● またたびの実 吉野郡野迫川村池津川
  平の常喜院に、もと付近の平等寺にあった地蔵菩薩の木彫座像がある。いま子守地蔵と呼ばれている。明治二十年ごろ、修理のため高野へ負うていった。途中で水ガ峯に荷をおろして休んでいたところへ、紀州(和歌山県)アイノウラの人というのが、のぼり合わせた。聞くと、その家の人が難産で困っており、急いで高野山へ祈祷してもらいにいく途中だという。これが子安地蔵だということを知り、それはまっやくお引き合わせだというので、高野行きをやめ、この尊像に持参のごぜんを上げて拝み、そのおさがりをたずさえて、よろこんで帰っていった。おかげで安産したという礼状が、その後平の村へ着いたという。
  (高田十郎著・随筆山村記による)
● 大塔宮ご用の盆 吉野郡野迫川村中津川
 中津川に上辻という家がある。その家にまる盆十枚と、高さ一・五センチぐらいの不動像とがある。ほかに刀と文書もあったが、先代の時、他へ出してしまった。不動像は大塔宮の守り本尊で、まる盆は宮のご用の品であるという。盆のぬりは十枚十色で、それにモミジとかハギとか、四季の花木の模様があり、「天皇の盆」とよんでいる。 (高田十郎著・随筆山村記による)
● 立里は宇治の茶の元祖 吉野郡野迫川村立里
 立里は宇治の茶の元祖といういい伝えがある。立里には、今も山野いたるところに茶の木が自生しているが、昔は茶の製造が盛んで、他にまだ開けておらず、かの宇治からも職人として働きにきていた。
 宇治の人々が帰るときに、茶の実をもらっていきたいと請う。商売を取られてはならぬと考えて、ひそかに実を蒸して売り渡したけれども、中に蒸しもれのものがあって、茶が宇治にも移り、ついに今の通り繁昌してしまったという。
 また、一説に、はじめからそんな悪智恵をしたのではない。正直に生実を渡したのだが、お株を取られてから、あの時蒸して売ればよかった、と後悔したのだともいう。 (高田十郎著・随筆山村記による)
● 雨乞淵と牛鬼淵 吉野郡野迫川村池津川・中津川
 池津川から中津川にいく間に、雨乞淵というのがある。釣竿とかヤスなどでその水をイラうと、必ず雨が降る。現に雨乞いのためそれをやって、帰り途でズブぬれになった覚えのある人があるという。
 その下流で牛鬼という淵がある。その一方にタラヒ淵、他の一方にオロというところがある。オロとは、牛の厩《うまや》の入口に施す横木のことで、淵の口が両方からせばまり、いろいろさがして、ついにこの淵の所まで来ると、意外にもその牛がその一方の岩の上にいた。しかしまったく牛の行ける所でない。「牛の鬼」だったのだろう、というので、この名が出たと伝えられる。
 (高田十郎著・随筆山村記による)
● 盲人の念力 吉野郡野迫川村中津川
 前話の「牛鬼」の上に、道が通じている。昔、七人連れの琵琶法師がとおりかかって、淵の上で休んでいた。前にトチの大木があったが、その実が落ちて、ひとりの盲人の頭にあたった。その盲人は大いに腹を立てて、「一たい何者のしわざだ。もし人間なら命がない。また木のしわざなら、来年ここにくるまでには、キッとからしてやる。」と歯をくいしばってのろいたてた。はたしてその後、翌年までに、そのトチの木は枯れたと伝えられる。(高田十郎著・随筆山村記)
● 子供と遊ぶ八幡宮 吉野郡野迫川村池津川
 これも池津川のことだが、明治の末頃、ある人がふと見ると、村の子供らが八幡宮のご神体を持ち出し、河野水につけて洗ってさわいでいる。もったいないことをするというので、ひどくしかりつけ、元の通り社殿に納めた。ところが、その夜、その人は急に腹痛を起こし、苦しくてたまらぬので八幡さまに祈願した。すると夢に八幡大菩薩が現れ、
 「せっかく面白く子供らと遊んでいたのに、いらざる邪魔をして。」
とさとされた。恐れ入って、さっそくおわびをしたら、はたして腹痛はおさまったという。(高田十郎著・随筆山村記による)
● 立里の槇地蔵 吉野郡野迫川村立里
 池津川の勝屋太郎左衛門のことを、立里では勝手太郎右衛門といっている。太郎左衛門ははじめ、弟某とふたりで今の野迫川の北部に来て、兄は池津川の村を開いた。そして、
 「お前もどこぞへ行って開け。」
といって弟を追い立てた。弟は急いで立って行き、今の立里村を開いた。「立っていって開いた里」だから立里とよばれる。
 兄太郎右衛門の墓は池津川にあって「権現さま」といわれ、弟の墓は立里の平尾氏の持山にあって「槇地蔵」とよばれている。もっともそれは地蔵像ではなく、一基の宝篋印塔《ほうきょういんとう》で、応永五年の銘がある。それが少し池津川の方へ傾いているのは、弟が兄の所へ行きたがっているからだという。
 (高田十郎著・随筆山村記による)
● 立里の阿弥陀像と向かい山 吉野郡野迫川村立里
