● 白山権現と東弥惣《やそう》 吉野郡川上村小字中井
 中井に白山神社という小祠がある。延喜年間に勧請したというが、つぎのような伝えがある。この村に東弥惣という者があって、日ごろ白山権現を信仰し、かたわら弓の名人であった。ある年に、この村に悪魔が現れ、弥惣だけに見えたので、蓑笠《みのかさ》をまとい強弓をもってこれを射とめた。それから村人によって、ここに白山権現を勧請して村の鎮守にしたという。 (上野恭雲)


● 東川《うのがわ》と衣引《えびき》 吉野郡川上村東川小字衣引
 東は子丑寅卯の卯、すなわち東の方位になるので、東《う》の川とよむのだとされているが、ほかにつぎのような伝説もある。
 神武天皇の御東征の時、この地にこられて休憩された。その時、土地の人が鵜飼をして魚をとり、天皇に献じたので、うの川といった。またその時、にわかに雨が降って、お衣がぬれたから、衣を引きのべて乾かされたので衣引《えびき》と名づけたという。 (上野恭雲)


● あきつの小野 吉野郡川上村西河・東吉野村小
 雄略天皇が、吉野の宮に行幸された時、川上の小野で御狩があって、天皇が矢を射られるため弓をおもちになった。虻《あぶ》が一匹とんできて、天皇のひじを刺した。すると蜻蛉《あきつ/とんぼ》がとんできてそのあぶを食うてとびさった。天皇はたいへんお喜びになって、ここをあきつの小野またはかげろうの小野ということになった。
 それは川上村西河のあたりであるともいい、東吉野村の丹生川上中社のあたりでもあるともいう。 (古事記による)


● 太刀屋《たちや》と鎧嶽《よろいだけ》 吉野郡川上村大滝
 義経は吉野をのがれ、愛染峠《あいぜんとうげ》を越えて吉野川へ出た。そのころ、大滝に兵部という郷士があり、義経はしばらくここにかくれていた。追撃がはげしいので兵部は義経を先導し、吉野川を渡ってにがしてやり、かたみに義経の陣太刀をいただいた。これから兵部の家を太刀屋と呼ぶようになった。この太刀は大滝の中平家に伝来していたが、今は壺阪寺へおさまっている。
 また、大滝の鎧嶽は、義経逃走の時、この山へ登って一と休みし、着ていた鎧をぬぎ捨てたので、その名がついたという。 (上野恭雲)


● 弁天腰掛けの松 吉野郡川上村迫
 川上村役場のある大字迫《さこ》に宝寿院という寺があり、その境内に弁天腰掛けの松がある。丹生川上村神社の裏、宮の平・宮の淵付近に弁天池というのがあって、大昔のこと、この池から弁財天が昇天した。その時に、寺の本尊の船大不動尊の加護をいのり、池から寺へきて、この松の木に腰をかけて一ぷくした。それから奥の院・生駒山を経て淡路方面へ飛び去ったという。 (上野恭雲)


● 白屋の名の起こり 吉野郡川上村白屋
 名峰白屋岳の西麓に、古くから白土山といい、吉野紙を漂白する原料となる白色の土を特産するところがある。そこから流れ落ちる谷川は時に白色を呈するから、白谷《しらや》といったのが、後に白矢、三転して白屋と書くようになった。
 (上野恭雲)


● 小鳥が巣を作らない寺 吉野郡川上村白屋
 白屋岳のふもと、白屋部落に玉龍寺という寺がある。昔、行基菩薩はここの堂垣内に玉龍寺を営み、延命地蔵尊を刻まれた。ある日、堂外へ出ておられる行基の頭上に、小鳥が糞を落とした。行基はたちまち印を結んで小鳥を封じられた。それからは、行基の作った仏像を本尊とするこの寺に、小鳥が巣を作らぬという。いまも本堂の屋根などに小鳥の巣を作ったことを知らない。 (上野恭雲)


