● 大峯山本堂の鐘 吉野郡天川村、山上山
 昔、遠州佐野郡原田村に、長福寺という寺があった。其門番をして居た山伏が、役の行者の熱烈な信者の一人であった。貧乏者ではあったが、老僧のおかげで、毎年大峰山に参詣していた。
 そのうち、其老僧が死んだ。山伏は、大峰参詣の道が絶えた。とにかく後任の和尚に頼んでみると、此貧乏寺で、カネと名のつくのは、あの鐘楼ぐらいなものだ。あれでも差支なければ持っていってくれと嘲笑した。
 所が、翌朝になって、突然その釣鐘が鐘楼からはづれて、大和の大峰山に向かって、うなりを打って空を飛びはじめた。流石の和尚も、是はと驚き、我を折って、山伏を案内として、鐘の跡を追った。
 山に着くと、鐘は山上山の絶壁に懸って居た。それが現在の鐘掛岩である。
鐘は、続いて現在の通り大峯本堂に納められたが、若し之を撞くと、故郷を慕って鳴くので、今も撞木が附けてないのだと云う。(大西義若)
● 役の行者の杖と笠と下駄 吉野郡、大峯本堂
 山上山の大峯本堂の向かって左の隅に、巨大な鉄棒と鉄下駄と釣鐘とがある。
鉄棒は五十貫近くもあるであろう。登山客達は、一生懸命にそれを挙げてみようとするが、百人に一人も挙げ得る者はない。下駄は、長さ三尺、幅二尺位、鼻緒だけでも我々は持兼ねる。釣鐘は厚さ五寸、直径五尺、高さ六尺とある。昔、役の行者が此山を開かれる時には、此釣鐘を笠に被り、此鉄棒を杖につき、此下駄をはいて登られた。そして途中には、『油こぼし』とてツルツルと磨けた岩の、ほぼ垂直になった所があるが、是は其時、行者が種油をふりかけて登られた跡で、今に苔も生えないのである。又山中には、鐘掛け、西ののぞき、東ののぞき、廻り岩、平等岩、蟻のとわたり等、一歩あやまれば命のなくなるべき行場があるが、是も役の行者が、件の装束で平気で巡られたのに始まるという。
 それから、此釣鐘は、大和の国の確か北葛城郡の其寺の物を、夜の中に取って来たので今も彼の寺には釣鐘が無いと言われている。(吉野郡洞川、岩森亘)
● 母子堂 洞川から山上ケ嶽に登る途中、母子堂と云う御堂が有る。
 昔、役の行者が、山上ケ嶽を開くとき、母を伴ってここまで来たが、是から先は、道が急で、とても女では登れないと思い、涙を飲んで別れた所である。今でも、女が若し、此所から一足でも踏込んだら、役の行者がおこって、洞川の村に大暴風雨をおこすと云う。(植林佐明)
 母公堂《ははこうどう》のいいつたえ

