花垣神社
はながき

鎮座地 三重県伊賀市予野194

Google マップ(to:花垣神社)
御祭神 天兒屋根、經津主命、 武甕槌命、比賣大神

合 祀 乎美彌神、大日ルメ貴神、五男三女神、譽田別命、安閑天皇、木花咲夜姫命、
    宇迦能御魂神、八衢比古神、八衢比賣神、久那戸神、 建速須佐之男命、
    市杵嶋姫命、菅原道眞、大山祇神、火産靈神、三筒男神、大己貴神

例 祭 十月十八日
 当神社は往古より現在地に鎮座ましまし、御祭神経津主神・武甕槌神・天児屋根命・姫大神を大字予野字花前に春日大神と称し、神社明細帳に其の由緒「右社ノ義ハ人皇第六十六代一条院ノ御宇、当村地名花ケ谷ニ一株ノ名樹アリ、是レ八重桜ナリ。即チ此ノ木ヲ上献ス。而ルニ帝叡覧アツテ深ク賞讃感悦シ給ヒ、宮門内ニ植置給フ。
 故ニ其ノ後年々当村ノ民族ヲ徴サレ八重桜周囲ニ垣ヲ造ラセ給ヒ、亦花ノ満開七日ノ間宿直ヲ命セラレ是ヲ守衛奉ル。
 此賞典トシテ以テ公事ノ賦役ヲ許サレ、花垣ノ庄ト地名ヲ賜フ。而後其樹跡ヨリ又一本八重桜生出シテ、数百年ノ今日ニ至リテ尚存セリ。
其ノ所縁ヲ以テ寛弘元年(1004)ニ方リテ、南都春日ノ神爾勧請ヲ乞ヒ奉リシニ、速ニ勅許アリテ同年花垣ノ里ニ奉遷シ、則チ当村産土神ト崇敬シ祭祀ノ礼典闕怠ナク重ナリ奉事シテ聯綿歴然タリ。最モ地名五ケ庄トモ又予野トモ称シテ、乃チ予野、治田、白樫、大滝、桂五ケ村ノ冠タル所以ハ、已ニ花垣ノ名称アルヲ以テ也。故今変セス右等ノ邑ヨリ尊崇敬事ス」とある。
後明治四十一年(1908)九月十九日許可を得て三郷神社と改称、更に大正十三年(1924)
十一月十二日許可を得て花垣神社と改称現在に至る。なお社地の伊賀の八重桜は、昭和十二年(1937)十一月二十六日三重県天然記念物に指定せられ、元禄三年(1690)の春、松尾芭蕉はこの里に遊んで ひとさとはなもり一里は皆花守の子孫かやの句を残し、その句碑は参道入口の朱塗りの大鳥居の西側に建っている。
「平成祭データより」

「一里<ひとさと>は 皆花守の子孫かや」 
               芭蕉翁

 元禄三年(1690)芭蕉四七歳の作。
季語「花守」で春。芭蕉真跡懐紙に「この国花垣の庄は、そのかみならの八重桜の料に備へられ侍りけるとかや、ものにも書つたへられ侍れば」と前書する。奈良の八重桜は、伊勢大輔の「いにしへの奈良のみやこの八重ざくらけふ九重ににほひぬるかな」(『詞花集』)の歌にも有名な桜。
『沙石集』等の説話集に、平安の昔、一条天皇の后上東門院が奈良興福寺の八重桜を京に移そうとしたところ、僧徒らが強く反対、后はその風雅心に感心し、伊賀国余野<よの>の庄を興福寺領に寄進、花垣庄となづけた。
 これより、里人は毎年奈良に赴き花垣を結い、花の盛り七日間は宿直<とのい>を置き守らせた、との話がある。

 三月下旬頃、芭蕉はここ花垣庄を訪れ、古の風雅を偲び、土地の人に挨拶の意を込めた即興句。句意は、「ここ花垣の庄は、その昔、奈良の八重桜の咲く頃は花垣を結い、里人が宿直をして桜の花守をしたという由緒深いところである。今でも、この一里の人たちは皆、花守の子孫なのであろうか。」
「案内板より」

 石碑の後方にも、手入れの行き届いた花壇がありました。

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