● 栃本の丹生川上神社 吉野郡下市町栃本
 栃本の丹生川上神社は、今は官幣大社丹生川上神社の末社になっているが、天長九年に宮の尾にお祭りした神社で、丹生神社の祭神がはじめてこられたのは栃本だと伝えている。昔、栃本口から少し下ったところに大榎が生えていた。忠兵衛という人が通りかかると、ひとりの六部が休んでいた。そして榎にりっぱな神様がかかってあった。忠兵衛が尋ねると、
 「わしはスクネだが、この神様を祭ってくれる村を探している。お前の村で祭ってくれないか。」といった。忠兵衛はさっそく村人に相談したが、だれも祭ろうという人がなかった。スクネは、
 「しかたがない、丹生へ行ってみよう。」と腰を上げたので、忠兵衛は丹生との村境まで案内し、スクネが見えなくなるまで拝んでいた。そこを伏拝といい、スクネと出合ったところを出合いと呼んでいる。
 (大和下市史による)


● 栃本の四つ辻 吉野郡下市町栃本
 栃本の部落の上手、広橋との境界で道が五本に分かれている。最近まで、ここに畳一枚ほどの広さの芝生があった。後醍醐天皇が吉野と賀名生の間を往還される時、必ずここで御休息になり、ワラジをおはきかえになったといわれる。また、昔はここで狐が出て、若い衆がだまされたりしたので、今はそこに祠が建っている。
 (大和下市史による)


● 清次の谷 吉野郡下市町
 石堂谷は明治三十二年十二月、恩田郡長の仲裁で下市町の領地と決まったが、何百年の昔から石堂谷の領有をめぐって、奥郷(丹生村)と口郷(梨子堂・栃本・椎原村)との間に争いが絶えなかった。ある年、石堂谷の入会≪いりあい≫を決めるのにもめ抜いたあげく、代表選手を出して相撲をとらせ、勝った方の領有にしようということになった。丹生側からは長谷村の谷口清次という身のたけ六尺五寸(一、九七メートル)もある力自慢が出てきた。下市側からは梨子堂村の村上文左衛門が選ばれた。文左衛門は滝上寺の人足に出ても、ひとりで十人分の仕事をするのは朝飯前といわれ、下市へ相撲をとりにいった時、矢来の青竹をしごいてふんどし代わりにしたので、青竹文左衛門の異名を取ったほどの強力無双の者であった。双方の物すごい声援怒号のうちに、石堂谷の領有をかけた大相撲がはじまった。谷口清次もはじめは渾身の力をはってがんばったが、勝負はなかなかつかない。すると三つ塚から一羽の鷹が飛んできて、頭上を旋回したかと思うと、文左衛門は清次の体を高々とさし上げて、谷座へ投げとばし、清次は血を吐いて即死した。今もこの谷を清次の谷といい、黄いちごが咲いて清次を弔っている。また、高岳には清次の墓が現存している。(大和下市史による)


● 熊谷桜≪くまがいざくら≫ 吉野郡下市町貝原(旧吉野郡丹生村貝原)
 貝原の三本松付近に、まわり三メートル近くの桜の大木がある。昔、熊谷直実が通りかかった時、ここで休んで、道端の桜の小枝を折って箸にし、弁当を食べた。そして、その箸をそこへ突きさして置かれたのが、不思議にも、その箸から芽が出てりっぱな桜の木になった。それで土地の人は、この木を熊谷桜と呼んだという。
 (山上尖)


● 三龍嶽 吉野郡下市貯貝原 (旧吉野郡丹生村貝原)
 貝原の櫃嶽≪ひつがだけ≫・白銀嶽≪しろがねだけ≫・栃原嶽≪とちはらだけ≫の三山を三龍嶽という。大昔、散々にはおのおの一匹の龍が住んでいて、雨の神様であったという。(山上尖)


● 黒木玉尾御所 吉野郡下市町貝原 (旧吉野郡丹生村貝原)

 大字黒木は川一つへだてた西山に対して、昔は東山といった。後醍醐天皇が吉野から賀名生へお越しになられる時、今の黒木の玉尾で休まれた。その時、黒木(杉の木の皮をはいだもの)で仮御所を作られたので、黒木玉尾御所といい、村の名も黒木になったのだという。(山上尖)


