平群石床神社
へぐりいわとこ

ご祭神 剣刃石床別命
鎮座地  
現在社 奈良県生駒郡平群町井戸ノ上734 
旧社 奈良県生駒郡平群町越木塚石床783
● 消渇神社
 延喜式神名帳に「平群石床神社大。月次 新嘗。」とある神社で、旧社地は越木塚石床にあって越木塚集落下方の断崖に高さ約6m横幅約10数mの巨石が残されているが、古来ここの御神体として祀られてきた。祭神について、明治の神名帳に剣刃石床別命とされているが、大和志料では日本惣国風土記に饒速日尊とある。明治四十四年九月二十七日境外摂社として、越木塚小字井戸上の素戔鳴神社と七社神社を合併したが、大正九年二月二十三日付許可によって境外摂社所在の現在地に本殿と拝殿を設けて大正十三年十月二十四日に旧社地から遷座した旨届出ている。
石床神社由緒記 平群村越木塚青年団建設
 平群石床神社は醍醐天皇の御代紀元千五百八十七年延喜式神名帳に記され式内大社にして諸祭には畏くも朝廷より奉幣の御事あり御創立舒明天皇の三年即ち紀元千二百九十一の歳肇国創業の御功神饒速日尊を祀らせ給いしに創る。高さ九米巾十八米余餘の巨石を御神体とする古代の神社形式を保ちこの巌下より湧出する清水は萬病の薬になると「和名抄」に載せられたり境内の消渇神社は分霊の祀る社なるべし。
 
(古代祭祀の巨石遺跡あり南三〇〇米)
 正面瓦葺覆屋の中に三社並立の神殿があり、中央が、石床神社。流造素木で屋根は桧皮葺。
 遷座された本社がはじめて社殿を持つことになったが、御神体はやっぱり陽石類似の自然石という。左右の二社はともに春日造で朱塗りの桧皮葺。
消渇・石床神社 平群町越木塚
 消渇神社は、本来は地域の産土神である正勝の神として祀られていた。室町時代に、旅の僧信海(しんかい)が
腰の病を治してもらってから、下半身の病気に御利益があるとして村人に信仰されるようになる。江戸時代には社名から女性の病気や性病に効果があるとして京都祇園からの参拝者もあり、参道に茶店が出るほど賑わったという。願掛けには境内階段下の屋形で土の団子を一二個つくりこれを供えて祈願し、願いが叶うとお礼に米の団子を一二個お供えする。
 石床神社は、大正十三年(一九二四)に旧社地より消渇神社境内奥の現在地に合祀された。拝殿前に天保五年(一八三四)の狛犬が、奥に寛文七年(一六六七)の石灯篭が奉納されている。瓦葺きの覆屋内に三つの社殿があり、中央が石床の神である。また、左右の社殿には太玉命と本来の祭神である素盞鳴命を祀っており、拝殿の奥には神篭石(かみごおりいし)がおかれている。

境内の看板より〜
 境内に鎮座の消渇神社(しょうかち)
 古来、素戔鳴神社の末社で今の石床神社の真上の丘陵上に鎮座し、婦人の守護神として遠近の人々の信仰の厚かった神社である。

 左の写真の額には下記のように書いてありました。ちゃんと、土の団子を作るところがあるのですね。お団子用のミニ三宝も常備してある。
 作ってみました、私もね。

「土の団子」ならぬ「泥団子」
まるで「泥団子@鶏のつくね風」
水分がちょっと多かった…。

 しかし、気は心と申します。
不細工な団子でも、神様は「よしよし、わかったぞい」と思って下さることでせう。
よろしくお願いします。


 お礼参りには「米団子」持参で。

 
   団 を と 消
   子 供 き 渇 土
   を え は 神   
   供 満 土 社 の
 社 え 願 の へ   
   て の 団 祈 團
 務 下 と 子 願  
   さ き 十 の 子
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       個    
 
 消渇神社の左上丘陵上に鎮座する七社神社。土塀に囲まれた広庭の奥にかつて七社山の祭神であったのをここへ遷座されたと伝えられる。
石燈籠に「七社大明神天明八年(1788)申十二月越木塚村座中」とある。神殿は素木の春日造。

 お社の前に「那羅志大神」と書かれた板が置いてあった。
石床神社旧社地 平群町越木塚
越木塚集落の南東部、伊文字川流域を見おろす位置にあり、本殿や拝殿は当初からなく、鳥居と社務所があっただけで、崖面に露頭した高さ約6m、幅10数mの巨大な「陰石」を御神体としている。『延喜式』に記載のある式内社で、祭神は剣刃石床別命(けんじんいわとこわけのみこと)貞観元年(859)には従五位上を授けられている。
 地域での磐座(陰石)信仰が窺え、古い信仰形態を伝える貴重な神社である。
 大正十三年(1924)に集落内の素盞鳴神社[現:石床神社]に合祀されている。この付近には花崗岩の巨石が多数露頭し、鳥土塚古墳や西宮古墳に運ばれており、古墳時代〜飛鳥時代の石材産地でもある。

〜境内の看板より〜
 社地は、下方の道路から眺めると、城壁を思わせるような石垣上にある相当広い平坦地が広庭で、今は雑草の繁みの中にわずか数段の石段と一基の石灯籠を残している。
 元々この神社は社殿も拝殿もなく、石段下の木造鳥居と右側に面して社務所があっただけという。大和志に「在二越木塚村一称曰二巌上祠一傍有二巨石一名二石床一」とでてくることを掲げ、「石床ハ一ニ乳床ト称シ、鐘乳中ヨリ出ヅルモノナリト云フ。然ラバ古、此巨石ヲ乳床ヲ産出スルアリテ、当時其ノ霊ヲ祭リ、直ニ社名トナセルモノナルベシ」と述べている。
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