● 滝の上の観音 吉野郡下市町
 蜻蛉≪せいれい≫の滝の上に本禅院という寺があり、十一面観音を安置している。昔、後醍醐天皇に仕えていた宗月翁は、北朝方の追及がはげしいので、天皇の御所持の十一面観音を奉じ、僧形をして諸国を行脚し、ついにここに草庵を設け、十一面観音を本尊として、この寺を建立したという。(大和下市史による)


● 大壷と小壷 吉野郡下市町
 下市、滝の上の白藤の滝の滝壷を大壷といい、阿知賀の原野と岡の中間、馬草橋から五〇メートル下流の淵を小壷と呼んでいる。この大壷と小壷の底が続いていて、ガタロが住んでいるといい伝え、子供らが泳ぎにゆくと吸いつかれるといって、昔は近寄らなかった。(大和下市史による)


● アチラの谷・コチラの谷 吉野郡下市町新住
 下市の滝の上観音堂のうしろから丸屋へ通じる道の右側に、下市ではアチラの谷、新住ではコチラの谷と呼んでいる谷がある。この谷の領域をめぐって、昔から下市村と新住村の間に争いが絶えなかった。ある年、双方から訴え出て、五条の代官所で裁きを受けることになった。その時、下市の人が何の気なしに、山の向こう側にある谷だから「あちらん谷」と呼んだ。新住村の人はここぞとばかり、
「下市の人がアチラの谷と呼ぶのは、昔から新住の領域であることを現わす証拠である。新住ではコチラの谷と呼んでいる。」と主張し、ついに新住村の領域と決まったという。今も、下市村ではアチラン谷といい、新住村ではコッチの谷、コツ谷と呼んでいる。(大和下市史による)


● 新住の薬師堂 吉野郡下市町新住
 新住の薬師さんは、昔はたいへん有名であった。妊婦のある家では、薬師講の日にお燈明をあげて、それを持って帰ると、燃え尽きるまでに安産したといい、乳が出ない時にお願いすると、乳が出るようになったといわれる。紀州の殿様さえ佐名伝≪さなて≫街道を通る時、わざわざ馬から下りて、お辞儀をして通ったと伝えられる。(大和下市史による)


● 馬草谷 吉野郡下市原野・岡
下市から阿知賀≪あちが≫へゆく旧吉野街道の原野と岡の間に谷川が流れている。源平の昔、兄頼朝の不興をうけた義経は、追捕≪ついぶ≫の手をのがれて吉野山へ行く途中、静御前とともに、しばしここで休んだ。その時、馬に草を食わしたので馬草谷と呼ぶようになったという。(大和下市史による)


● 太子が掘った杉原池 吉野郡下市町阿知賀
 阿知賀の居安川の奥に杉原池というのがある。昔、聖徳太子が掘られた池だから、水を換えてはいけないといい伝えられている。(大和下市史による)


● 銚子《ちょうし》の淵のガタロ 吉野郡下市町
 滝上寺の裏の銚子の淵に、昔一匹のガタロ(河童)が住んでいた。川へ遊びに来た子供の手足を持って引きずりこんだり、吸いついたりしていたずらをするので、附近では子供を銚子の淵へ近寄らないようにいい聞かせていた。ある晩、滝上寺二十二世恵真和尚が便所へはいっていた時、突然、氷のような冷たい手でお尻をなでたものがあった。和尚が、
 「こいつめ」といって怪物の手をにぎってはなさなかった。すると、
 「わたしはこの裏に住むガタロです。もういたずらはしませんから堪忍して下さい。その代わりよくきく傷薬を教えます。」といったので、はなしてやった。
明治初年に滝上寺で売っていた傷薬はこれであるという。(大和下市史による)


● 河童の恩返し 吉野郡下市町阿知賀
 阿知賀の瀬の上に和田という家がある。昔、この家の先祖が、椿の渡しで一匹の河童が怪我をして苦しんでいるのを助けてやった。それから後、毎朝、夜が明けるとザルに一ぱいの銭が家の上がり口に置いてある。それでこの家は村一番の金持ちになった。何年かたって家の主人が、ある朝一のこと、
 「こう毎朝持ってくるとは、うるさいなァ。」といった。すると、翌日からはぴたりと持ってこなくなった。(上野恭雲)


● 大塔宮と大塔塚 吉野郡下市町栃原小字大塔家
 元弘二年十一月、大塔宮護良《もりなが》親王は、赤阪城の楠木正成と呼応して吉野山で勤王の旗をあげ、北条方の大軍を迎えて奮戦されたが、翌三年閏年二月一日、ついに吉野の城がおちいった。身をもっておのがれになった護良親王は。十津川へ行かれる途中、しばらく栃原の光円寺に潜まれた。これを聞いた近在の郷士は馳せ参じて警護にあたったが、このため光円寺は大塔家山という三号と宝刀・軍刀を賜った。それから垣内の名も大塔家と呼ぶようになった。
 文化十年正月七日、火災にかかり、門だけを残して本堂も宝物も焼失してしまったという。(大和下市史による)


● 天が峰 吉野郡下市町原谷
 原谷の最高所で、広橋から平原に抜ける道筋にあたって天が峰がある。後醍醐天皇(後村上天皇)が吉野をのがれて賀名生《あのう》へ行かれる途中、ここにお立ち止まりになって、吉野の方をなつかしげにお望みになったといわれている。
 (大和下市史による)


● 天王の森と仏松 吉野郡下市町原谷
 原谷の西福寺の上に天王というところがある。善城雪坊をお出ましになった後醍醐天皇が、しばらくお休みになったので、天王と呼ぶようになった。もとの西福寺は明暦三年に火事で焼けてしまった。その時、掛軸が火にあおられて付近の木にかかったので、その松を仏松と呼ばれるようになった。(大和下市史による)


● 正源寺の歯痛地蔵 吉野郡下市町
 昔、原谷の菊本家の下で水溜を掘っていた時、地中から石地蔵が出てきたので、正源寺へ祭った。歯痛が起こったとき、焼餅を供え、それを持って帰って食べるとなおるといわれる。明治初年、本堂のうしろへ押し込んだことがあったが、さわった人の中で気狂いになる者がでたので、あわてて元の場所へ祭り直した。また、ひでりが続くと寺坂の上からひきずって下って雨乞いすれば、必ず雨が降ったといわれている。(大和下市史による)


● 八の原 吉野郡下市町平原
 天が峰を通り平原へ入られた後醍醐天皇(後村上天皇か)は敵軍が追ってきたので、八の原の森林中にある岩窟の中へかくれて難をおのがれになった。村人はその岩窟を天王がおかくれになったとっころとして尊崇し、樹木の伐採を禁じていたが、慶応二年八月の暴風雨で、樹木はほとんど倒れてしまった。
  (大和下市史による)


● 斧取淵 吉野郡下市町梨子堂
 昔、あるきこりが梨子堂《なしどう》口の近くで木を切っていた時、手をすべらせて持っていた斧を落とした。斧はがけ下の淵の中へ沈んだ。きこりは淵へはいって探したが、どうしても斧がみつからなかった。それから村人はここを斧取淵と呼んでいる。


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