● 松兵衛の亡霊 吉野郡上北山村小橡《ことち》
 今から二百年前、境界問題で、北山領の小瀬(現在の小橡は明治九年、小瀬と橡本が合併)と川上領の北和田・白川度の両部落とが争った。
 川上領の方は、吉野川と北山川の分水嶺《れい》である伯母峯を四キロも超えて、二の又出合までが領地だと主張し、これに対し小瀬の人たちは抗議して、奈良奉行所で訴訟になった。
小瀬の総代の松兵衛は奉行からの呼び出しにより、何回も出頭して意見をのべだが、ついに敗訴となった。松兵衛はこの不公平な裁判に憤慨して自殺してしまった。 一方、北和田や白川度の人たちは、伯母峯を越えて二の又出合の方まで新領内へ出稼ぎに出かけるようになったが、弁当を開くと飯がなくなっていたり、百足虫《むかで》が気味悪く動いていたり、断崖から落ちたり、木の下敷きになって死んだり、不吉なことが多く続いた。こんなことは川上領の人にだけ起きるので、だれいうとなく、これは松兵衛の亡霊がたたっているのだといいだした。それで川上領からの出稼ぎは後を絶っていた。
 明治八年、地券改正の時、川上領にすぐれた人があり、このくいこんだ地域を手放すことを住民に納得させ、小瀬村へ買収方を申し込んだ。北山の方はこれに応じ、大枚壱円を出してこの話が成立し、以後北山領となって今日に及んでいる。
 それからは、北和田や白川度あたりの人々がこの山へ働きに行っても、変事が起こらなくなり、これは松兵衛の亡霊が浮かんで満足しているからだと話し合うようになった。
 北山宮のお墓から一キロあまり大台ヶ原の方へよったところに向田戸という小字があり、そこには松兵衛の宅地跡が現存している。 (岸田文男)


● 源十郎橋 吉野郡西吉野村和田(旧吉野郡賀名生村和田)
 和田の中ほどに、南の山腹から丹生川に流れる小川があり、そこに源十郎橋という石橋がかかっている。昔、この村の辻内家の先祖に源十郎という快男子があり、天成の大力と豪勇に恵まれた熱血漢であった。ある年(明和三年という)のお祭の日、村の若者が総出で、山腹にころがっている一枚石をみんなで運んできて、小川の橋にしようということになった。
 「四、五十人なければとても動くまい。」というのを
 源十郎は横合いから、「やってみようじゃないか。」といった。どうしてやるのかとみんな不思議に思ったが、源十郎は、
 「二十人で一方をかついで。一方をわしひとりでかつぐ。そしたら動くだろう。」といった。その通りにして石を縄で結び、太い杉の木を通し、石の前方を二十人の若者が、うしろは源十郎ひとりが肩をかけた。
 二十人がかけ声と共にかつぎあげると、同時に源十郎もひとりで一方をかつぎあげた。
 源十郎の声で二十人は静々と歩いて、小川の上に石がきた時、それをおろしてこの石橋としたといわれている。現在のものは、当時のものより数片かけて半分くらいになっているというが、それでも源十郎橋といわれて、その大力がしのばれている。 (平野源十郎伝記による)


● 姿見の井 吉野郡西吉野村黒淵(旧吉野郡賀名生村黒淵)
 旧賀名生村の黒淵の常覚寺、普賢菩薩をまつる寺に姿見の井というのがあって、参詣者はみな試みに自分の姿をうつして見る。影がはっきり映らぬ者は死ぬといわれている。(郷士研究による)


● 女の通れぬ道 吉野郡西吉野村(旧吉野郡賀名生村・宗檜村)
 後村上天皇が賀名生へおいでになった時、堀氏のお宅を行在所にせられて黒木の御所といった。天皇はよく明石《あかせ》のお寺へ遊びにおいでになられたという。その道は今も残っているが、女が歩くと火の雨が降るということである。明石の寺は虚空蔵が祭ってあるが、その寺の屋根には菊のご紋がついていた。
 (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)


● 乙姫淵 吉野郡西吉野村黒淵(旧吉野郡賀名生村黒淵)
 賀名生と城戸の間に黒淵というところがある。黒淵は「淵が四十八淵、森が四十八森」といわれた。森というのは墓場のことで、四十八軒の旧家に一ヶ所ずつの墓地があった。
 この黒淵は四十八淵の中に乙姫淵というのがある。その淵の底には美しい乙姫が住んでいるという。ある朝、ある百姓の戸がコトンと音がして、
 「音がしてもあけるな、また姿も見るな。」といって、家の中へ金を入れていった。それから毎朝お金を入れていく。家の者は何故であろうと思って、とめられたことではあるが、戸のすきまから見ていると、乙姫が魚釣竿をかついで、お金をもってきて、おいて行った。しかし、そのつぎの朝からこなくなった。
 この淵には鏡石といって、すべっとしたきれいな石がある。これで乙姫が姿見をするのだという。 (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)