 昔 大峯山は国中の人々から金峯山「かねのみたけ」と呼ばれていました。春の暖かい陽射しが野山に輝いている大峯山へ登る道を歩く二人連れがありました。
 大峯の山に篭もり、日夜修行に励む役《えん》の小角《おづの》「行者」の身を案じて、葛城の里からはるばる尋ねてきた小角の母「白専女」《しらとうめ》と、役の行者の仏弟子となって、洞川の里に住み小角の世話をしている後鬼「妙童」でした。
 二人は、里から半里ほど上ったところにある谷に差しかかりました。谷を渡ろうとしてふと辺りを見ると、一匹の大蛇が岸にトグロを巻いています。
 先ず、後鬼が谷を渡ろうとすると突然、大蛇は大きな口をあけて後鬼を睨んで、行手を遮りました。驚いた後鬼は思わず後退りしました。今度は母君が渡ろうとしますと、又同じように大蛇が行く手をさえぎり、母君が後に下がりますと、大蛇は元の場所でトグロを巻いて何事もなかったかのようにしています。しばらくして、二人して谷を渡ろうとしますと、大蛇は長い蛇身を一杯に伸ばして二人の行く手をふさいでしまいます。こんなことを三度も四度も繰り返しました。
 困り果てた母君と後鬼は、不思議なことと思いながらも、とうとう谷を渡ることをあきらめて、山登りは後日にしようと洞川の里に引きかえしました。二人は大峯の山に向かって手を合せ、小角の身を無事を祈りました。すると一条の光が輝き、先の中から「阿弥陀如来」が現れました。そして二人に向い「母君よ、後鬼よ、二人が小角の身を案じる気持ちはよくわかります。ありがとう。されど心配することはありません。小角はもう唯の修験者ではありません。仏の化身となって衆生を救わんが為に、霊威感得の地としてこの山に金剛蔵王権現を祀り、修験道を開創しようと一心に練行しているのです。お前たちも修業を妨げてはなりません。小角はまだまだ難行苦行を重ねていきます。修業が終わるまで山へ入ってはなりません。小角が下山するまで、二人して里の人々を助け仲良くして待ちなさい。」と告げると光の中に消えていきました。母君と後鬼は今日、谷を渡らせず山に上らせなかった大蛇はきっと「八大龍王」の化身であったのだと思いました。
 母公はこの谷の岸に庵をつくり、後鬼は一生懸命に母公に仕え、身の回りの世話をして、行者の下山するのを待ちました。母公は里の人々に仏の教えを説きながら里の女の出産を助けたりしました。
 以来、この谷を蛇ヶ谷と呼び女人禁制の結界と定められました。その後この庵跡に堂宇を建立し、母公堂と呼んで母公を祀って来ました。
    (中略)
 昭和の初期まで、母公堂入口と登り口には大きな黒門があり、明け六つに開き暮六つに門が閉じられていました。母公堂は女人禁制の関所のような場所でした。
 母公堂には安全を祈る女人達の線香の煙が絶えませんでした。昭和45年に登山口の大橋と洞川間の林道が開発され、交通の便も良くなったりして時勢の変化に合わせ、現在の大橋遙拝所まで女人結界が延長されました。(母公堂のしおりより)

● 龍泉寺の起源 吉野郡天川村洞川
 昔、吉野郡天川村洞川に一人の男が住んでいた。女を連れて帰って夫婦になり、子供も出来た。妻は、夫に
 「山から帰った時には、必ず表から『帰った』と声をかけて下さい。」
と云うので、夫は云う通りにしていた。或日、男は好奇心から、黙って突然家に入ってみると、女は、部屋一杯に、どぐろを巻いた白蛇になっていた。正体を見られた妻は、小児を夫に托して、其地の池の中へ姿を消したが、その時、自ら目の玉一つをえぐって、子供にあたへた。子供はそれをなめて育っていった。其内、目玉がなくなった。すると、蛇が又姿を現し、もう一つの目玉までえぐって与えてしまった。
 併し、二つ共目玉をとられて盲目になると、昼夜の区別がつかないから、どうか今後は朝は鐘を三つ、晩は六つ鳴らしてくれとたのんでいった。男は、そこで、池のほとりに寺を建てて龍泉寺と名づけ、境内に龍王堂を造った。朝三つ、晩六つの鐘は、今も鳴っている。(小島千夫也)

● 蟷螂《とうろう》の窟と蛇の倉 吉野郡天川村洞川
 聖寶尊者が、大峯山再興の勅命を受けて、洞川に来た時、洞川より十丁許り川上の岩窟に、雌雄の大蛇がいて、登山者に害を与えていた。尊者は経文を唱えながら、其窟に入り先づ雄の大蛇を退治した。雌の大蛇は逃げて別の岩窟に入った。
尊者は更に之を追い、其岩窟の入口を塞いだ。前者を蟷螂の窟、後者を蛇の倉といって、今もある。(大西重太郎)

