竃山神社
かまやま

御祭神 彦五瀬命

鎮座地 和歌山県和歌山市和田

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 旧官幣大社。釜山神社とも記す。
北接して彦五瀬命墓(竃山墓)がある。
 記紀に、神武天皇東征の際戦死した天皇の彦五瀬命の墓が紀伊国の竃山にあると記されるが、「続風土記」は和田村「竃山墓」の項に当所がその竃山で、直ちに社を建てて斎祭したので、竃山墓と竃山神社は一所であると記す。

 「延喜式」神名帳にみえる名草郡「竃山神社」に比定され、「紀伊国神名帳」には「従四位上竃山神」とある。
 永徳元年(1831)七月二十五日の竃山神社神主職宛行状によると、紀伊国造家によって鵜飼五郎が神主に補せられている。中世を通じて鵜飼家が神職を世襲していたらしく、天正十四年(1586)五月の鵜飼吉政神宝等覚(鵜飼家文書)に「彦五瀬命に奉仕和太御庄鵜飼祖贄持之子神より、鵜養半太夫迄。弘治年間に当りて七十九代相続き、以来歴数ふること二千弐百余年なり」と記され、また天正十三年三月、羽柴秀吉の紀州攻めによって神宝や古文書などが焼失し、神田八町八段が没収されたとする。

 社伝によると慶長五年(1600)麻野幸長が入国して小祠を再建し、寛文九年(1669)徳川頼宣によって社殿が再興されたという。しかし、以後も寺社奉行直支配の神社であり、一戸の氏子も一石の社領もなく社運の衰微は著しかったと伝える。現在の例祭は十月十三日。
 竃山墓は「延喜式」諸陵寮に遠陵として「彦五瀬命、在紀伊国名草郡、兆域東西一町、南北二町、守戸三烟」とあり、紀伊国唯一の「延喜式」所載陵墓である。
 しかし、康和二年(1100)7月17日の解状(朝野群載)は、紀伊国などの陵墓が格式に規定されていながらも国司たちによって兆域が侵されたり、陵戸などが収公されている状況を述べている。その後所在地も不明確になったが、寛文九年には区域を定めて殺生を禁じている。

 しかしこれは竃山神社の領域を固定したもので、竃山墓の所在はなお不明であったらしく、寛政六年(1794)閏十一月二十三日に本居大平は、「なぐさの浜づと」に「此尊の御陵さだかならねば、そこかしこたづねけれどそれとおばしきたづね得ざりけり」と記している。明治十四年(1881)陵墓兆域を調査のうえ画定した。墳丘は高さ約9mの独立丘上にあり、直径約6m、高さ1mで、裾に護石が配されている。

 祭日 正月十五日。

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