富士山本宮浅間大社
ふじさんほんぐうせんげん
 
鎮座地 静岡県富士宮市宮町1-1
御祭神 木花之佐久夜毘売命

 気持ちのよい晴天に参拝した。たくさんの人が早朝から境内を清掃されていた。その中ひとりの年配男性から、一昨日の流鏑馬祭で大変な賑わいだったと声を掛けられた。
「来る日を間違えたな。 せっかくだから、この像を撮って行きなさいよ。何なら、脚立も貸してあげる。」「流鏑馬祭、ニュースで見ましたよ。」というと、誇らしげな表情を浮かべておられた。
楼門前の石段にある自然石は
「鉾立石」と称し、往古4月、
11月両度の大祭札山宮神幸の
節神鉾を休め奉ったもの。
「流鏑馬祭」《やぶさめさい》
5月4・5・6日 社伝によると建久四年源頼朝が、富士の裾野で巻狩を行った時奉納したのに起因すると云われ、天正五年の富士本宮年中祭礼之次第等に見える古儀である。

4日が前日祭 5日が本祭 6日が後日祭となっているが、本祭当日は神前に於て流鏑馬祭が古式豊かに行われた後、六十余頭の馬に神職・武者・稚児其の他が騎乗して市中の練行があり、次いで境内桜の馬場で流鏑馬式が行われる。

 社伝は孝霊天皇の御代に富士山が噴火して鳴動常ならず、人民は恐れて逃散し国中が荒廃したので、垂仁天皇がその三年の山麓に浅間大神を祀り山霊を鎮められたのが社殿の創祀であると伝えている。ついで景行天皇御代には、日本武尊が東征の折に山宮の地において大神を祀られ、平城天皇の大同元年(806)には、坂上田村麿が勅を奉じて現在の大宮の地に社殿を築いて奉遷したという。

 これが現在の本宮であり、のちに駿河国府の地に浅間神社(静岡浅間神社)が勧請されてこれを新宮と呼んだのに対して、当社は本宮と呼ばれるようになった。『文徳実録』仁寿三年(853)七月に名神に預かり従三位に叙せられ、ついで『三代実録』貞観元年(859)正月には正三位に進んでおり、『延喜式』では名神大社に列している。
 駿河国の一宮で、全国1300余の浅間神社の総本社として崇められている。
 例大祭は、11月 3・4・5日。

 中世以降も源頼朝は益津・大岡の両荘を寄進し、源実朝が社殿を造営したのをはじめ、北条義時・足利尊氏・武田勝頼らも社殿を修造して尊崇の誠を捧げた。ついで豊臣秀吉は七八七石の社領を寄進し、徳川家康は八六七石の朱印地を安堵した。

 現在の社殿は家康が関ヶ原での戦勝を感謝して慶長九年(1604)に建立した。

 本宮所在の富士宮市は、古来富士山登拝の表口と称せられ、登拝者の本宮参りが盛んに行われた。境内の特別天然記念物の湧玉池は「おツボ」とも称し登拝者の身を清める場所であったと言われ、今も富士山からの伏流水がこんこんと湧き出ている。
「楼門」高さ三十九尺、間口四間奥行二間半、屋根は檜皮葺。楼門の扁額は聖護院入道盈仁親王の御筆で文政二年に制作されたもの。

 富士山頂には奥宮が祀られているが、八合目以上の土地について国との間に所有権をめぐり昭和二十二年以来裁判となっていたが、同四十九年に最高裁において、この土地は浅間神社の御神体として古来富士信仰の中心であったことから、当社の境内地であることが確認された。

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