氷室神社
ひむろ

ご祭神 闘鶏稲置大山主命(つげいなぎ)
    大鷦鷯命(おおささぎ)
    額田大中彦命

鎮座地 奈良県天理市福住町浄土184

Google マップ(to:氷室神社)
氷室神社鳥居
“氷の神”という我が国でも珍しい神を祀った社である。社伝によると、允恭天皇の時代(430)の創祀にかかるという。明治維新の変革期に貴重な古文書や縁起の類がほとんど散逸してしまい正確な資料を得ることは困難である。(※ 奈良市氷室神社)
氷室神社 拝殿
 往古「闘鶏(つげ)」または、「都祁(つげ)国」と呼ばれた頃に冬季の氷を氷室にかこい毎年夏季に朝廷へ献上し、このために皇室の崇敬ことのほか厚かった。『日本書紀』(仁徳天皇62年条)に「額田大中彦皇子が、闘鶏に猟された時、野中に盧叢のようなものを見つけ、闘鶏の稲置大山主命を呼んで問われたところ、『氷室といい、土を丈掘って茅萩を敷き、氷をその上に置きその上を草で覆っておくと氷は夏になってもとけません。暑いころ酒にひたして飲用するものです』と答えた。皇子はその氷を持ち帰って天皇に献じられ、天皇は歓喜せられた。これ以後冬期に氷を貯蔵し春分に至って始めて之を散す…」と氷室の発見から皇室へ献上するに至るまでの事情がのべられている。その允恭天皇の時に、この氷室の守護神として祀ったのが当社である。『延喜式』主水司に氷池風神九所のうち大和国一所にあたり毎年11月に氷池神祭が行われるとある。
 中世に氷室神社は福住七郷の鎮守として、領主福住氏が神主となって奉祀した。福住氏は、宗職の代に最盛期を迎えて福住の東北隅に氷室城を構えたが当社所蔵の春日版嘉禄本大般若経奥書に「大和国山辺郡福住庄氷室宮御宝前御経也宗職(花押)時天文八年(1539)己亥8月5日」とある。宗職は筒井順慶の家老となった後、永禄2年(1559)嫡子宗永に神主を譲渡し同年6月17日に奉告祭祝詞を当社に納めて隠居した(吉田家文書)その後筒井一族の滅亡とともに福住氏も衰退、神社の祭祀権も郷民の手に移った。

例祭は10月15日。
当日は氷室旧跡のお旅所で古式による神興の渡御が行われ、氷神信仰の講社も参詣してにぎわう。神社に天正12年(1584)根生田(入田)村神事帳箱、慶長8年(1603)の鰐があり、かつては境内に別当神宮寺があった。なお、当社後方の室山は昔、朝廷への献氷をとった茅萩池の跡や氷を貯蔵した氷室跡と伝える所、六ヵ所が現存している。境内社はもと各地区に鎮座していた

三柱神社  御霊大神
       天照皇大神
       八幡大神

二柱神社 春日大神
      白山大神

琴平神社・津島神社 津島大神 厳島大神が明治維新に際し、順次合祀された。
拝殿から本殿を見ると… 境内の真中に木があって…
 境内の真中に木があって、拝殿にたくさんの書き初めが貼ってあったせいでしょうか。懐かしい小学校の、木造校舎を思わせる雰囲気でした。
〜再現氷室〜
所在地 奈良県天理市福住(福住小学校の近く)

Google マップ(to:古代氷室)

古代氷室について
 
「日本書紀」仁徳天皇六十二年の条に額田大中彦皇子が闘鶏に狩りに来られたとき、光るものを発見されこの地方を治めていた闘鶏稲置大山主命を喚してたずねたところ、天然氷の貯蔵方法である氷室であることがわかった。
 これより以後、毎冬期に氷を貯え夏期に献上するようになったと記されている。昭和六十三年平城京長屋王邸跡発掘調査で「都祁氷室」「都祁氷進始日」(ツゲノコオリヲハジメテハコブヒ)と書かれた木簡が出土し、氷室の造り方と長屋王邸へ運んだ責任者が記されていて、古代の史実が証明された。このころの氷室跡は福住中学校裏山や福住小学校北側山林内など数多く残されているが、貴重な資料であるため岡本輝三様の山林を提供していただき、新しく復元したものである。
〜立札より〜
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