● 蔵王の画像 吉野郡川上村高原
 迫《さこ》でバスを下車して、西南へ五キロほど登ると高原の部落に着く。毎年七月十七日には「ゾーコーさん」といって、宝蔵に保管されている蔵王権現の画像を福源寺に迎えて、蔵王権現の会式が行われる。何百年か昔、村人たちが恒例によって山上まいりの下向を、村から二キロほど奥の山谷の平に迎えて、下向の酒宴を開いていた時、どこからかひとりの老僧が現れて一幅の画像をくれた。開いて見ると、それは蔵王権現の像であった。今も「ゾーコーさん」の時は、この尊像を供養している。いつか高原に画工があって、この像を描き写そうとしかけたら、にわかに何者かに、その身を谷底へ投げ落とされたともいう。 (上野恭雲)


● 南帝王の森  吉野郡川上村高原小字南帝王
 高原に「なんておの森」という陵墓伝説地がある。南帝王尊義王の二皇子である尊秀王(自天王)と二の宮忠義王が、共に赤松浪党のために襲撃され、自天王は北山宮で殺され、忠義王は河野宮で殺されたことになっているが、実はこの時、忠義王はあやうく難をのがれて高原へうつられ、この地で不遇の生涯を終えられた。この森が、その忠義王のお墓であると高原の人々は信じている。
 また、一説には、この森を河野宮の東陵に対して「川上西陵」とも称し、新待賢門院《しんたいけんもんいん》のお墓であるとも後醍醐天皇の后で、河原中将公廉女《きみかどのむすめ》、三位の局という淮后のお墓であるともいう。
 (上野恭雲)


● 足摺峠 吉野郡川上村高原
 高原からさらに西南八キロ登った山中、吉野山から通じる山上まいりの通路にあたり、役行者・脇立及び生母の像を安置してある。昔、大峰山を開いた役行者が大峰山から下山してこないので、わが子役小角を慕う生母が、会いたい一念からここまで来たが、どうしても足が重くて進むことが出来ず、地に伏して足ずりをして悲しんだところだという。 (上野恭雲)


● 堂の窪 吉野郡川上村井光
 承久三年、鎌倉の執権北条義時が京師を犯した時、吉野首部連《おびとべのむらじ》の遠孫、吉野執行井頭左衛門武久は官軍に従って賊を宇治に防いだが、傷をうけて摂津の国四天王寺に退いて治療した。その時、生家をつぐ者のないのを憂え、常々念ずる十一面観世音の霊像が西門に安置してあるのに目をつけ、これをいただいて里に帰り、山中に草庵を結んで、日夜勤行を怠らなかった。里人もこれを観音堂といって、共に供養するようになった。この草庵の跡を堂の窪という。井光《いびか》の里から四、五百メートル北の方にあたる。 (上野恭雲)


● 立ち岩 吉野郡川上村中奥谷
 白川度《ど》でバスを下車して六〇〇メートルほど中奥谷へ入ったところに、立ち岩という、たけのこをさかさまに立てたような、高さ五〇メートルもある大きな岩がある。昔、役行者が大峰山へ登る途中、足摺峠までくると大きな岩があって邪魔になったので、錫杖《しゃくじょう》の先ではね飛ばされると、ここへ飛んできて、道ばたへ突き立ったという。
 その後、この岩に大蛇が住んで道を通る人を取って食うので、中奥谷の人たちはたいへん困っていた。黙誉上人という坊さんが、
 「それは気の毒だ。わしが退治してやろう。」といって、この大蛇を岩の中へ封じこめてしまった。そして岩の頂に小松を植えて、
 「この松が枯れたら出てもよいが、枯れない内は出ることはならん。」といっておいた。それから人々は安心して通れるようになった。ところが、この松が昭和二十八年の十三号台風で根から飛んでしまって今はないが、枯れたのではなく、飛んでしまったので、今後永久に出ないだろうといわれている。 (上野恭雲)


