● 杖から育った竹 吉野郡大淀町鉾立
 鉾立≪ほこだて≫の清九郎はたいへん信心深い人で、京都の西本願寺のオッパン(仏飯のこと)をたく薪を死ぬまで運び続けたという。ある日、木津川までくると洪水のため川を渡ることができない。清九郎は念仏をとなえながら川を歩いて行くと、不思議なことに、清九郎の行くところだけ浅くなって、難なく向こう岸へ着くことができたということである。

 清九郎の死後、墓の上に、いつも京都へ持って行った竹の杖を立てておくと、いつか新芽が出て育った。杖をさかさに立てておいたので、竹の枝はみな下をむいているという。
(中尾直美)

鉾立清九郎の墓
 妙好人《みょうこうにん》大和清九郎
 「鉾立の清九郎さん」・「妙好人中の妙好人」と、宗派を越え、念仏者の鏡と慕われ、その足跡を偲んで、今日でも全国からお参りが絶えない。
 寛延二年(一七四九年)本願寺大谷派の学僧、石見の国(島根県)出身の実成院 仰誓師が、鉾立に出向き、清九郎に面談して「希有最勝の信者に値遇し、あまりの尊さに、我ひとりかかる有り難きことを見聞せしは本意なきことなり」と、後に『妙好人伝』を撰述し、面談の経緯や、人を誘って再び会いに行ったことまで特に枚数を費やし、清九郎を顕彰している。

 妙好人という呼称は、中国浄土教の善道大師が、『観無量寿経』中の「分陀利華《ぶんだりけ》」を訳する『観経疏《かんきょうしょ》』中で、「若し念佛する者は、即ち是人中の好人なり。人中の妙好人なり。」とあることに由来している。
 妙好人の多くは、文字も知らず、これといった地位もない人々だが、人生の苦悩をなめ、真剣に道を問い、廻心の後は、煩悩の世界に在りながら、
「おかげさまで」「ようこそ、ようこそ、」と、お念佛の中で、力強く、心豊かに日暮らしした姿に、多くの人が魅せられた。
 反面、忠孝感恩の道に励む体制順応的な生き方に、当時の封建支配体制を内面から支える役目を担わされたとの見方もあるが、こうした妙好人像は幕末の一揆頻発、新宗教の勃興などの世相を背景に、『妙好人伝』の編集者の意図が多分に盛り込まれた結果ではなかったかとも察せられる。又、国際日本文化研究センター教授の山折哲雄氏によれば、数多い妙好人と言われる中で、妙好人中の妙好人は、『鉾立清九郎』と、答えています。 大淀町教育委員会
 〜案内板より〜
● 猿沢池と通じる沼 吉野郡大淀町佐名伝
 佐名伝≪さなて≫の吉野川畔に1アールばかりの池とも沼ともいえるものがあり、古来一度も干上がったことがないという。そして、その一隅を強く踏むとドンドンと空虚な音がする。この沼の水は奈良の猿沢池と相通じ、その水位が同じであるという。(阪之上夏三)
● 光る楠の木 吉野郡大淀町比曾
 欽明天皇のころ難波の海岸、後の河内国泉北郡茅渟≪ちぬ≫の海に香木が漂着した。光かがやいて日輪をあざむくようであった。天皇はこのことを聞こし召されて、溝辺≪みぞべ≫の直≪あたい≫に勅してしらべさせられた。値は海に入ってみると樟≪くす≫の木が光っているのであった。漁師に命じて拾いあげさせ、仏工二つを作らされた。一つを比曾の寺に安置した。光を放つので現光寺といった。
(日本書紀による)
● 座頭淵≪ざとうぶち≫ 吉野郡大淀町下淵
 下淵と佐名伝との間にザタブチ、あるいはザッタブチというとことがある。これはその昔、座頭が誤って足をすべらし、吉野川の淵へ落ちて溺死したところだという。(岸田文男)
● 小金古の墓 吉野郡大淀町矢走
 矢走のはずれの田の中に塚があって、五、六の楢の木が立っている。塚には「小金古の墓」と書いた小さな石が立っている。源平の頃、平清盛の孫維盛≪これもり≫が敗戦の身を下市の鮨屋に寄せていた時、小金古は維盛の家来として、やはりここにやっかいになっていたが、平家の衰運を悲しみ、この塚のところで自殺したと伝えている。(稲葉和夫)
● 維盛塚と黒髪塚 吉野郡下市町
 平維盛が屋島の戦いに敗れて熊野へのがれる途中、下市の旧臣宅田弥左衛門を頼り、名を弥助と改めて潜んでいた。当主宅田弥助さんの宅の庭園内に維盛塚というのが建っている。紀州有田からここへ移したと伝える。
 なお、同庭園内にお里の悲恋を物語る黒髪塚というのもある。お里が維盛の熊野入水を伝え聞いて、黒髪を剃り落として尼となったが、その黒髪を埋めた塚だという。(大和下市史による)
● いがみの権太の墓 吉野郡下市町阿知賀
 阿知賀の瀬の上、県道より川寄り、部落のまん中を通っている旧吉野街道の道筋にいがみの権太の墓というのがある。「義経千本桜」では権太は鮨屋の惣領息子《そうりょうむすこ》で、勘当されて瀬の上で旅人相手の茶店を開いていたことになっている。この墓は、昔は台石に花立てと水受けがあっただけだが、昭和三年十一月に大阪の劇評家木谷蓬吟《ほうぎん》氏らの提唱で、この地の有志により碑が建てられた。
 墓のある一帯は大木が茂り、土地の人は「もりさん」と呼んでいた。権太の命日は旧二月十五日のねはんの日だとされ、昔から戸毎に米を集めて小さな団子を作り、いろいろなものを供えてお祭りをしている。(大和市下市史による)
● 安産の瀧 吉野郡大淀町比曾
 大淀町の田口垣内から、壷阪街道へ沿うて、北へ約半里程行くと、安産の瀧というのがある。昔から産に苦しむ者が、打たれると、直に安産をしたから、此の称があると言う。(福田惇)

