● 蛙飛び行事の由来 (吉野郡吉野町吉野山)
 白河天皇の延久年間のことである。金峯山へ参詣する山伏の修験者のなかに、平生から神仏をあなどり、人の苦しみを見て喜ぶつまらぬ男があった。
「行者とおれとどちらが尊いか、悪いことをしつづけたおれが、この山上へきても何のさわりもないではないか。いくら行者でも、仏の力でも、このおれにかなわぬと見えるわい。」といってカラカラと笑った。
するとたちまち、付近はまっ黒な雲に包まれて、その男は鷲の窟の上にさらわれてしまった。男は声を限りに泣きさけんだ。
「今日からま人間にたちかえりますから、どうぞお助け下さい。」
すっかり後悔したのを見た金峯山寺の高僧はかわいそうに思い、
「お前を助けてやるが、とても人間としては助けられないから、蛙にしてやろう。」と、口に何事か念じて、その男をとうとう蛙にして、恐ろしい窟の上から救ってやった。それから蔵王堂につれ帰り、吉野全山の僧がより集まって読経し、やっとのことで人間にかえすことができた。
毎年七月七日に蔵王堂で行われる蛙飛びの行事はこれに由来するという。
 (宮坂敏和著・吉野案内記による)
● 花供懺法《はなくせんぽう》 (吉野郡吉野町吉野山)
 桓武天皇が長岡の宮で御病にかかられた時、吉野山宝塔院の高算上人を召されて、病気平癒の祈祷を命ぜられた。上人は急いで都に上り、加持し奉ると、さしもの御病もたちまち平癒せられた。天皇はたいへん喜ばれて、上人に、
「何なりと望むことがあれば、はばかることなく申せ。」と仰せられた。上人は感涙にむせびつつ、
「友をまとう僧の身、何の望みが」ございましょう。ただ吉野山は歴代天皇祈祷の名刹で、満山桜で埋もれておりますが、この桜は蔵王権現の神木として毎年花神の供養を行なう費用の出所がありません。つきましては海内《かいだい》の民より一畝(一アール)につき一穂の米の喜捨をお願いいたしとうございます。」と申し上げると、天皇はすぐこれをお許しになった。それから令を諸国の金峯山寺の末寺に下して、喜捨を集めることになった。しかし、勧進の方法は他と違って、ただ民家の門口に立って声高に「吉野山花供懺」と呼ぶだけである。
 昔の金峯山寺は全国に十万の末寺と百万の修験者を持っていたが、これらの人々によって集められた喜捨は供物や餅まきの料にあてられ、その餅ぎねが名高い千本ねぎである。今も四月十日に桜本坊で千本搗が行なわれ、十一日には花供養の法会が盛大に行なわれる。(宮坂敏和著・吉野山案内記による)
● 日蔵上人 (吉野郡吉野町)
 日蔵上人は、吉野山の椿谷寺で十二歳の時に髪をそり、法名を道賢といった。それから東寺に出て真言秘密の奥義を極め、吉野に帰山して以後六年の間、五穀を口にしなかったから、世の人は木食上人と申し上げた。その後も筌《せん》の岩屋に七年こもっって、もっぱら無言の行と断食の行とを並び行なった。そして縁起十六年八月朔日午の刻に、上人は舌には水気が断ち、息さえ切れてしまった。それでも上人のからだはあたたかくて、目のうちも平生と変わらなかったから、亡骸をそのままにして置いたところ、十三日目に蘇生された。その十三日の間に蔵王権現は、この半死の日蔵上人を自分の肩にかけて冥途めぐりをされ、地獄をくまなくお見せになったという。(吉野山独案内による)
● 伏拝泉帰り (吉野郡吉野町)
 この長い名の土地は、吉野の水分山から北の川ばたにある。昔、和泉式部がここで筏士に会い、吉野の花は盛りかと尋ねると、筏士は、
筏士は筏をぞ知る花知らず
 散るも散らぬも風に問へかし
と答えたという。その時、式部はさわることがあったのか、ここから蔵王権現を伏し拝んで帰ったので、この名がおこったのだという。(吉野山独案内による)
● 山まわり地蔵 (吉野郡吉野町)
 花の吉野山を奥にのぼると、子守明神三社の宝殿がある。この明神は男女の御子神をたくさんおもちになり、三十六番目の御子神は地蔵菩薩の化現と伝えている。この地蔵尊は厨子の中におはいりになって、山中の家々をめぐって一日ずつ御逗留になり、昔から今まで変わることなく続き、家々では時節々々の珍物を供えることになっている。(吉野山独案内による)
● 難題聟《なんだいむこ》(一) (吉野郡宗檜村)
 昔兄弟があって兄をヨモクといい弟をゴモクといった。二人で大坂へ奉公に行った。奉公先の主人がよいものを食うているのを見て、兄はあんな御馳走を一ぺん親に食べさせて見たいものだと思っていた。ある時その話を弟にすると、弟は、
