● 鳥栖《とりす》地蔵 吉野郡黒滝村鳥住
 鳥住《とりすみ》峠の頂上堀割の北側に、南面して地蔵尊を祭る小堂がある。この本尊は弘法大師が三国の土を集めて作ったという霊像で、つぎのような物語がある。
 鎌倉時代の末、正応年間、洞川村に皿屋《さらや》佐平次という者があり、夫婦仲もむつまじく、一子小平太の成長を楽しみに暮らしていたが、神童といわれた小平太は十六歳にして亡くなった。両親の嘆きは一かたでなかったが、佐平次は妻を呼んで、
 「いつまで嘆いていてもせんないこと、拾い世間には小平太に似た子もいるであろう。どうかして探し求めてわが子と頼み養育しては。」と語ると、妻も賛成し、そこでふたりは諸国巡礼の旅に立った。讃州(香川県)志度寺で一夜の宿をとって、まどろむ時に、
 「佐平次よ、おまえは小平太に似た者をさがしているが、なかなか得難い。それよりも速く鳥栖山地蔵尊をまつるがよいぞ。」と観音のお告げがあった。そこで、ふたりは故郷へ帰って鳥栖山の地蔵尊を拝すると、わが子小平太の面影さながらの慈顔である。なつかしさのあまり、ふたりはかけよって尊像を相抱いて随喜の涙にむせんだ。佐平次は法名を道偏と改め、お堂を建てておつかえしたという。
 (福島宗緒)


● 義人六助 吉野郡黒滝村鳥住
 元禄の頃、百足嶽《むかでだけ》の付近で、鳥住村が吉野山と境界争いをしたことがあった。鳥住の人は無骨な気風があり、多勢をたのむ吉野山にも負けておらず、互いに鉄砲を潜ませ、刀槍を横たえ、山上には塁《るい》を築いて一昼夜対陣した。翌朝、鳥住村の塁の前の杉のこずえに、うごめく怪物を発見した若者が、やにわに鉄砲をとって火ぶたを切った。ところが、それはこちらを偵察していた吉野山のひとりであった。ついに、この事件は奉行所へ持ちこまれた。かねて訴願中の境界争いは鳥住村の言い分が通って勝訴になっていたが、鉄砲を持ち出し人を殺害するとはふらち至極だから、下手人を引っ捕らえてさしだせということになった。さしださぬときは庄屋・年寄・百姓総代らを奉行所へ引っぱるというのだからたいへんである。庄屋の家で村中大評定している時に、六助が、
 「他国者ながら、日ごろ皆さんのご親切にご恩報じのつもりで、この罪を引き受けさせてもらいましょう。」と申し出た。そして言葉をつぎ、
 「わたしはひとり身で、国にも何の係累もなく、思い残すことはありません。もちろん打首は覚悟の上で奉行所へ出ましょう。わたしが死んでも霊魂だけはここに留めたいから、だれか世継ぎを選んで家名を残してもらいたい。」といった。六助の生国は芸州(広島県)、杣職を渡世とするもので、十年あまりも鳥住に住みつき、山仕事を引き受けて重宝がられていた。六助は吉野磧《がわら》で処刑されたが、最後の願い通り、六助の跡目をつぐ若者が西光寺の境外墓地に義人六助の墓も建っている。 (福島宗緒)


● 篠原殿 吉野郡大塔村篠原
 足利時代のことだというが、篠原という武士が篠原へやってきた。村人はおとなしいかれを篠原殿と呼んで尊敬していたが、やがて傍若無人なふるまいをするようになったので、たまりかねた村人は川相撲を催してかれを招待し、策略によって一挙に殺そうと考えた。そこで村人は篠原殿の見物席として木と竹を組んだ桟敷《さじき》をつくり、止木をはずすと桟敷全体が一瞬にしてこわれるように仕組んだ。
 さて川相撲の当日、篠原殿は桟敷の中で飲酒していたが、めいていするのを待って、止木をはずしたので篠原殿は碧?《へきたん》の中へはまりこみ、かれのからだから流れでる血潮で水はまっ赤になった。絶体絶命になった篠原殿は虫の息ながら、平素の暴状をわびた後、
 「部落から川瀬峠に登る道の途中に、大きな岩壁の中に穴があり、その中に金の銚子と金の盃とを隠して、外から岩の蓋をしておいたが、その蓋の裏に刻んだ文字を読んだ瞬間に蓋が開くようになっているから。この二品はそれの解読できた者に与える。」といって息が絶えた。
 それ以来、村人はこの品を得ようと努力しているが、いまだに見あたらない。
 この部落はそれまでは川瀬といったが、篠原殿以来は篠原といわれるようになった。しかし、いまだに川瀬でもとおっている。 (岸田文男)