● 土田浦の大欅 吉野郡大淀町土田
 吉野川岸、土田浦に大欅がある。其周園二丈八尺、高さ八間、枝の広がり二十間四方、頗る壮観である。昔、神功皇后の三韓征伐凱旋の当時は、大和平野に浄水が少なかったので、吉野川の水を引いて、飲料にすることにせられた。其記念として、御手植の欅を残されたのが此木だという。今樹下には住吉神社の祠がある。
畝傍山口神社
祭典の御神水に此の水の使用せられることは、今尚絶えない。
 (福田惇)

● 天皇社の杖櫻 吉野郡大淀町桧垣本
 大淀町桧垣本に天皇社というのがある。後醍醐天皇が、延元三年三月、八幡宮に御礼拝の日、行在所を設けられた所といい、現に祭神は天皇である。
 その社殿の傍に櫻樹がある。此時天皇が携えられた櫻の御杖をたてられたのが、芽をふいて成育したものと伝え、杖櫻と呼ばれている。(福田惇)
● 薬水井 吉野郡大淀町薬水
 大淀町の薬水に薬水井というのがある。所の名も、ここから出て居る。
 昔、弘法大師が、大和室生山と紀伊高野山とを往復していた頃、この里人の疫病に悩んでいるのを聞いて、この霊泉を教えた。里人等が之れを服用すると、病は立処に癒った。薬とは、これから付いた名で、其恩徳は諸方に及び、傍には大師堂も建てられた。其後無信の人が此れで米を磨き、又むつきを洗って、其祟りで失明した。それからは、人々はこの水を恐れて、手を触れなくなった。大師堂は、明治維新の際に廃れて、今は其面影を留めない。(福田惇)
● 音波の瀧 吉野郡秋野村
 秋野村に、音波の瀧という恐ろしい瀧がある。高さ一丈、幅五尺許りに過ぎないが、此の瀧で、毎年約十五人の人と二十頭の動物が、命を失うのである。
 烈しい音を立てて落ちて居る水へ、何か物を投げ込むと、その物はジッとしているが、人間か動物がはまると、スーッという音を立てて、吸い込まれて行く。余り不思議なので嘗て、村から官に願って調べて見ると、瀧壷に、顔は人間で、胸より下は魚形をした者が一匹居たという。(岡田隆雄)
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