 「兄貴はそんなに気の小さいことを思うか、私はここのイトさん(お嬢さん)を嫁にしたい」といった。ちょうどそこへ旦那がまわって来てその話を小耳にはさんだ。
 昼飯を食うた時旦那が、兄弟に、
 「お前たちはどういう希望を持っているか」
と聞いたら、兄は正直に思った通りをいったが、弟のゴモクはよういわなかった。すると旦那はゴモクを責めた。ゴモクは仕方なしに、
 「イトのそばへ寝させてもらいたい」といった。すると旦那は、
 「明日の朝、イトに歌をよませるから、歌が合うたら婿にしよう」といった。
 翌朝イトさんが簾をあげて美しく花のようにかざって出て来た。そうして、
  天より高き桜花
   ゴモクくらいに落とさりょか
と歌をよんだ。するとゴモクは、
  天より高く咲く花も
   落ちりゃゴモクの下となる
と答えた。まことに理によく合うているので、旦那はゴモクをイトさんの婿にした。
  (城戸 堀刀自/吉野西奥民俗採訪録)
● 難題聟(二) (吉野郡宗檜村)
 これもやはり大坂かどこか大きな町の商売屋での話である。一人娘のきりょうよしに婿をもらわねばならぬが、なかなか見定めがつかなかった。そこで判じ物をさせて、うまくとくことがなったらその者を婿にしようということになって、家の前の縁の所へ、粟四斗と算盤とをおいておいた。
 そこへ丁稚が子供を負うてやって来て、
 「アワワ シットントン」
といって子供の守をしていた。それをきいた主人は、
 「あれはえらい、粟四斗を算盤に入れた」
といって、その丁稚を養子にした。丁稚は思いがけぬ幸福を拾った。
 (城戸 堀刀自/吉野西奥民俗採訪録)

● 難題聟(三) (吉野郡宗檜村)
 昔大坂の町屋にお染という美しい娘がいた。そこに久松という丁稚がいた。親は不細工な男だったが、その子の久松は男前であった。久松の仕事は、その家の水汲みであった。毎朝お染の手水を汲んで行ったが、お染はある朝、手水を使わないで、
  木曽で小池の鴨
と美事な声で唄った。久松は何のことか分からぬから、そのことを隣の家へ行って話すと、隣家の人が、
 「それはお前に惚れて歌をうたうのだから、お前はこういえ」といって教えてくれた。
 あくる朝久松がまた水を汲んで行くと、お染が前の日のように唄ったので、久松は、
 行きとうても行かれん波高《た》こて
と答えた。するとお染は何もいわないで、自分の帯をといて久松を障子の中へ引き入れたということである。(城戸 堀刀自/吉野西奥民俗採訪録)

● 継子譚(一) (吉野郡宗檜村)
 黒淵と城戸との間に普賢様がある。昔悪い後妻があって、継子を殺してやろうと思って普賢さんへ連れて参った。そして普賢さんの下の茶屋で、茶に毒を入れて飲まそうとすると、継子は普賢様へ参ってから飲もうといって、腰もかけずに石段をのぼって行った。母も仕方ないのでついて行った。そうして鐘楼の下まで来ると、どうしたことか、母の髪が鐘にまきついてしまった。母親が泣き叫ぶので、子がおどろいて、寺の老僧にたのんで拝んでもらうと仏様が、信心深い子供を殺そうとする罰をあたえているとのお告げであった。そこでもう決して悪いことは致しませんとて、鐘から髪をといてもらった。(吉野西奥民俗採訪録)
● 継子譚(二) (吉野郡宗檜村)
 昔継子がいて、自分の子を可愛がって継子をいじめてこまった。ある時コバシ(はったい粉)を食わすのに、継子は谷へ行って食え、我が身の子は家で食えといった。継子はいう通りに谷へ行って食うと見晴らしがよくて大変うまかった。我が子が家で食おうとすると、風が粉を吹き散らしてしまったという。
 (城戸 堀刀自/吉野西奥民俗採訪録)
● 継子譚(三) (吉野郡宗檜村)
 昔継子がいて、我が子と継子の区別をした。魚を買うと我が子には胴を食わし、継子には頭と尾だけ食わした。ある時我が子が母親に、兄を気の毒に思うて、
 「私は胴ばかり食うが、兄さんは頭ばかりで気の毒だ」
といった。すると継子は、
 「いやいや私は胴より尾や頭がよい、オカシラといって、これを食うと出世する」といった。
 継母はこれをきくと、その次から継子には胴ばかり食わしたという。
 (城戸 堀刀自/吉野西奥民俗採訪録)
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