● 高石権守の墓 吉野郡十津川村井ノ岡
 井ノ岡は十津川村の支流神納《かんの》の上流で、どこへ出るにも一二キロもある。そこに一基の石塔があって(宝篋印塔らしい)高石権守の墓と伝えている。二〇年ばかり前、十四人の者が集まり、底に何かあるか見ようとの計画で、その石塔を取りのけ、下に詰められた小石を取りかけると、にわかにあたりの山がうなりだしたので、人々は逃げかえったという。(高田十郎著・随筆山村記による)
● 伯母子嶽《おばこだけ》の一本足 吉野郡十津川村
山上ケ岳の西、十津川の谷には伯母子嶽という山がある。野迫川村から十津川村の神納川へ越えるの峠で、もとは高野山から熊野への重要街道であった。標高一三四一メートル、上下二〇キロといわれた大峠である。この山にも一本足の話がある。
 昔、この峠に一本足という化け物がいて、美しい女に化けて出てきては災いをした。ある時、天野(高野山の西)の猟師が、この山で美しい女にあった。くせ物と思ったので鉄砲をうちかけると、女は手で弾をうけては投げ捨て受けては投げ捨てて、男にせまったきた。ついにたまりかねて、男は女に、
 「一週間の間命を貸してくれ。」と頼んだ。そうして帰って、天野さん(丹生都姫神社・高野山の鎮守神)に祈った。すると最後の日に神様が、二つ弾をうてと教えた。そこでふたたび伯母子嶽へ行き、女に向かって鉄砲をうちかけた。女は前のごとく受けては投げ受けては投げたが、最後に二つ弾をうつと、さすがの化け物も後の弾には気がつかず、当たってしまった。命をとろうとすると、女は助けてくれといった。そこで猟師は、
 「人の生命をとらねば助けてやる。」といった。女は、
 「もう決してそういうことはせぬが、全然とらぬと食うものがないから、果ての二十日(十二月二十日)だけは通る人の命をもらいたい。」
といった。猟師も一日ぐらいならよかろうといって許してやった。だから今でも、
果ての二十日には山へはいってはならないということである。
(宮本常一著・吉野西奥民俗採訪録による)
● 維盛の墓 吉野郡十津川村神納川
 神納川の西北岸、五百瀬(芋瀬・いもせ)は平維盛がいくさにやぶれてこの地に入り、姓を小松と改めて住んでいたといわれ、現在子孫の小松秀盛氏がいる。元屋敷は今は人手にわたっているが、ここを政所《まんどころ》といい、神納川の庄屋だった。なお家の前には、二、三百年はたっている四足門がある。維盛の墓は政所の裏の竹藪にあり、小さな祠がまつってあって、そのすぐうしろの朽木のうろが本物だということである。小松家は現在の秀盛氏が六十五代で、先祖代々の名前には盛の字がついたものが多い。
 また小松家には維盛の名刀と甲冑が伝えられるといわれ、この名刀を四足門の前にたって振ると、神納川の向こう岸で遊んでいる鹿が、ま二つに切れたという話が伝えられている。(山口最子)
● 腰抜《こしぬけ》田1 吉野郡十津川村神納川
 護良親王が熊野落ちをされたとき、錦の御旗を五百瀬の庄司にとりあげられ、そこで村上彦四郎義光《よしてる》が五百瀬の庄司を八間(十五メートル)もなげとばし、腰の骨を折って御旗をとりもどしたという話が伝わっている。そのなげとばした田を腰抜田といい、神納川の三反三畝(三十三アール)ほどの田であったが、明治二十二年の水害で埋まって、今はない。
 維盛の後裔という小松氏の話をきくと、五百瀬の庄司は小松の養い子で、過去帳に名前ものっているが、一段ひくくまつってあるという。墓地も一段下がったところにあるといって、小松の先祖の中に入れていない。(山口最子)
 ※● 腰抜田2 参照
● 内野の薬師堂 吉野郡十津川村神納川
 神納川内野の三笠山に薬師堂がある。薬師さんは七人の眷属を連れているといわれ、耳の神様である。耳が悪いとき願をかけ、治ったときは、耳石といって、まん中に穴のある石をあげる。この薬師さんは、昔、ふたりの六部が来て背負ってきたものだが、ここまで来た時、薬師さんが重くなり、ついてきた桜の杖がさかさまに根が出て大木になったので、薬師さんをここにおいて祭ることにした。その遍路さんが京都の内野の人だからとも、苗字が内野だったともいって、地名が内野になった。薬師さんの休み石といって平らな石がある。(山口最子)
● 三浦峠 吉野郡十津川村神納川
 昔、高野山から熊野へ通うた熊野街道に、三浦峠がある。この辺の普通の民家は四間(七メートル)に六間(一一メートル)だが、ここに九間(一七メートル)に六間の宿屋があった。ここの地名は、護良親王が玉置山から神納川に落ちてきてこの峠にさしかかったとき、あとからおくれて来た村上義光を、ミイラ(見えんか)といったから、三浦といい、義光を待っていたところを待平《まつだいら》といい、こしかけ石がある。(山口最子)