● 片目の蛇 吉野郡川上村枌尾《そぎお》
 川上村の、バス駅白川度から東方二キロ、中奥谷の入口にある栃尾垣内《とりおかいと》に、正覚寺という寺がある。その寺に二メートルあまりの片目の蛇がいる。一五〇年ほど前、この寺に黙誉上人という和尚が住んでいた。この和尚は川上村第一の高峰、白髯山の主、白髯明神の変身といわれた傑僧で、念仏と読書で一生を送ったが、死期がせまったある日、檀家の人を集めて、
 「わしは今日から五日目に死ぬが、わしが死んで四十九日の中陰が明けたら、必ず片目の蛇となってこの寺に住むから、片目の蛇を見たら殺さないで、わしだと思ってたいせつにしてくれ。」といった。はたして和尚は五日目に死に、満中陰がすんだころから、どこからともなく一匹の青大将が出てきたが、片目であった。今でも村の人は、この片目の蛇を黙誉上人の生まれかわりだといって大事にしている。
 (上野恭雲)


● 胡瓜《きゅうり》を作らぬ家 吉野郡川上村枌尾
 枌尾の中枌という家では代々胡瓜を作らない。その先祖が、ある日、川で馬に行水を使っていると、一匹のガタロが出てきて馬の尻に吸いついた。ガタロは胡瓜が好物だということを思いだして、
 「どうぞ馬を助けてくれ。そのかわりに胡瓜をお前に上げさしてもらうから。」
 「よし、それでは許してやる。忘れるなよ。」といって姿を消した。それからここの家ではガタロにあげたのだからといって胡瓜を作らないことになった。三十年ほど前、ここの畑へ、どこからか種子がとんできたとみえて、胡瓜が自然生えしたことであった。自然生えならばと思って、そのままにして置いたら、まもなく家人に病人がでたので、驚いて、それを抜いたら病人は全快した。
 また、吉野川全体でいうことだが、川へ鮎やウグイ・アメノウオなどを取りに行くときは、胡瓜を食べて行くと決して魚は取れないという。それはガタロは胡瓜の香を慕ってやってくるから、魚類が逃げてしまうからである。 (上野恭雲)


● 捨て地蔵 吉野郡川上村瀬戸
 中奥谷の瀬戸の入口、安養寺境内の旧校舎に、捨て地蔵というのが、安置されている。六〇センチほどの木彫立像で厨子の中におられる。護良親王が伊勢と大和の境、麦谷峠で病気になられるまで、笈《おい》の中に入れて背負っておられた地蔵で親王の念持仏であった。しかし、病を得てあともどりをされる時、重いので笈ぐるみ峠へ捨てておかれたのを、村人があとで持ち帰って寺へ安置したものである。近郷の人々は瀬戸の捨て地蔵といって尊信している。厨子と一緒に笈も保存されている。 (上野恭雲)


● 御塔神社 吉野郡川上村中奥小字奥瀬戸
 川上村の県道白川度から中奥谷へ入り、さかのぼること約一五キロで奥瀬戸へ着く。ここに中奥区の御塔神社がある。俗にオトサンと村人は呼んでいる。大塔宮護良親王が吉野山で村上義光《よしてる》を残して、賊徒に追われながら高野山へ落ちのびられた。途中、川上郷で道を間違え、この中奥谷に入られ、伊勢との境の麦谷峠まで行かれた。
 しかし、病を得て大塔神社の地までもどり、ここで御養生の後、神社より一キロ奥の、川に添うた高さ九メートルもある絶壁の上へ隠棲せられたと伝えられる。この絶壁には筍のような巨石があり、三、四〇メートルもあって、下から見上げると天につきでて奇観を呈している。村の人はこの巨石をトウサンといっている。頂上には大塔宮が飼っておられた金魚が、いまでも泳いでいると信じられている。
 また、大塔宮が瀬戸奥の川でご休憩の時、持参の三杉石という七センチほどの黒い石を、誤って川底へ落とされた。その後、某が川岸を通った時、現在の三杉かまどの水中に黒色さん然と光を放っているものを発見、不思議に思って拾い上げて持ち帰ったが、これが三杉石であったので、この御塔神社に祭った。
 また、大塔宮は、背負ってこられた笈を瀬戸の安養寺へ預けて置かれた。笈の中には黄金の地蔵菩薩立像があったので、改めて安養寺の本尊にしておまつりした。
 (上野恭雲)


