● 仏ヶ峰の地蔵
 吉野郡下市町
仏ヶ峰を、一名地蔵峠と呼ぶほど、有名な地蔵がこの峰にまつってある。田中町とは深い因縁があるとみえて、同町では昔から旧六月二十四日の朝早く、仏ヶ峰へお参りし、地蔵をお迎えして、一日お祭りした上、夕方また送ってゆくしきたりがあった。ある年のこと、お祭りがすんで、そろそろお送りしようと話し合っていたとき、はげしい夕立が降ってきた。しばらく様子をみていたが止みそうにない。
 「こんな雨の降るのに送ってゆくのはおとろしいな。
   いっそ明日にしようやないか。」
 「一晩ぐらい置いといてもええやろ。」
ということに決まった。
 ところが時がたつにつれて雨はますますひどくなり、大嵐になった。お守りしていた人は、えらいことになったとお思いながら、寝支度をしていると、
 「いにたい、いにたい。」
とつぶやく声がする。おかしいと思って耳をすますと、こんどはややはっきりと、
 「連れていね、連れていね。」
という声が聞こえた。その人はおそろしくなったので、さっそく五人組の人だちを起こしまわり、夜中ながら篠<しの>つく雨の中をお送りしていったが、仏ヶ峰の地蔵堂へ着いた時に、嵐がうそのように止んだという。今でも同町では七月二十四日に送り迎えをして、お祭りを続けている。 (大和下市史)


● 端嶺和尚の雨乞い 吉野郡下市町
 今から二二〇年ほど前のこと、下市の西来寺の住職端嶺和尚は徳のすぐれた高僧であった。ある年、ひどいひでりが続いたので、百姓は和尚に雨乞いを頼んだ。和尚は一同を従え、からかさと硯をたずさえて堀毛の降剣神社へ参り、しばらくお経をあげていたが、
  「ここは若い」
といって、仏ガ峰の地蔵堂へ参ってふたたびお経をあげた。それは昔から、古い神仏を祭ったところには必ず蛇が住んでいて、経をあげて雨乞いすると、その蛇が龍となって昇天し、雨を降らすとされていたからである。
 地蔵にしばらくお経をあげていた和尚は、やがて自分の着ている衣の上から硯の墨をベタベタと塗りはじめた。和尚が黙って衣のすそをめくると、体には一匹の白蛇が巻きついていた。それが墨に染まってまっ黒くなり、やがて昇天しはじめた。和尚は
 「これでよし」
といって、いぶかる百姓たちをせきたてて、峠を下りはじめたが、一同が麓へ下りきらぬうちに、からかさが破れんばかりの大雨が降ってきたという。
 (大和下市史)
● 吉野郡上北山村の十郎谷
 白川又川中流に合する谷を十郎谷という。楠一族の郎党恩地十郎の屋敷跡と伝える。ここには金銀財宝あまたが埋めてあって、毎年元旦には黄金の鶏が暁を告げるという。また、埋めたところには、常に朝日照り夕陽輝いて、四季には絶えぬ花の咲く木がある。また、熊野灘に漁する舟人は、常に北方に輝く黄金の光を目あてにしているが、それはここであるという。(上北山村誌による)
● 五郎宗とユルギ岩 吉野郡高見村
 大和と伊勢の境上に立つ高見山には、傳えられる語が多い。
 国見岩というのがある。神武天皇が、大和平定の始め、親しく八方を望見された所だという。
 又、ユルギ岩とて、全く誰かが持って来て置いたかと思う様な、不安定な岩がある。大きな者であるのに、一人の手でグラグラ動かせる。是には言傳えられる話がある。昔、麓の村に田中五郎宗という者があった。生来力が弱くて、人にいぢめられるのに憤慨し、高見山の神様に願をかけて、大力を授かろうと考え、先ず第一日には藁を一把持って山に登り、二日目、三日目と順次に物を殖やしてゆきつつ、二里の山路を、雨も風も厭わず日参した。そして遂に大力を授かって、大に喜び、一つ力試しにと、麓から大岩を差上げて頂上に登ろうとしたが、今のユルギ石の所まで来ると、足が土にメリ込んで動けなくなったので、已むなく岩を置いて頂上に登り、参詣だけ済まして下山した。それがユルギ石だと云う。
 五郎宗は、後に諸国を浸遊し、到る処で大力を現し、人を驚かしたそうで、其話は近郷の村々にもある。それで、今でも體のヅヌけて大きく力強い者を、『五郎宗みたいなヤツ』と地方ではいう。田中という其家も現に在る。
 此外、庄屋の又兵衛という弓のうまい人が大蛇を退治した。其時は大地が鳴動したとか、其鱗は箕くらいの広さであったとか、其弓矢が猶残っているとか、否焼けたとか云うような話しもある。(坂本精作)
● 五郎壯の大力 吉野郡高見村平野
 昔、平野に、五郎壯という大力の男があった。
 或夏、国中へ、用のため出掛けて行った時、丁度大水で川の堤がこわれ、応急に修理に、村中が騒いでいる所に出遇い、
 『私も、一つ手伝わして貰いましょう。』
と云いながら、太い杭を手に取って、スラスラと、固い土中に押し込んで行った。
 又、此の頃、度々大蛇が村を荒らすことがあった。村人は、その退治を思い立ち、深山に小屋を建て、大蛇の様子をうかがったが、其後は一度も姿を現さない。是は五郎壯に恐れたものだろうと云うことだった。高見山北麓の瀧野の瀧が、当時其大蛇が棲んでいた所であるという。(吉永俊門)
● 蟻通明神 吉野郡小川村小
 吉野郡小川村大字小村《おむら》にある官幣大社丹生川上神社、中の社は、もと蟻通明神といった。
 昔、支那が我が国を取ろうとして、先ず屈曲した細い孔を持った七つの玉を送り、之に縄を貫いて一連にしてくれと申し込んで来た。朝廷では種々相談があったが、よい智恵が出ない。此時中将というものが考えて、孔の一方に密をつけ、他の一方から糸を結びつけた蟻を入れると、蟻は密の香に誘われて玉の中を通り抜けた。其糸に更に縄をつけて反対に引くと、うまく縄を通すことが出来た。
 支那は、又使を遣わし、本も末も同じ太さの大木を持って来て、其の本末を見分けてくれと申込んだ。中将は又考えて、その木を川に流して見て、川下になった方が本だと返辞をさせたので、彼国では、日本にも智恵者が居ると知り、遂にせめてこなかった。此中将を神として祭ったのが、この蟻通明神であるという。(山田熊夫)
 参照 磯城郡『蟻通しの宮』


丹生川上神社 中社
● 誓の淵と魚見石 吉野郡小川村小村
 小村に『誓の淵』というのがある。一名を『権浄の淵』という。神武天皇が、天地神祇を祭られた時、厳瓮を沈められた所である。それより、この淵は殺生禁断の所となり、若し此淵の魚を妨げると、忽ち神罰を蒙ると云われている。
 魚見石は、誓の淵より下四丁程の所にある。天皇が厳瓮を沈められた時、群臣及村民等が、魚の酔うて浮かぶのを、集まって見た石である。(仁司郁之介)
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