● 五百瀬の淵の河童 吉野郡十津川村神納川
 牛は八人力だが河童は七人力で一人力弱かったが、牛をひっぱりこんだという話が神納川にある。
 また、五百瀬の淵のまわりで中南の人が仕事をして、鎌か斧かを落とした。夜になって河童が夢枕に立ち、
 「子を産んで育てたいが、金物がおそろしい。」
といったので、それをさがして引きあげておくと、礼にアメノウオをとってきて、寝ている頭のねき(傍)において行ったという話しもある。(山口最子)

● 河童のくすり 吉野郡十津川村神納川
 河童は便所から毛の生えた手を出して人の尻を抜いた。その出した手を引っぱってとった人があった。河童は、
 「その手をかえしてくれ。」
といったので、とった人が、
 「抜けた手はつかないだろう。」
というと、河童は、
 「返してくれれば、それがよくつく薬を教える。」
といい、お礼にどこやらの岩の根に生えている金草《きんそう》というのを教えた。それが大塔の金草で、うちみやくじきによくきく家伝薬だという。
 (山口最子)

● 腰抜田2 吉野郡十津川村五百瀬
 村の中央にある芋瀬田は五百瀬の荘司の宅跡と伝えられているが、この田を一名腰抜田ともいわれている、元弘元年十月、護良親王が従者数人を従え、芋瀬の荘司の守る関所をすぎようとされたところ、荘司はこれをこばみ、
 「親王のにしきの旗か、近臣の首を出せ。」
 といったので、やむなく錦旗を与えて虎口を脱せられた。一行からおくれてこの関所にさしかかった村上義光は、荘司の家に宮の旗がかかげられているのを見て大いに怒り、関所の役人を前の田のなかにへ投げ飛ばして旗をとりかえした。役人共は腰の骨が抜けて立つことができなかった。その田を腰抜田と名付けた。
 (松本俊吉)※● 腰抜田1 参照

● 大蛇の住む滝 吉野郡十津川村杉清
 杉清《すぎせ》から西へ一・三キロ行くと滝の岡というところがある。ここは神納川がせばまって、両岸は高く切り立ち滝をつくっているが、上流から材木を流すときは、必ずこの滝壺の中にはいってしまう。そうした場合、滝の上にある弁才天を祭らぬ限り、壷に入った材木は一つもうかび上がらず、中に住む大蛇が全部とり押さえてしまう、と恐れられている。(松本俊吉)
● 大塔宮七后の塚 吉野郡十津川村川津
 村の西方川戸寺の畑の中にある高さ一メートルあまりの塚を、土地では「大塔宮七后神の墓」といっている。建武元年、大塔宮護良親王が足利尊氏のざん言にあい鎌倉に流された。この時、王妃七人は宮の跡を慕って十津川に下り、川津に住んだ。翌年、宮が鎌倉で殺され給うたのを聞いて嘆き悲しんだあげく、身を十津川本流に投じて殉死した。村の人びとはその遺骸をさがし求め、川岸の野に葬して塚をたてた。(松本俊吉)
● 赤松の矢竹 吉野郡十津川村内原
 吉野朝の文中年間のこと、賊軍の赤松某が後呂山で矢を切り、字熊谷から、王屋敷にかくれていた南朝の王子をうった。ところがその矢が道のかたわらに生い立って芽を出し、そののち青々と茂った。村の人はその竹を「赤松の矢竹」と呼び、その地を「古矢矢竹《こややたけ》の原」といった。内原から東方五キロのところである。(松本俊吉)
● 両天皇の社 吉野郡十津川村野尻
 南北朝の終わりごろ、元中年間、野尻の楠淵に不思議な光があらわれ、七昼夜光りつづけた。野尻と粉原の人びとが怪しんで水底をさがしてみると、十津川の上流天ノ川の五色谷で賊徒の難にあわれた長慶天皇の両の御手であった。驚いてていねいに葬り、社を設け、各々一手を村に祭ったため夜々の奇火は絶えた。のち郷民は野尻と粉原の天皇社をよんで両天皇といってあがめ、手の病にかかれば両社に祈願をこめた。(松本俊吉) ※● 国王神社 参照
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