● 朴≪ほう≫の葉鮨のいわれ 吉野郡下市町丹生 (旧吉野郡丹生村丹生)
 丹生川上神社は大昔からの宮様であるが、この神社に、昔、ヒ々猿が出てきて、付近の畑を荒らし、参拝者を食べたりした。こうして、困る困るといって何年か過ぎた。ある年のこと、どこからか遍路の僧がこの村にきて、お宮に参り、村人がしきりに心配しているのを見て、そのわけを尋ねた。そして右のような次第を知り、かわいそうに思い、ヒ猿を退治してやろうと決心した。その夜、さっそく酒や魚を用意させ、また、朴の葉鮨を作らせた。そしてこの三つの品をヒ々猿の出てくるところに置き、自分はその脇に箱を持っていって、抜き身を持って、その中にかくれていた。時刻がきて、ヒ々猿が出てきて、鮨や魚をうんと食べ、その上、酒まで飲んで酔っ払った。僧はそのおりを見て箱の中からおどり出し、手にもった刀でヒ々猿をずたずたに切り殺してしまった。それ以来、毎年六月には、朴の葉鮨をこしらえてお宮にあげることとなった。(瀬川安雄)


● 義経のかくれ松 吉野郡吉野町吉野山
 関屋桜の中央、道の左側にある老松が義経かくれの松で、桜花満開のときは、この松もかくれるくらいである。義経がこの松にかくれたというので、その名がある。(吉野町誌による)
 ※注 この松は近年枯れて古株が残っている。
 なお、関屋桜も枯れ損じて跡かたもない。


● 帰りたがっている金の鳥居 吉野郡吉野町吉野山
 吉野の蔵王堂の金の鳥居は、下田の人たちがあげたものである。しかし、蔵王権現にあげる時に、ほしい、ほしいと思ってあげたために、蔵王権現も鳥居に対して何かと冷たくあたられるので、鳥居もさびしくて、下田へ帰りたい、帰りたいと思っているそうである。下田方面に、
 わたしゃ吉野のおかねの鳥居
 いつが下田へ帰るやら
という里謡がある。(中田太造)


● 吉野桜 吉野郡吉野町吉野山
 天地天皇のころ、大海人皇子が大友皇子の難をさけられて、吉野山の日雄寺にこられた。
ある寒夜のお夢に、桜がらんまんと咲き乱れているのを見られた。おかしい夢もあるものだと、翌朝、角仁という法師にこれを占わせられると、角仁は手をうってよろこび、「これはたいへんな吉夢であります。御運もひらいて、お夢の桜が咲きひらくように、めでたい春がくることでしょう。」と言上した。窓をあけてみると、寒中に庭前の桜が満開であった。
大海人皇子は後の天武天皇である。桜を霊木として愛育したので吉野山は桜の名所となったという。(乾建治)


● 化生《けしょう》の岩屋 吉野郡吉野町(旧吉野郡中荘村)
 神子《みこ》の水は吉野町にあり、そこから三〇〇メートルほど行くと一つの岩屋がある。昔、聖徳太子がこの岩屋のところをお通りになると、あやしい女がひとり立っていたので、太子は、
 「そなたはただの女ではあるまい。人の心をまどわす鬼女ではないか。」と仰せになった。女はこれに答えて、
 「わたしに鬼子《きし》がとりついて、朝夕わたしを離れません。それ故、並々ならぬ苦しみを受けております。太子様の力で、どうぞ離して下さいませ。」といった。そして自分の脇のところを開いて見せた。すると、眼は日月のごとく、色は狭丹塗《さにぬり》のごとく、氷のような牙で母の乳房に食いこんでいる鬼子がいる。太子はこれをご覧になって神文をお唱えになると、目の前で乳房から離れてしまった。太子は従者の調子丸に命じて、付近の松かげに捨てさせた。そこで、その松を稚児の松というようになった。また、岩屋を化生の岩屋と呼ぶに至ったが、この母親は、今、伊勢神宮の末社として祭られている。
 (吉野山独案内による)


● 三輪の上人と勝手明神 吉野郡吉野町吉野山
 昔、三輪に三輪の上人という高僧があった。吉野の勝手大明神へ百日の間参詣したが、満願の日、吉野川の川岸に死人があって、通行人はわざと遠道をとって参詣していた。そこで上人は人々のわずらいを除いてやろうと、死骸を他のところへ移された。上人はすぐ吉野川で身を清められたが、なお、けがれがあると思い、参詣せずに勝手大明神の方を三度伏し拝んでひき返そうとした。すると急に足がしびれて歩けない。へんに思って大明神の方へ参ろうとすると足は何でもない。これならとと思って返りかけるとやはり歩けない。上人は考えて、いっそ、詣ることにしようと山までわけなく行ってしまった。しかし、けがれた身ではいけないと思って、わざと玉垣の外にいると、明神は童子を遣わして、
 「そこにいる法師、近う参れ。」と声をかけられたので、明神に会って返って来た。(萩原愛孝)


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