● 篠原踊り 吉野郡大塔村篠原
 昔、この地に多くの獣がすんでいたころ、一匹の大きな狼がいた。村人の被害が頻々と起きたので、大評定の末、狼退治をすることに決定した。当日、壮者が親子の水盃の上、山深く分けて入ったが、狼の姿は見あたらず、疲れ果てて木の根角に腰をおろして休んでいた。すると、突然現れたのはこの恐ろしい狼があった。狼はたちまち指揮者を食い殺して姿を消したので、村人は意気消沈した。被害はますます募るので、ふたたび評定の結果、村人長老の建言で氏神の前で村中総出で踊り、神慮を慰め奉って狼退治の成功を祈願した。その霊験により、ほどなく、さしもの狼も退治されて村は平静にかえった。
 この氏神にいのったのが正月二十五日であったので、それが例となって、今でも旧正月二十五日には鎮守の森で踊りが催される。これを篠原踊りといい、「梅の古木」「宝踊り」「世の中踊り」など四十八種もある。(岸田文男)


● 氏神のご神体 吉野郡大塔村篠原
 篠原の氏神のご神体は非常に霊験あらたかである。昔、寺垣内の火事のとき、社のご神体が見えなくなっていた。皆が探したが皆目わからぬ。ところが、村のうしろの鋸山《のこぎり》にご光がさしているのを見かけた。変に思って行ってみると、ご神体があった。そこでさっそくお連れ申した。ご神体は木像で、下の箱に鋸と斧がはいっているという。 (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)


● 岩よけ地蔵 吉野郡大塔村篠原
 百年も昔、七日七夜地震がゆり通したことがあったという。その時、六畳敷もある大きな岩が、山の上からころげ落ちてきた。それが家と家の間を縫うようにころげていって、家はこわさず川へ落ちた。そのほかにも大きな岩がいくつも落ちたが、家はこわれなかった。これは家の上の方に地蔵が祭ってあって、そのお陰だといわれた。今も祭っている。 (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)


● 村を守る氏神 吉野郡大塔村篠原
 平という家の婆さんは金持ちであった。沢田屋嘉門という者の孫に孫兵衛という者がいて、バクチにまけて金に窮し、顔を黒くぬり、金をぬすみに行った。すると婆さんが大きな声を出したので、婆さんを殺してしまった。そこで孫兵衛一族は村払いになって、紀州(和歌山県)の富貴へ行った。孫兵衛は村の者を逆うらみして、村を黒土にするとて、村を焼きに来たが、お宮のところまでくると、まっくらになって動けなくなってしまった。そこで引き返したという。
 (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)


● クサビラの予兆 吉野郡大塔村篠原
 ある家にユルリ(イロリのこと)でご飯をたいていた。木をユルリにくべると、どうしたのか、どんどんクサビラが生える。それがしかも火ツボ(火のもえているところ)の中に生えるので、不思議に思って、見る人に見てもらうと、ツガの木が倒れるか、岩がまくれるかして、山小屋が倒れて死ぬるしるしだという。そこで祈祷して災いを伏せてもらった。その後、ツガの木を切っていると、まさしくそれが山小屋に倒れかかって小屋がくずれた。しかし、祈祷のおかげで怪我はなかったという。 (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)


● 五色の涙 吉野郡天川村五色
 ある富貴なお方が塩野の五色谷においでになった。殺さねばならぬことになったが、富貴なお方だからだれも殺すことはできない。幕府の命令で、やむなく五条の代官が殺しに行った。そうして、
 「殺すのはお気の毒だが、わたしは申しつかってきたので、どうぞ殺されていただきたい。」
というと、そのお方はこれを許された。しかし残念の涙を流された。その涙が五色に流れたという。今もひでりの時、五色の水が流れるということである。
 (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)


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