 立里の阿弥陀寺の本尊は四・五センチほどの立像であるが、極めて尊い作である。かつてこの寺が炎上したので、本尊を高野の本能寺に預けてあった。明治二十七、八年ごろ、寺の再建ができたので、村から高野へ本尊を迎えにいった。ところが迎えて帰ると、ところの老人が見て、これはちがうという。驚いてまたとり換えにいく。高野では平気な顔をして、わかっているのなら本物をやろう、実はあまりにも結構でもったいないから、わざと別の品を渡しておいたのだ、との挨拶。改めて元の本尊を出してくれた。すなわち今の本尊である。
 その後、明治三十七、八年ごろになって、学校維持費を設けるために、非常の処置として、この阿弥陀像か、共有の「向かい山」か、いずれかを売らねばならなぬことになり、毎夜協議の結果、「向かい山」を六百円で手ばなすことになった。
 (高田十郎著・随筆山村記による)
● 平の子安地蔵 吉野郡野迫川村平
 平の常喜院に、もと付近の平等寺にあった地蔵菩薩の木彫座像がある。いま子安地蔵と呼ばれている。明治二十年ごろ、修理のため高野へ負うていった。途中で水ガ峯に荷をおろして休んでいたところへ、紀州(和歌山県)アイノウラの人というのが、のぼり合わせた。聞くと、その家の人が難産で困っており、急いで高野山へ祈祷をしてもらいにいく途中だという。これが子安地蔵だということを知り、それはまったくお引き合わせだというので、高野行きをやめ、この尊像に持参のごぜんを上げて拝み、そのおさがりをたずさえて、よろこんで帰っていった。おかげで安産したという礼状が、その後平の村へ着いたという。
  (高田十郎著・随筆山村記による)
● 乳薬師 吉野郡野迫川村今井
 今井の高福寺の本尊薬師如来は乳薬師といって、乳や耳の病をなおして下さるといっている。この寺は無住であるが、もとは格の高い寺であったといわれており、本尊は弘法大師が一夜に造ったものだといい伝えられている。慈悲深い仏で、子供たちのあそび友達であった。子供たちは仏様の肩へのぼったり、膝にすわったり、時には首をひきぬいたりした。こうすると、仏様はかえってお喜びなさると信じられていた。首は、桑の木でできているという。
 (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)
● 泣き仏 吉野郡野迫川村今井
 高福寺には薬師如来の外に、もう一つりっぱな阿弥陀如来がある。これもたしかに国宝になっていると思う。この仏様はある時、国中《くんなか》の方の者にぬすみ出されたことがあった。ところが仏像が堂をふるわせて泣いたので、家におくことができず、またもとへもどしたという。
  (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)
 注 「文化財総目録」によれば、高福寺の木造阿弥陀如来立像は重要文化財になっている。

● 泣き阪 吉野郡野迫川村柞原《ほそはら》
 今井の近くに泣き阪というのがある。昔、弘法大師が、高野山に水がないのでよい水を得たいと思って、天川村坪ノ内の弁財天社へ通うた。これは弁天様が水晶の玉を持っていて、それがあるとよい水を出すことができるから、何とかして手に入れたいと思ったからである。しかし弁天様は手離す気がないので、大師はこれをぬすんで逃げ出した。すると弁天さんが追いかけて来た。大師はついに追いつめられたので、秘法を使って霧を吹いた。そこで弁天様は行くことができなくなり、泣く泣く引き返したという。なお、その引き返したところにたてたという柞原の弁天様の社殿は、高野の方を向いている。
 (宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)

● うしのむきの石塔 吉野郡野迫川村池津川
 池津川に「権現さま」とよばれる小さな祠がある。山のふもとを少し上がったところに、南向きに立ち、ご神体は小型の五輪石塔で、それがうしろ向きに立てられている。この五輪塔は勝屋太郎左衛門の墓で、この人は今の「池津川八幡の本尊」を負うてきて、この地に住みついた者という。墓のうしろむきになっているのは、これがもし正面に向かっていると、昔、武士がその前の道を通る時には、必ず太刀を脱して左手にさげ、頭をさげていかねばならなかったし、また、百姓が「こえタンゴ」などのきたない物をになって通ったりすると、必ずけがをしたり、腹痛を起こしたりした。それで昔から、うしろ向きにしてあるのだという。八幡さんは今は立里荒神の境内に合祀されている。
(高田十郎著・随筆山村記による)
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