの、乗専法師の化導によって、今はほとんど真宗にかわっている。その乗専法師は、巡錫化導の末、今の阪巻まで来た時、持病のために遷化したのであったが、其時、『わしが死んだら、此の矢の落ちた所に葬ってもらいたい。』
といって、弓に矢をつがえて放った。その矢は、一里余り離れた陰地と平雄の境の坂に落ちた。それで此の坂を『矢おろせ坂』と云い、今も陰地、平雄の雨区でその幕を祭っている。(八幡藤太郎)
● 紺紙金泥十字の御名号 吉野郡宗檜村川岸
 吉野郡宗檜村川岸、真宗正林寺の霊宝紺紙金泥『帰命尽十方無碍光如来』の十字の名号は、宗祖親鸞聖人が七十六歳の時の御真筆を、正林寺の開基乗専法師が、本願寺覚如上人に帰依の後、上人から授けられ、更に法師が此地方化導の初め、最初の信者たる正林寺の留守居弥六の懇請によって、弥六に譲り渡された者である。
 其の後、正林寺に盗賊があって、御箱と共に名号を盗み去った。併し正林寺什物の銘があるため、売ることもならず、遂に、今の吉野郡下市町阿知賀の吉野川原に捨て去った。その後三年の月日を経て、阿知賀の川原に、毎夜光を放つものがある。人々は皆不思議に思っていたが、其の中、久蔵と云う者が、其光りを尋ねてこの御名号を発見した。これこそ川岸の御名号だろうと、直ぐ阿知賀から正林寺に知らすことにした。所が、其の晩正林寺門徒の勘兵衛と云う者と、住持の空照とが同じ夢のお告げを戴いた。
 『明日尊号がお帰りになる。夜が明けたら、一刻も早く下市へお迎えに行くように。』というのである。こうして尊い名号は再び正林寺に戻った。
 其の後にも、又盗難があったが、是亦不思議な数々があって、矢張正林寺へ戻ったという。(八幡藤太郎)
● ひかり堂 吉野郡宗檜村阪巻
 阪巻の明石垣内に、ひかり堂と云うところがある。昔此処に、小さい堂があった。或夜此の地から、光り輝く石の様なものが、遠くの不動谷に向かって飛んだ。後に村人がその跡を発掘したところ、一基の佛像が出た。これから、この地を光堂とよび、今はうづ高い圓形の草地となっている。(八幡藤太郎)
● 流れついた地蔵尊 吉野郡宗檜村城戸
 宗檜村城戸の川合に、『川合の地蔵さん』といって、地方の人々から尊信せられている石地蔵がある。
 昔、大洪水があって、城戸を流れている丹生川も、非常な出水であった。その水が引くと、城戸の河原に、一つの石地蔵があらわれた。どこから流れて来たのだろうと、里人等が騒いでいる所へ、三里余りも川上の、黒瀧村赤瀧という所から、多くの人々が出て来てここに居られたと云うので、喜んで拾い起こし、早速舁いで帰ろうとしたが、どうも重くて挙げられない。城戸の人々も手伝って、潔く石像は元の赤瀧まで還った。
 ところが、又次に大水があって、同じく其石像が城戸に流れて来た。今度は、前よりも更に多くの人々が、迎えに来たが、愈々重くて、どうしても動かない。遂に、これは、ここに祀れとの意だろう、と云うことになり、其まま城戸に留めた。これが『川合の地蔵さん』である。(八幡藤太郎)
● 座頭ヶ淵 吉野郡宗檜村
 昔、一人の座頭が、馬に乗って、阪巻の明石峰から下って来たが、不動谷と云うところへ来た時、過って墜落した。そこの淵を、座頭ヶ淵と云うようになったのは、是からのことである。(八幡藤太郎)
● 賀名生の丹生神社 吉野郡賀名生村
 吉野郡丹生村にある官幣大社丹生川上神社の社殿が、昔、大水の為に流されて、賀名生村の大日川に留ったことがある。
 丹生の村民は、それを早速丹生へ持って帰ったが、幾年か後に、又大水があって、又流されて、同じく大日川の前の処に流れ着いた。
 それで、其場所にも一つ別に社殿を建てたら、それ以来、川上の社は一度も流されなくなった。
 今も賀名生の大日川に、丹生神社があるのは、此由来である。
  (東清美)

大日川の丹生神社
● 乙姫淵 吉野郡賀名生村大日川
 昔、大日川の音右衛門という者が、今の乙姫中淵の上で、どうかしたはずみに、鉈を淵の中へ取落とした。音右衛門は、直ぐ淵へとびこんだが、それきり浮んで来ない、家では最早死んだものとあきらめていた。ところが、其一周忌の日に、ヒヨッコリと無事に帰ってきた。そして、其言うことは、かの浦島太郎ソックリであって、淵の底には龍宮があり、鉈は龍宮の家来に拾われ、音右衛門がいつた時には、床の間に飾ってあった。音右衛門は、龍宮を去る時に、乙姫様から、旱天で雨がほしかったら、此淵を掻乾せばよい、と教えられて帰った。是から淵を乙姫淵と呼ぶようになった。
 雨乞については、現に明治年間にも掻乾して、三日目に大雨を得たことがある。
 (中富隼人)
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