 又、洞川の龍泉寺には、右の大蛇の骨と、尊者の使用した剣とが、宝物として伝わっている。(小島千夫也)
● 六剣淵とノタレ岩 吉野郡天川村洞川
 役の行者が、大峯山を開く時、洞川の大きな淵に一匹の大蛇が棲んで、通行人を苦しめて居た。行者は之を退治する為に、淵の中へ剣を六本打ちこんだ。大蛇は深傷を負って、川上へ逃げ上り、大岩の所でたおれた。それで、かの淵を六剣淵といい、蛇のたおれた大岩を、のたれ岩ということになった。(大西重太郎)
● 五斗淵 吉野郡天川村洞川
 洞川に五斗淵というのがある。昔、或る婆さんに、米五斗と金若干とを遣るから、此淵を三回まわれと云った者がある。婆さんは本気になって、口に短剣をくわえて、泳いで廻った。そして其後から白蛇がついて廻っていた。やがて婆さんは上って来て、約束の米と金とを貰って家に帰ったが、二三日すると急に死んだ。是から此淵を五斗淵ということになったと云う。(大西重太郎)
● 福田の森 吉野郡天川村洞川
 洞川に、福田の森というのがある。
 昔、この村に福田という一家があった。大変な金持ちで、何不自由なく暮らしていたが、只一つ困ったことは、洞川人は悉く役の行者の従者の子孫であるのに、此人は他村から入り込んだ者であるから、村人並みの交際が受けられず、「一羽鳥」として扱われることであった。そこで、何とか、村人の仲間入りを、許してもらいたいものと考えて、村中の道に小判を敷きつめるから、交際してくれといったが、村人は聴かなかった。
 其内、大飢饉が起こった。村人も大いに苦しんだが、福田家では一層苦しんだ。いくら金はあっても、唯一人食物をわけて呉れるものがない。到頭、餓えきって、ありだけの小判を壷につめ、山の中に埋めて、
  朝日さすみつ葉うつぎのその下に、
    小判千両のちの世のため。
とほりこんだ石を建て、家内中小判をくわえて死んでしまった。それが今の福田の森である。(大西義若)
● 観音峰 吉野郡天川村洞川
 洞川の近くに、観音峰という所があって、観音様が祀られている。後醍醐天皇の、北條征伐の時、護良親王が、暫く身をかくして居られたという洞穴があり、今でも、年に一二回お祭している。
 又その下に、御手洗と云う深い淵がある。当時、護良親王が、賊を早く平らげようと神に祈って、行をしたり、手を洗ったりされた所と伝えられている。
 (植林佐門)
● 琵琶山 吉野郡天川村坪ノ内
 役の行者が、大峯山の嶮路をひらく初め、先づ、天川村の坪内に来て、霊験を祈られたが、岩竅に清泉が湧き出、神霊が光り輝き、何処からともなく琵琶の音が響いて来て、人々の迷雲をはらった。それで、この山を琵琶山という。其の後、弘法大師が、ここに千日の行法を修したが、弁才天が姿を現したという。(山田熊夫)
● 淵から出た神剣 吉野郡天川村和田
 和田の氏神の前に、明神淵とて大きな淵がある。昔、この中に、大変光るものがある。村の人々がいってみると、一番深い所に剣のような物がある。出してみると、果たして一口の剣であったので、之を氏神の御神体として祭ることにした。現にある御神体は是で、後醍醐天皇の御用の品だったと伝えられている。(玉井信一)
● 鏡岩 吉野郡天川村廣瀬
 弘法大師が、高野より山上が岳に日参していた時分のこと。或日の帰り途に、大師は、吉野郡天川村廣瀬の大石の前に休み、岩に向かって一心に念佛し、自分の姿を見ようとされた所、岩が直ちに一つの明鏡となり、大師の姿がはっきりと写った。其石を鏡岩といい、今もある。(山田熊夫)
 又一説には、大師が、天川村坪ノ内の弁天に、度々参詣の度毎、此岩に姿を映して居られたという。そして、此石は、昔は、もっとよく光っていたのだが、猶よく光る様にしようと云うので、土地の人が、石屋を雇うて磨きをかけた為に、今の様に光がなくなったと云う。(的場保男)

● 音なしの瀬 吉野郡天川村廣瀬
 吉野郡天川村廣瀬の少し東、天の川に沿って三四丁遡上ると、鏡岩の下に、音無しの瀬と云う、瀬ではあるが少しも音なく静かに流れている所がある。
 ここは、弘法大師が、坪之内弁才天よりの帰途、鏡岩の前で、昼寝をしようとされたが下の川の音が騒がしくて、眠ることが出来ないので、瀬音を封じられたからの事である。(的場保男)

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