五條市の御霊神社
 御霊信仰の御霊とは、非業の死を遂げた怨霊に対する尊称だと考えられています。怨念を抱いて死んだ者は死霊となって祟るとされています。怨霊をさけるために祈祷が行われましたが、それでも祟りが収まらない場合は怨霊を慰撫し、祭り上げて守護霊へと転換する方法が図られました。それを御霊信仰といいます。とくに皇位争いや 政府高官位の争奪戦に敗れ、非業の死を遂げた権力者は、強力な怨霊と化して、朝廷のみならず社会にもさまざまな災厄をおよぼすと考えられ、皇室の変事や疫病の流行雷・地震・大火・大雨・洪水などの地震災害まで怨霊の祟りとみなされたのです。その背後には、国家権力に組み入れられていた呪禁師や陰陽師が、天皇や高官などの死、あるいは天災地妖の原因が怨霊にあるとして占う要素がありました。怨霊の魔から逃れる方法とされたのが、怨霊を祀り、鎮める御霊信仰だったのです。

 井上内親王は聖武天皇とその夫人県犬養広刀自の間に生まれました。弱冠十六歳で不審の死をとげた安積親王、および恵美押勝の謀反に擁立された塩焼王の妻不破内親王の同母姉に当り、光仁天皇の皇后でありましたが、宝亀三年(772)光仁天皇の后井上皇后が自分で生んだ皇太子他戸親王とともに光仁天皇を呪詛したとする事件が起こりました。それにより井上皇后は后の地位を剥奪されたばかりか、他戸親王も皇太子を廃されてしまいました。しかも、他戸親王のライバルであった山部親王(のちの桓 武天皇)が皇太子として立てられました。その間に光仁天皇の姉の難波内親王が死去するにおよんで、井上皇后がまたもや「厭魅大逆」を行って呪殺したと讒訴されました。 讒訴により、井上皇后と他戸親王の母子は大和国宇智郡須恵庄の土牢に幽閉されてしまいます。その後、井上皇后他戸親王とも日を同じくして幽閉のまま奇怪な死を遂げられてしまいました。二人の死が極めて不自然で、そこに政治的隠謀のあるらしいことがうかがわれますが、当時も世間にはさまざまな風評が流れたようです。山部親王を皇太子に擁立した藤原百川が急死するにおよんで、井上皇后が怨霊となって祟ったという噂が広まったのです。

 その怨霊を人一倍恐れたのは、桓武天皇でした。怨霊を篤く敬わないと自分の命が危ないと案じ平城宮から長岡京に遷都を行いました。それだけでは安心できず、井上皇后に皇太后を追贈しましたが、祟りはなおやまないので、天皇は怨霊をしずめるために井上内親王を神に祀り、宇智郡一円を敷地にしました。 延喜式に「皇后井上内親王、大和国宇智郡に在り兆域東西十町、南北七町、守戸一 烟」とあるのがそれで、現五條市御山町(旧南宇智村御山)にある宇智陵がその山陵に比定されています。その北には他戸親王の墓も比定されています。
宇智陵
他戸親王墓
 井上皇后が幽閉されていたときご懐妊されており、そのときに生れた子が雷神となり、 母が流されたことを怨んで、種々の祟りをなしたので神に祀ったと伝えられています。 また桓武天皇の信任が篤かった藤原種継暗殺事件に連座して皇太子を廃され、淡路国へ流される途中に絶食したまま餓死した早良親王も祟っているとされ、その祟りを鎮めるべく、桓武天皇は延暦十九年(800)、早良親王に祟道天皇の追号を贈っています。
 井上皇后と他戸親王、雷神にその早良親王の四人を祀ったのが御霊大明神で、その場所を霊安寺といいます。霊安寺には皇后と二親王の三社があり、雷神は御山の若宮に祀られています。霊安寺の始まりは、怨霊を安ずるために小堂が建てられ、やがて寺として漸次形を整えたものだと考えられます。現在、霊安寺はなくなって、満願寺に合併されていますが、満願寺の南小径をへだてた小台地が本堂の址といわれています。
 井上内親王母子の越智郡への配流は、民間信仰の上に大きな影響を与えました。 伝説地として岡の土舎寺の古井と須恵の井上院後、下馬町・荒血坂・産屋が峯釜窪 ・庶人墓などがあり、光仁天皇と井上皇后にちなんで今も白壁を忌むとか(光仁天皇は 別名を白壁王ということから)、宇智陵にまつわる諸伝承があるのです。また平安時代以来、御霊神社は式内社の信仰を圧して当地の氏神として民間の信仰を集めたらしく、嘉禎四年(1238)閏二月、河南の吉原氏と河北の牧野氏との争いを機縁に十ヶ所への分祀となったといわれています。
 すなわち西阿太佐名伝山田小島六倉二見中之黒駒近内の御霊 神社がそれと伝えられています。ほかに南阿太湯谷市塚島野釜窪丹原久留 小和畑田三在住川野原にも祀られており、中には以前からあった神社の場所に併せ祀りまたは合祀されたのもあります。かくて宇智郡一円にわたり御霊信仰が行き渡ったのでした。

 廃霊安寺
 五條市霊安寺町。高野山真言宗。本尊・不動明王。山号は井上山。 明治初年の神仏分離で満願寺に合併、仏像什物などは同寺へ移された。今満願寺の小路を距てた畑地約三畝歩の方形台地が霊安寺の本堂後と 伝えられ、この南方の小字「大御堂前」は金堂後といわれている。 近年、和製の古鏡三面と桓武天皇の延暦十五年(796)鋳像の「隆平永宝」 (皇朝十二銭の一)が多数出土したという。
 当寺は井上内親王と御子早良親王・他戸親王と内親王が須恵の土牢におしこめられたころ懐妊していて出産した男子(若宮で雷神となる)の母子の霊を安ずるため創建されたといわれる。その時期について『大和志料』にも「草創ノ由緒ハ稍ヽ々詳ナルモ爾後 ノ沿革得テ知ルベカラズ」とみえる。『類聚三代格』には弘仁七年十月二十三日に太政官符を下して、霊安寺の構作久しく伽藍はあるものの修法も不十分であったため正税四千束を割いて出挙し、その利息をもって 春秋の悔過や修理料に充てたとあり、『延喜式』にも「大和国正税公廨 霊安寺料四千束」と規定して当寺が修法のため経済的にも優遇されていたことを示している。
『大和名所図会』に「霊安寺、
御霊神社を守る寺なれば、かく名付けられき。再興称光院の御宇正長元年(1428)の秋兵火にかゝりて神社・仏 堂・本地四仏の像も一時のけぶりとなる。此尊像秘仏なれば、住侶も知ることを得ず。しかれども北畠准三后の御霊の記録せられたるにあらはれしより、本地観音の像を再営して安置し霊安寺ふたたび成就せり」とある。

関連サイト: まんがで見る五條市史

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