● 御座磧《ござがわら》と舞場《まいば》 吉野郡川上村柏木・神之谷
 柏木と神之谷との間に吉野川にかけてある御座橋の上流の河岸を御座磧という。自天王が殺させられた翌長禄二年の二月五日から寛永二年まで一七〇年間、川上郷が一団となって毎年御朝拝を営んだところである。
 その神之谷側を舞場と呼んでいるのは、この挙式の時に舞楽を奏したところであるという。 (上野恭雲)


● 抛げ地蔵 吉野郡川上村神之谷
 昔、役行者が大峰山を開いた時、金峰山にこもって、末世の衆生を利益する尊像を造りたいと三世諸仏に祈願されると、満願の日に地蔵尊が出現した。行者は、こんな柔和忍辱《にんにく》の相では末世の衆生を済度できないと、その尊像をとって、はるかに投げつけた。ところが後に、暗夜に光明が輝いたので、この神之谷へこられると、地蔵尊が大かごに乗り大岩の上に立っておられた。行者は喜び、丹誠をこめて、石楠花の大木で地蔵尊を刻み、本堂を建てて安置した。これが金剛寺の地蔵尊で、役行者の抛げ地蔵といわれる。 (上野恭雲)


● 川勝様 吉野郡川上村入之波
 昔、入之波《しおのは》に辻本某という人があった。ある日、川でガタロに出あって、すもうをとって勝った。その時の約束で、それから毎日、朝起きるとザルに一ぱいの魚を持ってきて上がり口に置いてある。何年かたって、ある女の人がきて、そのザルをほかしてしまった。それからもう魚を持ってこなくなった。
 また、そのすもうに勝ってからはナガト(入之波と柏木の中間にある地名)から上にはガタロは住まないことになった。それで入之波では夏でも水死する者はない。ガタロに尻を抜かれないからである。
 その後、この部落では辻本某の功を忘れないため、川勝様(川で勝ったから)という石の記念碑を建てて、毎年一月二十日にお祭をし、御供まきをすることになった。辻本某の子孫の家もあるという。 (上野恭雲)


● 倉を建てられぬ村 吉野郡川上村入之波
 五〇〇年昔、御南朝の自天王が殺された翌年から、今日まで続いている川上村独特の御朝拝の儀式は、最初は柏木・神之谷間の吉野川の磧《かわら》(現在の御座磧)で行われていたのであるが、寛文年間から各大字で輪番制で挙式することになった。それで、御朝拝にまつる宝物類や用具類は、その年の当番大字が責任をもって一年間保管する定めとなった。
 たまたま入之波区に当番の年に、不幸にして火災の厄に見舞われて、宝物用具の大半を焼失させた。そのため村の申し合わせにより、一、火災の年より六〇年間は御朝拝の式典に参列させないこと、二、今後永久に倉を建てることはまかりならぬこと、の二つの制裁を受けたのである。それで現在、入之波は、朝拝式典の参列は六〇年経過したので参列しているが、倉はどの家にも建てていない。
 (上野恭雲)


