● 池の神との争い 吉野郡十津川村山崎
 山崎の三神神社の主神は誉田別命であるが、もとは山崎の南の五台の池に祭ってあった。今から千年ばかり前、村中に悪い病気がはやり、五台池の水が赤黄色に変わった。村の人は怪しんで神に占うと、
 誉田別命の神さまを五台の地から他へ移せ。池の神と争っていられるためだ。」
と伝えたので、村人は直ちに今のところに遷座した。するとたちまち悪疫は治った。明治初年まで、村の中に悪い病気がはやると、池中の水が赤黄色に変わったという。(松本俊吉)
● えぼし岩 吉野郡十津川村小森
 小森の字明円《みょうえん》から一キロあまり南へ下った市ノ辿のかたわらに黒く長い石があって、村人はえぼし岩と呼んでいる。護良親王がお通りの時、烏帽子を石の端にかけられてお休みになったところと伝えられ、今でも毎年正月五日にしめ縄を張ってえぼし祭りを営んでいる。昔から牛や馬やけがれのある者は、回り道をして、その前を通らぬしきたりとなっている。(松本俊吉)
 

● 妙円尼とヒエの粥 吉野郡十津川村小森
 明円という集落は、南北朝の頃、京の都から落ちのびてきたひとりの女性が茅の草庵を建て、妙円という尼になって隠れ住んだ所で、その庵の跡には明治二十四年に建てられた墓石がある。
 その頃、この地をお通りになった護良親王が、ささやかな家に住む都落ちの尼僧のことを里人からお聞きになり、不思議に思ってその庵を尋ねられ、いろいろ物語をされると、計らずも親王の叔母であることがわかり、ヒエの粥を馳走になり、昔語りなどして一夜を過ごされたという。(松本俊吉)

● 仏倉の神様 吉野郡十津川村小森
 村の北東にある田喜神山の北側に仏倉という岩山がそそり立っているが、その岩山の中腹に、昔、神像を取り出しと伝える跡がある。今から数百年前、村人が腰をつないで大樹に身をゆだね、三丈(九メートル)あまり谷間に下ると、ようやくご神像の形を拝したので、おそれながら取り出して氏神社内にうつし奉ったという。
 (松本俊吉)
● 七人塚の由来 吉野郡十津川村小森
 嵯峨山に七人塚がある。護良親王の家臣七人が親王の行方を尋ねて小森まで来たところ、親王を守護して戦った片岡八郎が玉置の荘司のために折立の横峯で討死し、親王も五色谷から十津川の流れに水葬し奉ったと聞いて、びっくり仰天、今はこれまでと笠松山(嵯峨山の別名)で枕を並べ腹をかき切り殉死した。七人塚はその七勇士を葬ったところである。(松本俊吉)
● 長慶天皇のお足 吉野郡十津川村小原
 小原の平瀬神社は長慶天皇のお足を祭った社である。吉野で亡くなられた天皇のご遺骸は、天川郷の五色谷で水葬し奉った。その身体は離散したが、お足が平川の瀬に流れついたので郷民が拾いあげて十津川の東岸字平瀬に祭り、平瀬神社と申し上げた。(松本俊吉)
● 火難除けの百日紅 吉野郡十津川村重里
 重里の中央、字椎平にある左海義広の墓には百日紅(さるすべり)がいちめんに植えられ、墓のかたわらに建つ石碑「前天台僧都国宝院義広大徳居士」と刻まれている。左海僧都は泉州堺の出身で博学多識の人であったが、ことにより官を辞し、山伏となって山間僻地をめぐり、最後に重里村に杖を止めた。そして村民を教化すること数年、寛延二年、病を得てこの地で亡くなった。僧都を慕う村人は遺骸を椎平に葬り、一年一回盛大な祭典をとり行ってきた。塚の上に植えられた百日紅は僧都が死に望み、
 「この木(百日紅)が枯れない間は、村から火事を出させない。」
と遺言したためで、いまに火難除けや病の平癒を祈る人々が墓前に詣でるという。
 (松本俊吉)
● そもそも石と安堵の森 吉野郡十津川村上湯川
 果無山脈の峠に冷水峠というのがある。その南にそもそも石という巨石があり、その上に樹木が茂って山のように見える。護良親王がこの巨石を見てあやしみ、
「石か山か」と問われると、石は「そもそも石です。」と答えたためといわれる。
 この果無山脈の主峯に安堵山(標高一、一八四メートル)の森がある。護良親王が十津川にかくれようと果無山脈の山に登り、ここから十津川を望んで、
 「ここに来てはじめて心を安じた。」
といわれたので、安堵の森と名付けた。(松本俊吉)

● 寒《かん》の川の鬼
 十津川の支流に寒の川(神納川)というのがあり、紀和国境の護摩壇山《ごまだんざん》から東に流れて川津で本流に合する。その中流ぐらいの左岸の中腹に横垣という部落がある。といってもたった二軒。この横垣の対岸、すなわち寒の川の右岸の中腹に鬼ガ城といわれる巨岩の断崖がある。樹木にかくれて一目に見ることはできないが、高さは九〇メートル、横幅一二〇メートルもあり、その中央に岩窟があって、昔、ここに鬼が住み、木の本の鬼ガ城とかけ持ちだったといわれる。この鬼のいたころ、横垣に更谷丈右衛門という人があり、高野山から新宮までの間で、第一の漢学者であったという。この丈右衛門の在世中、ここの鬼は毎年元旦の朝、お礼のため住み家の鬼ガ城を出て、膳に小判を一ぱい持参し、すばらしいみつぎものをするのが常例で、丈右衛門はこの返礼として潮を与えていたという。
 話がかわるが、熊野本宮神社の例祭の時、里の若人は神輿《しんよ》をかついで神霊を慰める。その時、自分は十津川の若者だといってかつぎに出る男があった。この男は怪力の所有者で、里の者が二十人出れば二十人力、三十人出れば三十人力出す。この男の定宿の主人は、
 「どうも不思議だ。判断のできぬ怪力はただの者ではない。一つその正体を見届けてやろう。」
と、ある夜ひそかに寝室をうかがうと、八畳の間一ぱいにひろがった大きな鬼であった。
 「これはほっておけぬ。一つ先手を打って殺してやろう。」
と、食事の時、毒酒をすすめた。ひん死の鬼は主人に、
 「おれはこの世に心残りはないが、ただ一つ住み家の横垣の鬼ガ城に残した金の銚子と金の盃とだけはあきらめられない。」
といって、息を引きとった。 (岸田文男)

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