● 南山の稲荷 吉野郡西吉野村南山(旧吉野郡白銀村南山)
 旧白銀《しろがね》村の南山に稲荷さんをまつってあるが、これは白銀岳の神様が乗り移ったのだという。ここの餅つきには用心せぬとたたりがあるといい伝えてある。ある時、餅をつくとて、水に浸してある米をあげるのに、家の娘が米に触れた。その翌日、いまから餅をまくというときに、一天にわかにかき曇り、すぐにも大雨が降りそうになったので、村の者はみんな逃げ帰った。それで今でも女はいっさいさわらぬことにしている。 (更家芳雄)


● 畠山の刀 吉野郡西吉野村(旧吉野郡宗檜村)
 旧宗檜《むねひ》村の畠山氏は元来武士であった。ある日、先祖がその刀を竿にかけて置くと、刀が蛇になって竿にまきついているので、気味悪く思い、刀を山の中に埋めた。これを聞いた村人は惜しいものだといって、ひそかに堀り出しに行った。すると大雨がにわかに起こって、ついに掘り出し得なかった。その後、たびたび試みたが皆失敗におわり、刀は元のところに埋まっている。 (辰巳薫)


● 天降りの地蔵さん 吉野郡西吉野村茄子原(旧吉野郡宗檜村茄子原)
 茄子原《なしはら》に龍泉寺という寺がある。本尊は地蔵で、毎年東祭という祭りがある。この地蔵は日本にただ三つある地蔵だといわれている。昔、龍泉寺の坊さんの夢に、ここの山の上に地蔵が天から降りてこられたから、さっそくお拾い申せ、ということであった。夜が明けてから坊さんは山に登った。夢にたがわず地蔵がおられたので、拾い上げてきて、寺におまつりすることにした。 (井田清)


● 宗檜《むねひ》の宮屋敷 吉野郡西吉野村立川渡(旧吉野郡宗檜村立川渡)
 旧宗檜村立川渡のずっと空の方(川の両岸が急傾斜になっているので、山の方を空の方という)に宮屋敷があった。そのあたりの木には皆ヒバが生えているが、これは弘法大師が木の葉をもんで立木に投げつけたのが、引っついてしまったのだという。
 宗檜の宮は、はじめここにあったのが、ある時それを村々へ分けることにした。そこで村によっては板をもらったり、幕をもらったりして裸体とした。古板の宮とか、箒の宮とかいっている。本社は今も立川渡にあるが、空の方では不便だというので、今は谷底へ移されている。 (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)


● ハハドコロの薬師 吉野郡西吉野村陰地(旧吉野郡宗檜村陰地)
 陰地のハハドコロという家へ、昔、八幡太郎が落ちてきて、上段の間にかくれていたということである。その時、はりこの薬師をこの家へ置いて行った。行く時、
 「この仏はいつまでもここへおいてくれ。この家へおくと家が栄えるが、他の家へ行くと、不具の子ができるから気をつけるがよい。」といった。ところがその後、ハハドコロの家は衰えて、この仏を質において金を借りたことがあった。しかし、うけ出す力もなかったので、そのまま質を流してしまった。仏はそれからまた人手をくぐって、ある日、旦那衆の家へ行った。すると、ハハドコロの家では三代続いて不具者が出た。どうしたことであろうと、ミコに見てもらうと、質流れの次第がわかった。そこでさっそく相手方の旦那に話して引きとり、お迎えして祭った。それからは変わったこともなくなった。この薬師はよほど変わった仏様で、きげんのよい時は、前の方を見ていなさるが、悪い時は背中を向けているという。
 (宮本常一著・吉野西奥谷民俗採訪録による)


● 義経天へ上る 吉野郡西吉野村(旧吉野郡宗檜村)
 旧宗檜村と南隣の天川村との境に乗鞍(九九三、四メートル)という山がある。 北側から見ると三つ高い尾が並んでいるが、昔、源義経が狐四十と天狗四十七とを連れて、白馬に乗ってやってきて、この三つの尾の一番高い中の尾から、馬を乗りすてて天へのぼったという。この山には今も狐が多いが、ここの狐は憑かぬという。 (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)


● 賀名生の衣笠の少将 吉野郡西吉野村(旧吉野郡賀名生村)
 賀名生の奥に衣笠の少将というところがある。ここには黄金がたくさん埋めてあって、正月一日の朝、金の鷄がなくという。もと、城があったとのことである。いま、大きな檜が残っている。(宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)


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