● 二股の柵と獄門平《ごくもんだいら》 吉野郡川上村入之波
 大台ヶ原山のふもと、筏場より東方四キロ半、吉野川の上流の本沢川と北股川の合流するところを二股といい、御南朝の王、自天王が三ノ公《さんのこ》におられたころ、柵のあったところである。皇居を守る武士は、ここに関門を設けて道行く人を誰何《すいか》した。ある日、武士が通行の土民を勘門《かんもん》したところ、かねて土民に教えてある合い言葉を知らず、答えのできない者が六人あった。武士はこれを捕らえてごうもんすると、かれらは幕府の命を受けて神霊を盗みに潜入したことを白状した。そこで、これを三ノ公川の川原で斬首し、その首を二股の柵にさらした。その斬首した河原を、村人は今も獄門平とよんでいる。
  (上野恭雲)


● 明神の滝と隠平《かくしだいら》 吉野郡川上村入之波
 八幡平から約四キロ東へ進むと明神の滝がある。水量は多くないが、箕面の滝の二倍ぐらいの高さがある。滝壺の前に高さ一〇メートルぐらいの巨岩があり、その上に明神が祭られている。明神とは万寿寺宮のことである。
  この滝から東北約一キロに隠平がある。北朝方から入りこむ間者の暗殺をおそれて、かくれ住まれた場所である。八幡平の御所は吉野から伊勢に通う間道に面して危険だが、ここは間道からはずれた深山で、ここからは伊勢へ抜けられない。
 (上野恭雲)


● 伯母峯の一本足(1) 吉野郡川上村
 大和の傳説の北山谷は山上ヶ岳の東側であるが、この谷は伯母峯を境に、北の川上谷と南の北山谷とに分けられる。伯母峯は高い峠で標高九九一メートルである。
 ある時、峠の北八キロばかりのところにある柏木の猟師が、この山へ狩にでて一本足の化物に出あった。そうして鉄砲弾をいくつもうったが、どうしてもあたらない。最後に南無阿弥陀仏と彫りこんであるイノリ弾をうつと、一本足は倒れた。
その時、「このことは他言するな。」といった。猟師がふもとまで下りてくると、茶屋の者が、さきほどしきりに鉄砲の音がしていたが、どうしたことかと聞いた。はじめのうちは何でもなかったようにいってたが、問いつめられて、ついに本当のことをいってしまった。さて自分の家まで帰って入口をまたぐと、ぱたりと死んでしまった。 (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)


● 巴《ともえ》が淵 吉野郡川上村
 吉野川の水ナ上を大台ヶ原といって、ここに巴が淵という淵があり、これが吉野川・熊野川および伊勢の宮川など、三大河の水ナ上になっている。この淵の周囲におびただしい藤が生い茂っていて、西風が吹けば藤葛で淵の水を東の方に払い送って宮川の水が出、東風が吹けば吉野川の増水となり、また北風が吹けば熊野川の水かさが増すといわれる。であるから現在でも東風が吹けば。雨も降らぬのに吉野川の水がにわかに増水するのに変わりはない。(吉野山独案内による)

 また、いかほど雨量が多く降っても、風が添わなかったら、吉野川の増水もたいしたことはないといい伝えている。 (野村伝四)


● 伯母峯の一本足(2) 吉野郡上北山村・川上村
 大晦日の晩に伯母峯を通ると、一本足の馬が出て人を食うから、その晩だけはここを通ることができないという。 (中尾新緑)


● 一本足の老婆 吉野郡川上村伯母谷
 吉野・熊野を結ぶ観光ルートの高峯、海抜一千メートルの山頂の伯母峯(伯母子峰とは別)は、伯母・叔母・姨《おば》・姥《おば》の字が使われる。泣く子もだまるという怪物一本足の老婆は、毎年十二月の二十日ごろに出るといわれている。この一本足の化物を撃ったという鉄砲は、いまも北山郷の井場氏の家にあるといわれ、この負傷した怪物が有馬温泉へ湯治に行ったというのと、湯の峰温泉へ行ったとの両説があり、またこの時から一本足になったともいわれている。 (乾健治)


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